教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

私の夢、それとは別に科学史と科学哲学

2006年06月07日 22時02分45秒 | 教育研究メモ
 今日も期待通りの起床ができず、昼起き。起きるのに難儀していたとき、挨拶回りにフトン屋さんが来る。彼等は、私の住んでいるアパートには、出稼ぎと思われる労働者の方々が多く入っており、その方々を対象に挨拶回りをしているようです。当然私は対象外であり、中には学生とわかったとたんに興味を失って足早に去る人もいるのですが、今日の人は少し会話をしました。私は大学院生で教育学を専攻しているんです、と説明したところ、先生になるんですか?(教育学=学校教員という図式が彼等の頭のなかにはあるみたい)と彼に問われ、先生の先生になりたいんです、と私は答えた。それに対して彼は、狭き門でも夢を追っているなんてかっこいいですね、とコメントをくれた。
 まあ、社交儀礼だと思うのでまともに喜んでいても仕方ないのだけど、この言葉は私に次のことを気づかせてくれた。そうだった、先生の先生になりたいっていう願望は、私の夢だったんだ、ということ。現場で多発する多様な課題に取り組むため、レベルの高い問題解決の能力を身に付けた教師を育てたい、そういう夢。だから、小手先の技術や知識ではなく確固とした教師像を明らかにしたいと思い、卒論では沢柳の教師論をテーマにしたのだし、集団による教育問題の解決システムを明らかにしたいと思い、修士課程以降は大日本教育会・帝国教育会における研究活動をテーマにしたのです。目の前の論文業績に振り回されて、そんなことまで忘れてたとは。ちょっと目が覚めた思いがしました。
 その後、運動。それから、先日Y先生に渡した論文を手直し。来週月曜日にその論文を使って討論会をするらしいので、内容には手を着けず、めちゃくちゃだった註書きを訂正。その後、科学史の論文を読む。
  
 今日は、T・クーン「科学史と科学哲学との関係」(我孫子誠也・佐野正博訳『科学革命における本質的緊張』みすず書房、1998年所収)を読みました。これは、1968年3月にミシガン州立大学で行われた講義録です。科学史家の仕事の性格と科学哲学に対する意義を論じたものです。この講義においてクーンは、科学史家と科学哲学者の目的・分析方法は互いに別物であり、科学史と科学哲学を一つにすることはできないとする一方で、両者の連携は重要な意味を持っているため、活発な対話を展開すべきだと主張しました。なお、クーンがここで使った「科学史」とは、科学的概念・方法・技法の発展に関する部分を指し、科学の社会的装置(科学教育、科学の制度化、精神的・財政的援助パターンの変化)に関する部分ではありませんので注意。
 この講義においてクーンは、科学史家の目的は過去についての詳細な叙述・物語であり、科学哲学者の目的は普遍的視野に基づく一般命題であるとし、両者を同時に行うことはできないのですが、両者を交替して行うことはできるとします。また、自分のゼミの学生がある過去のテキストを研究した時の事例を用いて、科学史家はそのテキストの著者の思想を再構築しようとする傾向(原資料すなわち自分が研究するデータによって自分の仕事を鍛え上げる)し、科学哲学者はそのテキストが書かれた以降の時代に生み出された一般命題・弁明を用いて自らの論証を構築しようとする傾向(相手の著作や先輩の仕事を注意深く批判することによって、すなわち過去との分析的対決によって自分の見解を鍛え上げる)を指摘しました。
 上記のように科学史家と科学哲学者は根本的に異なる存在であるのですが、科学史家にとって研究対象時期・領域の哲学思想がなくては科学史の中心問題へ取り組むことはできないし、科学哲学者にとって科学史の知識・経験がなくては自分たちのものとは違う今まで棄てられてきた思考様式・体系の完全性を探究することはできないとします。科学哲学者は、過去における理論は、存在した時期において(正確でないことが多いが)あらゆる自然現象の全範囲をつねにカバーしているのであるが、その発達・評価過程は正しく再構築するまでそれ以上知ることはできない点において、科学史から学ぶことがあるといいます。そのため、科学史の科学哲学に対する意義は、事実の提示と編成による歴史叙述にあるというのです。クーンは、極めて慎重に論理を限定しているので、この講義録の論理をそのまま教育史と教育哲学の関係に適用することはできませんが、もし適用できるとすればかなり有用な指摘になりそうです(誰か言っているかもしれませんが)。
 なお、今日読んだクーンの講義録の中で、一番共感を得たのは以下の言葉です。2段目の文章は、「カバーされているからではなくて、」を「カバーされているからではない。」とすると読みやすいかな。ちょっと紹介。

 「時間的な展開に対する歴史家の関心と、過去を研究することによって得られる新たなパースペクティヴとは、歴史に特別の有利さを与える」(18頁より)
 
 「歴史がもし説明的なものだとすれば、それは叙述が一般法則にカバーされているからではなくて、『いまや私は何が起ったかわかった』と読者が言うときには、それは同時に『いまやそれは意味をなす。私は了解した。以前私にとってたんなる事実の羅列であったものが認識可能なパターンとなった』と言っていることにもなるからである。」(25頁より)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする