以前、私がK県の大学で非常勤をしていたとき、「教材研究・社会」という科目を受け持っていました。この科目は、基本的には、小学校教員志望者に社会科の教材研究について講じるものでした。そのときいくつか作った教材のなかで、弥生時代の高床倉庫を事例に、教材研究の重要性を伝えようとしたものがあります。活動を手段として教育的価値のある内容(または学習指導要領の内容)を実現させること、子どもだけでは気づくことができない価値ある内容へ教師がいざなうことが重要であること、といった目標に向けた教材です。いろいろな点で苦労した科目でしたが、この教材を使った回は、学生たちのウケもよかったような気がします。
この教材は、自分のささやかな実践経験やその反省も多分に入っていて、思い入れのある教材です。しかし、現在の私は、小学校教員養成課程や社会科(または地理歴史科)にかかわる教職科目を受け持っていません。後任の先生に「使っていいですよ」ということでお譲りしましたが、せっかくなので公開してみたいな…と常々思っておりました。ただ、ちょっと長いですし、社会科教育の専門家に見られるかもしれないのは恥ずかしいなと思って、お蔵入りにしていました。
しかし、教員志望者や現職者が、教材研究の重要性に少しでも気づく機会になればいいなぁと思い(小学校教員や社会科教員を目指す読者がいるかどうか知っているわけではありませんが)、以下に掲示してみます。「マシ」などの表現が不適切のようにも思われますが、学生の心に届く教材にするためにも、私自身の正直な思考過程を示そうと思って書いた表現ですので、そのままにしております。
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(1)高床倉庫という教材
①「みんなで力を合わせて高床倉庫をつくろう」
高床倉庫に関する理解を、単なる文字ではなく、身をもって理解させたいと思った先生がいた。この先生が担当する6-1の子どもたちは、すでに高床倉庫がどんな形で建てられ、どんな工夫がされているか勉強しており、それなりに興味を持っているようだ。
「さあ、今日から、運動場に高床倉庫を作ってみよう!」
子どもたちは、運動場へ出て作り始めた。子どもたちは目を輝かせて作業に当たっている。最初はめんどくさがっていたAくんも、やり始めると少しずつ作業に加わっていた。そして、1ヶ月後、ついに立派な高床倉庫ができあがった。
数日後、授業研究のため外部の人がやってきて、次のように聞いた。
「この高床倉庫はよくできていますね。子ども達が作ったとうかがいました。すごいですね。先生は、どんな目標に基づいてこの活動をさせたのですか?」
先生はこう答えた。
「いえ、とにかく高床倉庫を作らせることを目指しました。子ども達は目を輝かせて作業していましたよ。楽しそうでした。」
これでは、質問した外部の人はガッカリするだろう。確かに、子どもたちは、自分の興味関心に基づいて作業をしており、作業を楽しんでいたらしい。しかし、問題は、一ヶ月もかけた授業の目標が、「高床倉庫を造ること」になっている点にある。子どもたちは、「高床倉庫を造るために」高床倉庫を造っていたのである。子ども達は、大工になるために高床倉庫を造っていたわけではないはずだ。しかも、この先生は「子ども達が楽しそうにしていた」ということは気づいているが、子ども達が作業を始める前に気づかなかったことをどれだけ気づいたか把握してない。百歩譲って、「Aくんの周りに友達が増えた」とか「Bさんがノコギリを使えるようになった」とかいった変化があればまだマシだが、そもそも、この変化は高床倉庫づくりをしたから実現できたことなのか、もともとできていたことなのかすらわからない。
ともかく、この場合、この先生の教える「高床倉庫」という教材は、倉庫づくりという活動を子どもたちにさせた程度の意味しかない。高床倉庫である必要はあったのか。同じ木工作業をさせるなら、むしろ遊具を作った方がもっと意味があるのではないか。こういった疑問をぬぐえない実践になってしまう。
②「高床倉庫とは、~で~で…」
先生は唐突にこう言う。
「さあ、今日は、高床倉庫について勉強しよう。」
「高床倉庫とは、弥生時代に米を保存した倉庫だ。床が高くなっていて、米が湿気にやられることはない。倉庫を支える柱には、ネズミ返しといって、こういう板がついているから、米をネズミに食べられることもない…」
そこに、子どもがたまらず聞く。
「先生、もしも、その板をネズミがかじったらどうするの?」
