新学期開始!

2006年04月16日 | 心の教育



 先週は、私が教えている大学の3つの授業のうち2つが始まりました。

 どんな新しい星の子たちに出会えるかという期待感と、なかなか腰の重い、「ダリー」とか言っている現代の若者を引っ張るエネルギーが大変だなというおっくうさとの入り混じった気持ちで、火曜日、大学へ出かけました。

 毎年学生数が増えて困っていた社会学部は、今年は選抜するつもりで、去年の定員700名の最大の教室から、300名くらいの教室に変更してもらっていました。

 ところが、今年はなぜか――単位を取りにくくすると去年言ったのが裏シラバスか何かで広がったのでしょうか――100名あまり(?)しか来ていませんでした。

 まだ、試し受講期間中なので、今週もう少し増えるかもしれませんが、それにしても去年までよりはかなり少なくなりそうです。

 正直ちょっと拍子抜けの感じもありましたが、一方的な授業ではなく、ワークショップ形式の授業もしたいと思っていて、何とか人数を絞りたかったので、喜んでいます。

 例年のように「ぼくは本気だから、本気でない学生とは一緒にやりたくない。幸いこれは必修じゃなくて選択授業だから、本気じゃない人は、選択しないことにして帰ってくれるかな」という「帰れコール」から始めたのですが、例年と違って、マナーについて話し、おしゃべりを抑えて受講の姿勢になってもらうための時間はほんの30分で済んでしまいました。

 おしゃべりをしていた数組の学生が出て行った後は、きわめて静かに聞き始め、それでも後ろの方の席にいた学生が多かったので、

 「本気なら前に出てきてくれないかな。好きな歌手のライブ・コンサートに行って、わざわざ後ろの席に坐るのはいないだろう。まだ、この授業が好きになったわけじゃないだろうけどさ。本気なら、もっと前に来て学ぶ姿勢を示さないとね。」

と言うと、ほとんどの学生がすぐに動いて、前に出てきてくれました。

 そして、初日から内容のある授業を始めることができました。

 これは、初めから人数の少なかった初年度を除き、2年目から5年目までなかったことです。

 「人間は、言葉を使って文化を形成して生きている動物で、言葉で世界の秩序を体系的に捉えた〈コスモロジー〉なしには生きられません。

 前近代のコスモロジーは、神など人間を超えた大いなる何ものか(日本の場合は、神仏・天地自然・祖霊)がまずあり、それによって人間と人間以外の生き物と物とが創られたり、支えられていたりするという構造になっていました。

 ところが、近代の理性・科学の主客分離、分析という方法によって、神は観察、実験、推論などの方法で証明できない、それどころか反証できてしまうために、神は否定されます。ニーチェのいう「神の死」です。

 そして、神の死は、最初は人間が神(の名を借りた迷信や抑圧的な秩序)から解放されるという近代のプラス面をもたらしたんです。ルネッサンス-ヒューマニズム、ですね。

 しかし、やがて科学の方法で世界を分析していくと、世界はすべて原子という「物」で出来ていると見えてきました。

 さらに人間も分析的方法で調べていくと、器官、細胞、高分子、分子、原子と還元され、結局は「物」だということになります。

 近代のコスモロジーは、最初は、神がいなくなって、人間と物だけがあるというかたち・ヒューマニズムになったのですが、やがて人間も物なので、世界はすべて「物」にすぎないという唯物主義・物質主義になっていきました。

 そして「神(という絶対なもの)はいない」、「すべてはモノにすぎない」のなら、人生の絶対の意味はないし、絶対の倫理はないということになったんです。

 ニヒリズムという近代の決定的なマイナス面ですね。

 ニヒリズムに陥った近代人は、必然的に、突き詰めて考えると死にたくなるか、考えないで自分がいちばん大事・自分のために生きるというエゴイズム、そして自分の好きなことをすることにしか生きる理由はない――でも結局は無意味なんですが――という快楽主義になるほかなくなっています。

