教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

小学校低学年教材「かぼちゃのつる」について

2018年07月11日 23時55分55秒 | 教育研究メモ
 まだまだ復興は遠いですが、私の勤務校のある地域と、私は無事です。
 さて、今日は道徳の教材研究についてのメモ。

 「かぼちゃのつる」…
 道徳授業の有名な小学校低学年教材です。周りの忠告を無視して、わがままでつるをのばしつづけるかぼちゃが、最後に痛い思いをするというお話です。たくさんの先行実践があり、私のところの学生も指導案を作るときによく使おうとします。わがままをしすぎると自分が痛い思いをするよ、という教訓を教えるには、とてもわかりやすくて便利な教材です。しかし、その程度の教訓を6~7歳の児童が知らないとは思えません。また、これからの道徳科は「考え、議論する道徳」を目指すので、単純に教訓を教えるような授業では時代逆行も甚だしいでしょう。では、どう使うべきなのでしょうか。

 私は学生と一緒に考えているくらいでして、答えをもっているわけではありません。ただ、考えるポイントは次のところにあるだろうと思います。
 児童が考え、議論するには、何かと何かの価値の葛藤が必要です。この教材で葛藤しているのは何でしょうか。一つの価値は、もちろん「わがままはいけないこと、おさえるべきこと」(節度・節制)という価値です。もう一つは何でしょうか。私は、「~したいという欲求」だと思います。【個性の伸長】や【正直】にかかわると思っています。「わがまま」は人に迷惑をかけるから「わがまま」というわけで、人に迷惑をかけないときはただの欲求であり、それ自体は悪いことではありません。子どもの主体性や自主性の基盤は子ども自身の欲求ですから、教育上ではむしろ奨励して伸ばすべきものです。また、自分の欲求を変にねじ曲げるよりも、素直に受け入れることができる方が、まっすぐ育つこともあります。問題は、自分の欲求を優先して、他人に迷惑をかけることにあるでしょう。この教材で学ぶべきは、ここにあるのではないでしょうか。
 つまり、「かぼちゃのつる」で学ぶべき事は、「自分のしたいことをすること」と「他人の迷惑になること」とはぶつかることがあり、「自分のしたいことをすること」を他人の迷惑にならないようにおさえるにはどうすればよいか、ということではないでしょうか。そこで課題になるのは、「自分のしたいことをすることと、他人の迷惑にならないようにすることとの葛藤をどう乗り越えるか」について、どうやったら児童たちが考えることができるかだと私は思います。児童たちにとって、他人の迷惑にならないようにすることが大事なことは、とっくの昔に知っていることです(幼児期にしっかり他人とかかわって育っていれば、ですが…)。児童たちが知りたいのはそんなわかりきったことではなくて、自分のしたいことがあるときにどうやったら他人の迷惑にならないで済むか、というところではないでしょうか。
 そうであれば、かぼちゃがなぜつるを伸ばしたかったか、というところをしっかりおさえないと、価値の葛藤は生まれません。教材には何も書いていないので、想像するしかないですね。かぼちゃを育てたり、観察したりした経験があれば、子どもたちも想像することができるでしょうか。先生が、かぼちゃがつるを伸ばす理由についての知識を児童たちに提示する必要があるかもしれません。どちらにしても教師が一工夫する必要があります。そのうえで、どうすればよいかという議論(というか話し合い)にもっていきたいので、時間配分も苦しいところです。教師の腕の見せ所です。
 かぼちゃがどんな欲求をもっているかなんてありえない、そんな非科学的なことを考えてどうするのか、と思わないでもないですが、それを言っちゃあ低学年教材に多いファンタジーな読み物はすべて使えないことになります。また、そこを考えないと、この教材はただのありきたりの教訓を教える教材にしかなりません。こんな教材を無理して使う必要はないと言うのは簡単ですが、使おうとする先生が絶えないのも事実。これからの道徳授業で使うなら教師がしっかり研究し、適切な工夫をする必要があるんじゃないかと思います。

 道徳科の授業は、よりよい生き方をみんなで考える過程です。今回は、教材「かぼちゃのつる」でそれが可能かどうか、その可能性を探ってみました。
 前期はうちの3年生の模擬授業の指導をしているので、道徳教材に触れることが多々あります。その中で思ったことを書き綴りました。何かの考えるきっかけになれば幸いです。
コメント
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