先生はこの質問にとりつく島もなく、
「こういう板がついていることが、高床倉庫の特徴だから話しているんだよ。そういうもしもの話をしても仕方ないので、話を進めるよ。」
こういうやりとりを聞いてどう思うだろうか。先生は高床倉庫の特徴を教えることに夢中で、子どもの疑問にとりつく島もない。この先生はおそらく「歴史にもしもはない」と信じている。社会科(歴史)の内容の論理にただただ従い、子どもの疑問など取るに足らないことなのかもしれない。場合によっては子どもの揚げ足取りにも見えなくもないが、この子はおそらく、「ネズミは建物をかじって穴を開けてしまう」という知識をすでに持っており、もしかしたら「ネズミが板をかじって穴を開けてしまったら、倉庫に入られて米を食べられてしまう」と思って、そうならない工夫はなかったか聞きたかったのかもしれない。
このとき、この先生の教える「高床倉庫」という教材は、すでに弥生時代への興味がある子どもにとってはまだしも、発言した子どもの知りたいこととは完全に離れてしまっている。これでは、この子の高床倉庫に関する理解は、説明や板書された単なる言葉や文字にすぎないだろう。
③「実物を見せたら、あとは自由に」
もう一つ、異なる事例を。
ある先生は、近くの公園に高床倉庫の模型があることを知っていて、子どもたちを連れて行った。そして、子どもたち全員に、「見つけたよカード」を渡してこう言った。
「さあ、高床倉庫を見て、見つけたことをこのカードに書いていこう!」
子どもたちは倉庫に近寄って、思い思いに見つけたことを書いていく。先生は、それを満足そうに見ているだけではなく、子どもたちに近寄ってどんなことを書いたか聞いて回る。そこでまたネズミ返しの話で申し訳ないけど、ある子どもがこう言った。
「先生、倉庫の柱に木の板がついているよ。」
先生は、次のように答える。
「これはネズミ返しといって、ネズミが倉庫の中に入らないようにしているんだよ。」 すると、子どもは疑問を重ねてきた。
「でも、ネズミが板をかじって穴を開けてしまったら、倉庫に入られて米を食べられてしまうよ」
他の子どもも、「確かになぁ」と言っている。そこで先生は、「じゃあ、この板は意味ないのかな?もし、なかったらどうなる?」と返した。子どもは、「ないよりはマシだけど…」と言った。先生はさらに「高床倉庫は弥生時代の建物だけど、それより前の倉庫はどうだったのかな?」とたたみかける。子どもは、「えっ、縄文時代には稲作はないって習ったよ。倉庫なんてあったかな?」「縄文時代の建物と言えば、竪穴住居や横穴住居しか知らないよ」と言っているうちに、「そうか!」と言う子どもが現れた。その子曰く、「この板をつけることそのものがスゴイ工夫なんだ!縄文時代にはこんな工夫すらなかったんだよ!」というわけだ。
この場面では、先生の発問によって、ネズミ返しが単なる板から、弥生時代に発明された新しい工夫であることに子どもたちは気づいたわけだ。学習指導要領には第6学年の社会科の内容として「農耕の始まり」についてわかることを挙げているが、このとき、子どもは、自分が見つけた(興味を持った)ネズミ返しを通して、弥生時代における農耕の始まりについてよりあざやかな理解を得たことだろう。
しかし、同じ場面でも、次のように対話を進めることもできる。
「先生、倉庫の柱に木の板がついているよ。」
「そうだね。いいところに気づいたね。そうそう、あと5分くらいで学校に帰るからそろそろ帰る準備をしてね。」
この先生は、子どもの発言を一回受け止めているから、最初の①の事例に出た先生よりはマシだ。しかし、高床倉庫のネズミ返しに気づいたことを確認し、説明しただけで、時間が来たらスムーズに学校へ帰ろうとするのはもったいない。これは、作業確認の対話にとどまっており、子どもの着眼を受け止め、もり立て、価値ある内容へいざなおうといった発想が、対話の構えとしてどこにもない。これでは、その子やそれを聞いていた他の子どもたちの学びは深まらない。
さらに、倉庫の柱に木の板がついているのは、見学に来て実物を見たから気づいたことだろうか? 学校の図書コーナーに備え付けている資料集を見て、すでに気づいていたのではないか? 先の事例のように、先生の働きかけで、それまで得た知識・経験以上の知識・経験を得たならばまだよいが、そもそも柱の板を発見することは写真や黒板の図示でできなかったのか? この事例では、こういった疑問がわき上がってくる。
<出典>
