大学時代の文学科の仲間(ミニ同窓会メンバー)の手島純から
『社会科・地歴科・公民科指導法』
(2022年2月、星槎大学出版会発行、かまくら春秋社発売)という、
いかにも面白くなさそうな本が送られてきた。
私が、俳句短歌誌『We』をいつも送っているから、
そのお礼ということだそうだ。
読んでくださいとは言いません、
私のところだけでもながめてください
という、お手紙が入っていたので、
仰せの通り、ながめていた。
正直、高校と中学の社会科免状を取得はしているが
教員をしているわけではないしあまり読む気はしない。
が、
予想に反し、面白い箇所があった。
それで、少し紹介しておこうと思う。
まず、この本は、
「新学習指導要領の研究と実践的展開」ということで
現役の社会科教師と研究者の合計12名が執筆(編者:手島純)し、
高校の新学習指導要領実施がこの4月に迫っているのにあわせて、
学生と現役の教師にむけて制作されたものらしい。
面白かったのは、
8人の執筆者のコラム欄(他からも好評だったとか)と
井上恭宏のソクラテスについての授業実践の記述。
井上のコラムは、簡単に述べるとこんな感じかな。
哲学はギリシャ語では「フィロソフィア」、
ソフィア(知)をフィロス(愛)するという合成語だそうで
このフィロスは「友への愛」すなわち、対等なものへの愛
だから、哲学とは「知と友だちになること」なのだそうだ。
そして、哲学は、
「自分が愛しながら愛について考えるといったタイプの学問であり」、「哲学はどのようなテーマであっても、いつでも、だれもが『初心者』であり、『当事者』となるような営みなの」だという。
ただ今現在生きている「この社会」についても、「初心者」のように学び続け、「当事者」の一員として創りあげていくのだ、ということのようだ。
そうして、井上の公民科「公共」の授業実践の要は、
・ソクラテスの「悪法もまた法なり」の意味を探って
現代社会に生きる人間としての在り方生き方を考える。
・「先人の取組や知恵に触れる」ことが、「いま」につながらなければ意味がない。
ソクラテスは、脱獄をすすめられてもそうはせずに、
「悪法もまた法なり。不正を不正で返すのはよくない」として、
毒ニンジンを飲んで刑死した。
井上によれば、
ソクラテスは、「自分さえよい思いができれば、正しさなんてどうでもいい」という考えが社会をダメにするのであり、人間にとって大切なのは「みんなに共通する本当の正しさ」を探求することだと考えたのである、
という。
私は、このくだりを読んで、
この、自分が生きている社会で普遍的な真理を探究する姿勢が大事、
あるいはそのように努力すことが大事だと言ったのだと思った。
そして、このことが、「公共的な空間を作り出」す上で重要なことかなと。
上手く要約できなかったかもしれないが
ご容赦ください。
手島純は、
以前は神奈川県で35年間高校教師をしていて
今は星槎大学で教鞭をとっている。
小田実(おだまこと)の『何でも見てやろう』に影響を受けたそうで
世界を旅して教材を手に入れ、
それらを授業で生徒に見せて対話する、
のが社会科教師の喜びだったという。
(文中敬称略)
これから、高校の社会科教師になろうと思っている人には
必読の書かと思います。
問題意識をもって、この異色の書に触れてみるのもいいかもです。
実は、私には、ソクラテスの句があります。
2015年頃だったか、不本意なことがあったのでした。
杯あおりあおりつつ羽化ソクラテス 知青
知を愛するソクラテスでさえも
世の中の悪をどうする事も出来なかったし
無為自然という概念を解いた老子でさえ
政治をするならドブの中で遊んでいる方がマシと言って世の中を投げ出したのですから・・・
仏教的に言えば煩悩がある限り人間の中の悪は
絶えないという事かも知れませんね
コメントありがとうございます。
世の中も人間も
悪や欲がある限り
なかなかに難しい存在ですが
またその悪も欲もないと
面白くもないようで~
だから
思い悩み、求めることかと