素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

200年後を見据えるとは

2013年07月02日 | 日記
 毎日新聞の〈日曜くらぶ〉でのシリーズ『神宮とおおやしろ~日本の原像を探る~』を毎週楽しみに読んでいる。遷宮の年ということもあって雑誌などでも伊勢と出雲の特集は多いが、このシリーズは丹念な取材がなされており一味ちがう。

 今回は遷宮に使用するヒノキの話。「200年後の木を育てる」というタイトルである。テレビの特集などでも取り上げられていたが、20年に一度の遷宮に使うヒノキと茅の確保が大前提となるので私たちの目に見えない所で尽力している方々が大勢いる。これこそ縁の下の力持ちというに値するものである。

 なにしろ1回の遷宮で使われるヒノキは一万数千本である。内宮(93㌶)の南側一円に宮域林(5450㌶)を持ち、そのうちの約3000㌶が用材確保のための人口造林地にあたる。5450㌶と言われてもピンとこないが東京都世田谷区並みの広さという。地元であるがあらためて広さに驚く。それでも造営用の膨大な量の木材を出し続けるのは限界があったという。

 持統天皇時代の第1回遷宮(内宮690年・外宮692年)から用材を出し始め、以後、600年は何とか持ちこたえた。しかし、第33回式年遷宮(内宮1304年・外宮1306年)では三重県内の別の山に移り、その後愛知県、岐阜県、長野県に移り現在は岐阜・長野県境から木曾ヒノキを調達している。今回700年ぶりに宮域林から樹齢80年を超える用材約6000本(全体の20%余)を間伐材として切り出し、遷宮用に供給することができたという。

 そのスタートとなるのが大正12(1923)年、森林資源や水源を守りながら用材を供給する計画が立てられ、同15年に実施に移された『200年計画』と呼ばれる遠大な計画である。200年たてば、それ以後はこの宮域林から永久に用材を提供できるようにするというものである。

  宮域林内の天然林にある母樹と呼ばれる立派なヒノキから種を取り、苗を育て、3年たったら植樹する。という作業を継続していく。

 そのようにして育成される中の優良樹にペンキのマークがつけられる。白い一重は、200年後に胸高の直径が60㎝になる見込みがある「御用材候補木」。二重の印は、200年後に直径1mを超えそうな「大樹候補木」である。
 候補木は周りの木を切ってもらうなど大事に育てられる。とはいっても過保護ではない。周囲を取り払うのは強風にもませるためでもある。計画期間の200年間には1959年に直撃した伊勢湾台風クラスの暴風雨もある。それをも耐えしのいでこそ真の良材だという。

 この話を読んでいるとガウディのサグラダ・ファミリアなんぞは驚くに足りないと思ってしまう。今の政治家は歴史、歴史とよく言うが100年も満たない範囲でしか見ていないのでは?もっと日本の歴史を長く見て話をしてもらいたいなとも思った。教育は100年の大計という言葉もある。もう一度よく噛みしめたいものだ。

 ちょっと気分が大きくなった。

 
コメント
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