奈須正裕『教師という仕事と授業技術』(学力が身に付く授業の技1、ぎょうせい、2006年)と、白石の実践経験とをアレンジ・参照して作成。
高床倉庫などの写真は、IPA「教育用画像素材集サイト」( http://www2.edu.ipa.go.jp/gz/)にたくさん公開されています。
この教材は、自分のささやかな実践経験やその反省も多分に入っていて、思い入れのある教材です。しかし、現在の私は、小学校教員養成課程や社会科(または地理歴史科)にかかわる教職科目を受け持っていません。後任の先生に「使っていいですよ」ということでお譲りしましたが、せっかくなので公開してみたいな…と常々思っておりました。ただ、ちょっと長いですし、社会科教育の専門家に見られるかもしれないのは恥ずかしいなと思って、お蔵入りにしていました。
しかし、教員志望者や現職者が、教材研究の重要性に少しでも気づく機会になればいいなぁと思い(小学校教員や社会科教員を目指す読者がいるかどうか知っているわけではありませんが)、以下に掲示してみます。「マシ」などの表現が不適切のようにも思われますが、学生の心に届く教材にするためにも、私自身の正直な思考過程を示そうと思って書いた表現ですので、そのままにしております。
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(1)高床倉庫という教材
①「みんなで力を合わせて高床倉庫をつくろう」
高床倉庫に関する理解を、単なる文字ではなく、身をもって理解させたいと思った先生がいた。この先生が担当する6-1の子どもたちは、すでに高床倉庫がどんな形で建てられ、どんな工夫がされているか勉強しており、それなりに興味を持っているようだ。
「さあ、今日から、運動場に高床倉庫を作ってみよう!」
子どもたちは、運動場へ出て作り始めた。子どもたちは目を輝かせて作業に当たっている。最初はめんどくさがっていたAくんも、やり始めると少しずつ作業に加わっていた。そして、1ヶ月後、ついに立派な高床倉庫ができあがった。
数日後、授業研究のため外部の人がやってきて、次のように聞いた。
「この高床倉庫はよくできていますね。子ども達が作ったとうかがいました。すごいですね。先生は、どんな目標に基づいてこの活動をさせたのですか?」
先生はこう答えた。
「いえ、とにかく高床倉庫を作らせることを目指しました。子ども達は目を輝かせて作業していましたよ。楽しそうでした。」
これでは、質問した外部の人はガッカリするだろう。確かに、子どもたちは、自分の興味関心に基づいて作業をしており、作業を楽しんでいたらしい。しかし、問題は、一ヶ月もかけた授業の目標が、「高床倉庫を造ること」になっている点にある。子どもたちは、「高床倉庫を造るために」高床倉庫を造っていたのである。子ども達は、大工になるために高床倉庫を造っていたわけではないはずだ。しかも、この先生は「子ども達が楽しそうにしていた」ということは気づいているが、子ども達が作業を始める前に気づかなかったことをどれだけ気づいたか把握してない。百歩譲って、「Aくんの周りに友達が増えた」とか「Bさんがノコギリを使えるようになった」とかいった変化があればまだマシだが、そもそも、この変化は高床倉庫づくりをしたから実現できたことなのか、もともとできていたことなのかすらわからない。
ともかく、この場合、この先生の教える「高床倉庫」という教材は、倉庫づくりという活動を子どもたちにさせた程度の意味しかない。高床倉庫である必要はあったのか。同じ木工作業をさせるなら、むしろ遊具を作った方がもっと意味があるのではないか。こういった疑問をぬぐえない実践になってしまう。
②「高床倉庫とは、~で~で…」
先生は唐突にこう言う。
「さあ、今日は、高床倉庫について勉強しよう。」
「高床倉庫とは、弥生時代に米を保存した倉庫だ。床が高くなっていて、米が湿気にやられることはない。倉庫を支える柱には、ネズミ返しといって、こういう板がついているから、米をネズミに食べられることもない…」
そこに、子どもがたまらず聞く。
「先生、もしも、その板をネズミがかじったらどうするの?」
先生はこの質問にとりつく島もなく、
「こういう板がついていることが、高床倉庫の特徴だから話しているんだよ。そういうもしもの話をしても仕方ないので、話を進めるよ。」
