教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

東京-松山間の移動に約1週間かかった時代

2008年10月07日 23時55分55秒 | 教育研究メモ
 腰はなかなか完治しません。やっぱり、そう簡単には治らないか…
 仕事をしながら研究を続けています。今日は基礎研究として、大日本教育会・帝国教育会の会計報告を見ながら、収入額を整理していました。単純作業をしていると、集中しすぎてつい遅くなってしまいます。
 さて、先日、「大日本教育会・帝国教育会の群像」で町田則文のことを書いたときに、こっちのブログで紹介しようと思って忘れていた情報に気づきました。明治時代の国内移動の難しさについての資料です。『町田則文先生伝』には、以下のように、町田が茨城から愛媛へ転任する際の細かい日程と、転任した年に帰郷した時の日程が記されています。

 明治19年9月8日奉職確定→9日帰郷→17日上京→22日横浜から汽船(広島丸)に乗船→23日神戸→25日神戸から汽船(第二三光丸)出発→26日伊予三津浜到着・松山着→28日愛媛県庁出頭・辞令。
 明治19年12月26日帰郷の途に上る→31日帰郷。

町田は高給取りでしたから、基本的には、明治19(1886)年の時点で、最良の移動手段を使ったと考えてもいいでしょう。明治19年、憲法制定前・帝国議会開設前の日本において、当時それほど不便でない手段を使って、東京から愛媛松山まで移動すると、どれくらい時間がかかるか、を示した資料だと思います。横浜→松山間は、汽船を使ってぼちぼち移動して約5日。松山→土浦間は6日(年末は急いでいたようなので、最速移動時間と考えてもいいかも)。
 今では、飛行機を使えば、1時間20分で東京から松山まで移動できます。東京から四国までほぼ1週間かかるなんて、今では考えられません。町田は、松山行きの旅程に着く際には、相当な覚悟を決めたことでしょうね。

(※在京日数はこの記事ではあまり意味がなかったようなので、修正しました)
コメント (2)
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