続・知青の丘

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俳句作品「魂を焚け」 加藤知子 (『連衆』96号/2023年1月発行より)

2023-03-15 23:06:04 | 俳句
有難いことに、
竹本仰さんから鑑賞文(全12句について)をいただいたので
折角なので、ブログにUPしておきます!

魂を焚け      加藤知子

子をあやめ他人あやめろあやめ群れ

竹本仰(以下全て)→連日のように殺人の報道があり、ドラマでも殺人ばかり。人間にとって、殺人はやはり魅力はあるのだろうか。意外と純文学では殺人が少ない。リアルに考えると、そこに想像力はいかない。生きることに向くこと。そう言えば戦争体験者はその中身を殆ど語らない。大岡昇平のように殺さないのが人間を超えた叡知と洞察した方もいた。現在はもう大量破壊兵器の使用に言及する。堕落を遥かに下回って、人類の自己放棄が着々と進む。本当の殺人は、むしろこちらか。

汚い爆弾((ダーティボム)作り広げろ昼花火

→AIは人類の滅亡をどのように予測しているだろう。本当は凄く容易なことなのかもしれない。面倒ならば、ボタン一つで事が済むだろう。しかし、プーチンだって国民の人気取りに余念はない。ゴーゴリの「検察官」当時の田舎の上級役人とすこしも変わりない。けち臭い祖国愛と名誉欲のために、ボタンを惜しんでいる。ああ、人間は限りなく卑小だと思う。そう言えば、昔、演劇の本で、「次のページにはあなたがこの世で一番憎むべきものがいます。どうぞ、開けてごらんなさい」として、そのページは銀色の表面をした紙の鏡の面になっていた。気の利いた趣向だった。

詩を書くな戦争だけをさるすべり

→新興俳句の時代を思い出させる。最近、「西部戦線異状なし」を読み、気づいたのだが、戦争も嘘だらけで、現場にいる人間だけにしかわからないことだらけのようだ。そして、真の意味の反戦とは、敵兵と心情を通わせてしまうことだという。たしかに真情を吐露すれば、戦争は無意味になってしまう。偽りなしに成り立たないのが戦争である。戦後に飢餓のように名作が生まれるのはそのせいかもしれない。逆にバブルの時代ほど偽りに満ちた世もなかった、ちょうど戦争と酷似している。

蝉のしぐれて先進国のゴミとなれ

→蝉しぐれに国境はない。人類が生きる英知は反転すれば、インチキな卑屈な所作であるかも知れない。前記「西部戦線異状なし」では、何のために戦争するのかは、王様が歴史に名を残すためだという下りがある。一発大きい戦でもしてみねえ、いっぺんに有名人よ。確かにその通りだ、ナポレオンにしてもヒトラーにしても、みな一度はその予感にふるえおののいた人達だろう。あの馬鹿を村一番と江戸で云い。先進国自体がゴミになる日。蝉しぐれは変わらない。人間はその愚かさを証明しに地上に現れた一晩のサーカス団だったのかも。

火を放て人間燃えろ桜流木

→流木を見ると、心をそそられる。或いはそこに人間との対比を読んでいるからか。吉本隆明は詩の中で、人間は木だ、と言っていたが、その通りだと思う。ただ手と足と頭のくっついた木だとすると、流木に身をつまされるのも納得できる。共食いもできる。現に枯れかけた奴に火をつけて暖をとっている。可哀そうな木だ。そして、その延長で経済的にも軍事的にも戦争が好きで好きでたまらず、地球を燃やしかけている。確かに地球は一部厚かましい木の為に全体が壊れかけている。

秋時雨どくどく途切れ魂を焚け

→愁殺ということばがある。武田泰淳だったかの随筆で『秋風秋雨人を愁殺す』だったか、読んだ記憶がある。秋の時雨はひとをひどく滅入らせる。無力感を増長させる。泰淳の随筆では男の革命家に業を煮やした秋瑾という女傑が刑死する戦前の時代の話で、要は一つの革命が成功する裏にはその呼び水に数多の失策、目を見張るべき失策があるのであり、それなしには成り立たなかったという話。秋瑾は魯迅などが日本にいる頃、夫と別離し日本に留学、別の過激な流派で故国の革命をもくろんでいたが、日本刀の切れ味をひどく愛し持ち帰って常に座右に置いていたという。が、最後は向こうの例の牛刀みたいなもので斬首刑にされた。クーデター決行直前情報が漏れたのだ。斬首された秋瑾の最期のつぶやきも、さもあらんと読んだ。

スラム子の銃の合奏秋夕焼

→これは遊びの風景であるか。ならば一攫千金の予行演習だろうか。銃によって金がつかめるなら、そんな近道はまたとあるまい。だが実際にそういうことなのだろう。そういう目を通してみれば、銃を使うまでもなくスマホであり詐欺であったって、それは可能なのだろうから、容易に犯罪は思いつける。言葉もまた本来武器であるため、情報化社会の裏を突けば、国さえ乗っ取れるものなのか。一つの行為における表と裏、悪は一途に最短距離に人類を席捲してゆくようだ。

