教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

時代に応じた女子教育を考える

2017年03月01日 22時31分07秒 | 教育研究メモ
 この20年ほどの間、大学改組が激しく進んでおります。その中で女子大学は時代遅れの産物として、どんどん共学化されています。
 しかし、女子教育は本当に時代遅れの産物なのでしょうか? 私はこの考え方に疑問です。そう思うのは、時代遅れとされているのは良妻賢母主義であって、女子教育そのものにはもっと別の可能性があるのではないかと思えてならないからです。

 女子教育は、時代と共に変化してきました。江戸期の女子教育は、いわゆる「三従の教え」に基づく教育でした。明治期の女子教育は、初等教育においては共学と別学の併存、中等教育においては良妻賢母主義の教育でした。良妻賢母主義の教育は、江戸から明治・大正にかけて、女性が子育てから除外される存在から子育ての中心となる存在へ移行し、国家社会の構成要素が「家」から「家庭」へ移行する中で、必要になった教育でした。
 良妻賢母主義は長らく日本の近代化に貢献してきましたが、高度経済成長期後にその基盤が崩壊しています。性別役割分業に基づいていた「国家・社会」や「家庭」の形が、根本から変化しているからです。性別役割分業というのは「男は外(公)で仕事、女は内(私)で家事・子育て」という社会のあり方ですが、今は「男も女も外・内で仕事・家事・子育て」というあり方に移行しています。男性(夫・父)が家庭を支える収入を一人で稼げなくなり、女性(妻・母)が補うようになって、今では男性をしのぐ収入を得る女性も増えてきました。性別役割分業はもはや成立しないので、「男はもっと稼ぐべき」とか「女は家事や子育てをしっかりすべき」という言説は時代遅れの言説として受け止められるようになりました。このような考え方・言説を支える形で機能していた良妻賢母主義の女子教育は、今や機能しなくなっています。

 戦後の女子校・女子大の思想・実践は、女性らしさを伸ばしながら良妻賢母主義からいかに脱却するか、という難しい課題に取り組んでいたと思われます。私の所属する広島文教女子大学・附属高校の学園訓を見ると、女性らしさを重視する「謙虚で優雅な人になりましょう」という言葉が使われる一方で、「真理を究め正義に生き勤労を愛する人になりましょう」「責任感の強い逞しい実践力のある人になりましょう」という性別を問わない近代的な人間らしさを重視する言葉が使われています。男性らしい女性になるのではなく、女性らしい人間になることが目指されているように思います。
 このような女子教育の改革が始まったのは、大正期(とくに第一次世界大戦後)だと思います。大正期の女子教育は、良妻賢母を基本としながら、社会で活躍する女性を育てる教育に変化を始めました。女子教育のなかで、体育奨励や、高等教育の重視、科学思想の普及、情操教育の奨励、勤労や社会貢献の意識・習慣形成などが積極的に主張されるようになります。次第にそのような実践も増えていきました。これらの女子教育論を見ていると、論旨は確かに良妻賢母主義に基づいてはいますが、それだけにはとどまらない可能性を感じます。いずれにしても、時代に応じた女子教育が目指され、確かに実践が作り出されたということは事実です。
 つまり、女子教育は時代に応じて変化します。そうすると、今の女子教育に時代遅れなものがあるとすれば、悪いのは時代に合わない考え方・構造であって、女子教育そのものではないと思います。

 私はこれまで共学の総合大学で1年、元女子校の短期大学で5年働いてきました。そして今は、女子大で勤務して3年目です。女子教育のなんたるかを考えざるを得ない環境のなかで働いてきて、来月で大学専任教員生活10年目を迎えます。そんな私が、女子学生の教育・学修環境として女子校・女子大に意義はあるかと問い直した場合、大いにあると思います。
 私が常々実感しているのは、女子大は「女性が男性に頼らない(頼ることのできない)環境」であるということです。ジェンダーの問題性が叫ばれ始めて長い時間が経ちましたが、それでも、世の女性は、どうしても男性に頼ろうとする傾向があります。特に、女子大から共学に移行した学校の場合、どうしても女子学生が多いのですが、自主的・自立的に活動しなければならない場面で、女子学生は自ら男子学生を前に押し出して後ろに下がろうとする傾向があります。もちろんそんな傾向のない立派な女子学生もいますが、自主的・自立的に活動できる、またはその経験をすべき場面にもかかわらず、多くの女子学生たちが自分でそのチャンスを放棄してしまっています。特に、リーダーシップの経験はとても貴重です。押し出された男子学生にとっては貴重な経験になります。しかし、女子学生にとっては自分で自分の成長機会を放棄しています。共学では、女子学生の教育・学修環境として十分な成果を得られないことがあるのです。
 今後何十年と経つ内にこのような傾向はなくなるかもしれないし、共学化した元女子校に育つ学生に限られた傾向かもしれませんが、私は今の日本人女性にとって、女子校の女子教育には捨てがたい教育的意義があると感じています。女子校は、女子学生が自分の教育・学修機会を自ら放棄することはできません。何事においても、男性に頼らず、自分で活動するしかないからです。この環境を前向きにとらえ、自ら活動することができた時、女子校は女子学生に自主的・自立的に活動して自ら成長する機会を提供することができます。
 女子校で育った人は、共学で育った人と違う、とよく言います。そもそも民主主義は、様々な主義主張・考え方の人々を育てることによって成立します。民主主義を実現するには、女子校で育った女性も、共学校で育った女性もいていいし、むしろいるべきではないかとまで思えます。

 時代遅れなのは特定の女子教育の考え方であって、女子教育そのものではない。今すべきことは、女子教育を時代遅れのレッテルを貼って全滅させることではなく、むしろ時代に応じた女子教育を求めてそのあり方を問い直すことなのではないでしょうか。やり方によっては、共学よりも、むしろ女性の自立を促す女子教育というものがあるような気がしています。
 女子教育の可能性の探りどころは、やはり時代に応じた女性の生き方をどう見極めるかにあるように思います。これから女性はどんな理想的女性像を持てばよいのでしょうか。目指すべきは、いわゆる「男性化」した女性でしょうか。「性別のない人間」でしょうか。個人が良妻賢母を目指すことは良いと思いますが、硬直化した一定の「女性らしさ」を押しつけるような女性像も時代遅れでしょうね。女子校の女子教育とともに、共学における女子教育を考えることも重要だと思います。女子教育を論じるには、やはり女性の将来像をどのように構想するかが大事です。それは私のような男には難しいことですが、女性とともに生きていく上ではとても意義のある難題だと思っています。女性の率先的な活躍が期待されます。率先して活躍できる女性を育てるためにも、女子教育の改革は重要だと思います。

 3年前から他大の非常勤講師として女子教育史を授業で取り上げるようになり、今年度から所属大でも取り上げることができる立場になりました。そして、今年度の講義に内外の履修生たちがとてもよく反応してくれたため、時代に応じた女子教育のあり方とは何だろうと真剣に考えるようになりました。今後とも、学生たちに問題提起していきたいと思います。男子学生にも考えて欲しいです(教員は女子教育に必ず携わるので、教員になる学生には特に!)。自立した女性を育てる上でも、女子教育のあり方を自ら問い直す経験は貴重だと思います。女子教育は差別的だ、ジェンダー問題の再生産だというところからさらに乗り越えて、女性をどのように育てるか、今後ともみんなと一緒に考えて行きたいです。
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