こういうやりとりを聞いてどう思うだろうか。先生は高床倉庫の特徴を教えることに夢中で、子どもの疑問にとりつく島もない。この先生はおそらく「歴史にもしもはない」と信じている。社会科(歴史)の内容の論理にただただ従い、子どもの疑問など取るに足らないことなのかもしれない。場合によっては子どもの揚げ足取りにも見えなくもないが、この子はおそらく、「ネズミは建物をかじって穴を開けてしまう」という知識をすでに持っており、もしかしたら「ネズミが板をかじって穴を開けてしまったら、倉庫に入られて米を食べられてしまう」と思って、そうならない工夫はなかったか聞きたかったのかもしれない。
このとき、この先生の教える「高床倉庫」という教材は、すでに弥生時代への興味がある子どもにとってはまだしも、発言した子どもの知りたいこととは完全に離れてしまっている。これでは、この子の高床倉庫に関する理解は、説明や板書された単なる言葉や文字にすぎないだろう。
③「実物を見せたら、あとは自由に」
もう一つ、異なる事例を。
ある先生は、近くの公園に高床倉庫の模型があることを知っていて、子どもたちを連れて行った。そして、子どもたち全員に、「見つけたよカード」を渡してこう言った。
「さあ、高床倉庫を見て、見つけたことをこのカードに書いていこう!」
子どもたちは倉庫に近寄って、思い思いに見つけたことを書いていく。先生は、それを満足そうに見ているだけではなく、子どもたちに近寄ってどんなことを書いたか聞いて回る。そこでまたネズミ返しの話で申し訳ないけど、ある子どもがこう言った。
「先生、倉庫の柱に木の板がついているよ。」
先生は、次のように答える。
「これはネズミ返しといって、ネズミが倉庫の中に入らないようにしているんだよ。」 すると、子どもは疑問を重ねてきた。
「でも、ネズミが板をかじって穴を開けてしまったら、倉庫に入られて米を食べられてしまうよ」
他の子どもも、「確かになぁ」と言っている。そこで先生は、「じゃあ、この板は意味ないのかな?もし、なかったらどうなる?」と返した。子どもは、「ないよりはマシだけど…」と言った。先生はさらに「高床倉庫は弥生時代の建物だけど、それより前の倉庫はどうだったのかな?」とたたみかける。子どもは、「えっ、縄文時代には稲作はないって習ったよ。倉庫なんてあったかな?」「縄文時代の建物と言えば、竪穴住居や横穴住居しか知らないよ」と言っているうちに、「そうか!」と言う子どもが現れた。その子曰く、「この板をつけることそのものがスゴイ工夫なんだ!縄文時代にはこんな工夫すらなかったんだよ!」というわけだ。
この場面では、先生の発問によって、ネズミ返しが単なる板から、弥生時代に発明された新しい工夫であることに子どもたちは気づいたわけだ。学習指導要領には第6学年の社会科の内容として「農耕の始まり」についてわかることを挙げているが、このとき、子どもは、自分が見つけた(興味を持った)ネズミ返しを通して、弥生時代における農耕の始まりについてよりあざやかな理解を得たことだろう。
しかし、同じ場面でも、次のように対話を進めることもできる。
「先生、倉庫の柱に木の板がついているよ。」
「そうだね。いいところに気づいたね。そうそう、あと5分くらいで学校に帰るからそろそろ帰る準備をしてね。」
この先生は、子どもの発言を一回受け止めているから、最初の①の事例に出た先生よりはマシだ。しかし、高床倉庫のネズミ返しに気づいたことを確認し、説明しただけで、時間が来たらスムーズに学校へ帰ろうとするのはもったいない。これは、作業確認の対話にとどまっており、子どもの着眼を受け止め、もり立て、価値ある内容へいざなおうといった発想が、対話の構えとしてどこにもない。これでは、その子やそれを聞いていた他の子どもたちの学びは深まらない。
さらに、倉庫の柱に木の板がついているのは、見学に来て実物を見たから気づいたことだろうか? 学校の図書コーナーに備え付けている資料集を見て、すでに気づいていたのではないか? 先の事例のように、先生の働きかけで、それまで得た知識・経験以上の知識・経験を得たならばまだよいが、そもそも柱の板を発見することは写真や黒板の図示でできなかったのか? この事例では、こういった疑問がわき上がってくる。
<出典>
奈須正裕『教師という仕事と授業技術』(学力が身に付く授業の技1、ぎょうせい、2006年)と、白石の実践経験とをアレンジ・参照して作成。
高床倉庫などの写真は、IPA「教育用画像素材集サイト」( http://www2.edu.ipa.go.jp/gz/)にたくさん公開されています。
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