詐欺充ちよ情報溢れ霞網

→何事にも構造があり、悪は常に最短距離で事をなしうる。善の裏には容易にその等価をはみ出すほどの悪があふれ、それは実に合理的で、善の見事な模倣犯である。旧約聖書の初めの殺人はカインとアベルの話である。十戒にある悪を組み合わせれば、殺人どころか、国家の建設や人類の破滅までもすぐに答えとして出そうだ。だが、本当に決定的な悪にいかないのは、一応人間には人間の誇りというのがどこかで作用しているからなのだろうか。という不思議を思う。

ビル横積み学校を冬海に入れ

→この句、初めはお魚のアパートのことかと読んでいた。すると、慈海に栄養満ち足りていいのだろうなと思ったが、こう解しても現代社会を横倒しにする企図がありありで面白かったというまま、いったん置いてみたところ、『連衆』誌上で目にして、また見方が次第に変わってきた。横倒しにするのはお魚たち、逃げて海中に次々飛び込むのか。と、ド氏の『悪霊』の冒頭のエピグラムに引用された聖書の句を思い出した。悪魔が降り移った豚群の集団自殺の話である。開高健の『パニック』にも似たネズミの大群の話があったが、そういう系譜で見ると、さらにこの句は楽しく見えてくる。横積みにしたのは誰か、それは考えなくともいい。誰かが必ずそうしてくるに違いないのだ。たとえばプーチンのミサイルによらずとも。ドストエフスキーの悪魔、開高健のメカニズム、ともまた違う現代の無名性。誰かがやる、必ずやる、それは可能な中で、おこなわれる。そして、お魚になる。では、どうなるのか?と、そういう問いかけで終わったところの、見事さ、面白さだろうか。人為の果てにあるそんな風景を想像させるところを感じたのだ。

アルプス毀せ土あかあかと冬の雨

→文化とは何か、と問い直すか。一敗地に塗れる、というが、そこからを問う姿勢があり、よいと思った。安吾『堕落論』をふと連想する。スターリンがアラル海一つを地上から消し去ったように、プーチンも地球一つを宇宙から消し去るのかも知れない。だが、そこまでの天才はあるまい。核ミサイルではアルプスは毀せない。摂理という神のみがなしうる。最近だんだんと、プーチンがサルに見えてきた。サル真似をする人間はサルより醜い。平田オリザの戯曲に、大学の生命科学研究室のグループが、着せ替え人形のように机上でハサミを使い色んな紙の上に動物の結合を試みるという遊びのシーンがあった。一番グロテスクなのは、サルとヒトの結合という結論だった。至上の高貴さを求める先には、人間のするサル芝居が見えてくる。人類、サルに帰るか。とそういう思いで読んだ。

全地球戒厳令を蒼々と

→誰の出す戒厳令かと思うと、指導者の恐怖とその肚が見えてくる。戒厳令のわからぬ者、一歩出よ。便利なものがあるものだ。そこが限界と言ってしまうようなもの。『西部戦線異状なし』のある会話の中にあったが、戦争をおっぱじめたモン同士殴り合いをしてりゃいいものを、という延長で現代も成り立っている。代理でしか生きられない国民。まさに国家の前にオール無名者の世界。自分が死にたくないために多くの死を要求する。我々は彼の取引の道具でしかないのか。然り。人間世界の矛盾、愚劣さはこんなにも日々を埋めている。そう考えると、フォイエルバッハ、マルクス以降、神を捨てた代償はけっこう高くついて、スターリンもヒトラーもプーチンも、おのれ一個の命は数十億にも等しいと思って生きているので、潜在的には我々も同じなのだろう。ならば核戦争という代償もまた等価と思えてくる。そういう明らかな計算をさせるものは、誰か。

メビウスの絡む戦争竹の花

→戦争があっての平和、また戦争があっての繁栄。メビウスの輪は回り続ける。実は人類の頭脳の中にそういうサイクルは先天的に埋めこまれていたのかも知れない。多分、それこそが自己の存在確認のために必要とされていたのでは、とも思う。ハンナ・アーレント『全体主義の起源』を思い出す。時おり、中にカフカやプルーストの名が出ていたのもそういうことか。ユダヤ人という存在が世界を倒立して正像としてとらえていたのか。平和の中にいる虚偽、国民として生きている欺瞞。それらはみな嗅覚の問題ではないか。覆い隠しようのない自画像を、毎日見ているのを不思議と思ってはいけないのだろう。人類の故郷はまさに戦場なのかもしれない。

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ヤクルト400を毎週届けてもらっているのですが
何だったか応募用紙が入っていたので
応募したら当たりました!

村上宗隆選手ガンバレ~

なんなんでしょう、
今年は幸先よく当たってきました~
アレでしょおー
コレでしょおー


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