教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

教育学術研究会編『教育辞書』における「研究」概念

2017年03月24日 23時55分55秒 | 日本教育学史
 拙稿「教育学術研究会編『教育辞書』における「研究」概念」(中国四国教育学会編『教育学研究紀要(CD-ROM版)』第62巻、2017年3月、370~375頁)が活字化されました。

 教育学術研究会とは、明治・大正・昭和を通して、教育雑誌『教育学術界』『小学校』や教育学術書の編集をしていた組織です。明治34(1901)年に高師教授兼帝大講師の大瀬甚太郎を中心にして創立され、帝大・高師・私学の教育学者や各地方の教育研究者が集う研究の場をつくりました。今年度はずっと明治期のこの研究会を追っかけていたのですが、その研究成果の一つです。
 教育学術研究会は、戦前日本における教育に関する学術的論争の主要な場でした。その研究会が、明治36(1903)~38(1905)年に編集刊行したのが『教育辞書』でした。昨年の教育史学会大会で発表した「明治30年代半ばにおける教師の教育研究の位置づけ―大瀬甚太郎の「科学としての教育学」論と教育学術研究会の活動に注目して」で明らかになったことのうちに、研究会創立当初には大瀬によって新しい教育学研究の構想が示されていた一方で実際の「研究」はまだ模索段階であった、という事実がありました。そこで私が注目したのが、創立後まもなく編集刊行された『教育辞書』でした。『教育辞書』には、「研究」がどのように語られたのだろう、どのような「研究」の構想が示されたのだろう、という疑問に取り組んだのがこの論文です。
 結論としては、『教育辞書』における「研究」概念は一つの科学を独立させる手段であったこと、特に教育学の「研究」は観察重視であり、学者だけでなく現場の教師をも担い手として位置づけていたこと、他の科学研究の成果によって補いながら著書・法令・規程だけでなく視察報告書や教科書・教授案なども「研究」の資料になると考えていたことなどを明らかにしました。ここからわかることは、『教育辞書』において「研究」論が明治30年代大瀬教育学の構想や研究会創立の方針に基づきながらさらに発展したことや、学者の教育学研究はもちろん現場の教師による教育学研究をも推進するような方法論・資料論が展開したこと、教育学研究において科学研究の最初期段階に位置する観察を重視したことなどです。
 今後の教育学史研究や教員史・教育研究史研究の発展につながる、大事な事実を発見できたかなと思っています。とくに、日本教育学史における沢柳政太郎『実際的教育学』や吉田熊次による東京帝大教育学講座の開講の位置づけを見直す必要があるのではないか、と最近思い始めています。また、『教育辞典』の執筆者構成から、東京帝大・東京高師の学者はもちろんですが、哲学館(現東洋大学)の学者もこのような教育学史上重要な事業に大いに関わったことがわかりました。
 以下、論文構成を示しておきます。

 はじめに
1.東京帝大・東京高師・哲学館関係者による教育の専門的辞典の編纂
2.「研究」による科学の独立
3.教育学研究の構想

 (1)「研究」の方法―観察の強調
 (2)「研究」の担い手と資料―教師の研究者化と多様な研究資料
 おわりに
コメント
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