 そういう近代的なコスモロジーを小さい時から学ばされてきた諸君が、しらけたり、空しくなったり、死にたくなったりするのは、ある意味で当然なんだよね。

 だけど、現代の科学の世界そのものでは、そういう近代的な空しくなるばらばらコスモロジーではない、新しいコスモロジーが常識になりつつある時代になっています。

 ところが、事情があって、日本の高校までの教育では、近代科学は教えても現代科学をしっかり教えていません。

 特に現代科学のコスモロジーの面はまったくと言っていいほど伝わっていないんです。

 だから、みんな考えると空しくなる。それはしょうがないことなんです。

 でも、現代のコスモロジーをちゃんと学ぶと、世界が空しいどころか、輝いて見えてくるんです。

 世界が存在し、自分が生きていることの、根源的な意味が見えてきます。

 統計的にいうと、授業を最後まで聞いてアンケートに答えた人の90%がそうなります。

 前期は、そういう生きる元気が湧いてくるコスモロジーを紹介していきます。

 そして後期に、そういう現代科学のコスモロジーと日本の精神的伝統である仏教のエッセンスが、驚くほど対応している、という話をします。

 そうすると、日本人として生きていることにも自信が湧いてくるはずです。

 そういう話が、面白そう、自分にとって意味がありそう、本気で学びたい、と思った人は、また来週も来てください。」

 去年までなら、学生たちの顔が輝いてくるのは授業がだいぶ進んでからだったのですが、今年はもうかなりたくさんの学生たちの顔が輝いてきました。

 「今年はますます面白くなりそうだぞ」と思いながら、講師室に帰ってくると、今年度から非常勤で来られることになった(これは、もうまるで「共時性」!という感じだったですが)、『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』(朝日選書)の小澤徳太郎先生からの伝言が残されていました。

 私の授業を去年取って、今年も単位にならないのに受講している学生が、月曜日1時限の小澤先生の授業に出て、私に紹介されたという話をしたのだそうです。

 で、メールで連絡を取り合って、結局、今週お会いすることになりました。

 早速、HPに公開している私の「自然成長型文明に向けて」を読んでくださり、「環境問題に関する基本的な見解が一致している」と言っておられましたので、そのことがさらに深く確認できるでしょう。

 そうしたら、もしかするとますます面白いことが起こるかもしれません。


 金曜日の文学部も似た状況で(人数は毎年もう少し少ないのですが)、さらにうれしい予想外だったのは、「帰ってくれないかな」と言っても、誰も帰らなかったことです。

 そして、「帰れと言っても帰らない以上は、本気だということだよね」と問いかけると、「はい」と声に出して答えてくれる学生も相当数いました。

 話の内容は、社会学部とほぼ同じでした(私は、講義や講演の原稿を作ることはほとんどなく、即興でやるので、まったく同じ話はしない、できないのです)。

 授業後、いちばん前で頬を上気させ眼を輝かせながら聞いていた学生に、「どうですか。面白かった?」と声をかけると、「もうわくわくしてしまいました。もっと聞いていたかったです」と言ってくれました。

 ……というわけで、今年度は絶好調の滑り出しのようです(今週木曜日の人間関係学部がまだですが)。

 コスモスの進化の流れの中にいることを自覚し、さらに進化の流れに能動的に参加する星の子が増えることを願いながら、楽しんで彼らとの学びを進めていこう、と思っています。

 ネット学生のみなさん、約半年遅れの後輩たちです。

 きっと、すごいスピードで追いついてきますよ。

 追いつき、追い越されないように、みなさんもさらに学んでください。


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随煩悩6-2:愛情欲求と不健全な嫉妬

2006年04月15日 | メンタル・ヘルス

 精神分析的な発達心理学によれば、生まれたばかりの人間・赤ちゃんは、まったく自分と他者と世界とが融合しているような心理状態にいるとされます。

 自他未分化であるために、これまでしばしば「覚り」と混同されてきました。

 しかし、自我以前(プレ・パーソナル)と自我以後(トランス・パーソナル)は自我状態でないというところが似ているだけで、ほとんどまったくと言っていいほど発達段階の違うものです。

 赤ちゃんの心は、未分化な自己中心性の状態にあり、それを「ナルシシズム」といいます。

 やがて自分とお母さんが別の存在であること、自分と世界が別のものであることをしだいに学習していき、長い成長期間を経て、ようやく「自我」を形成します。

 しかし心の奥・深層にナルシシズムの核は残り続けるといわれています。

 自我は、自分と他者・世界が分離していることを自覚しつつ、自分のナルシシズム的な傾向のある欲求と他者・社会・世界の要求することとの間にあって、調整・適応をしていく心の機能です。

 唯識が「マナ識」と呼んでいるのは、心の奥で「ナルシシズム」という核を残しながら、実体視された「自我」が形成された状態のことだと考えていいでしょう。


 さて、愛情に関する「嫉妬」の話です。

 私たちにはマナ識があり、したがって「我愛」という根本煩悩を抱えているため、世界と他者が、自分のために、自分を中心に存在していてほしい、しているべきだ、しているはずだというナルシシズム的な思い込みを――人により程度の差はあっても――持っているようです。

 愛情でいえば、まわりの(自分にとって重要な)人は私を愛するべきだ、誰よりも私をいちばん愛するべきだ、〔できれば〕私だけを愛するべきだ、という過剰な愛情への欲求・渇望を持ちがちです。

 しかし、親であれ、恋人であれ、伴侶であれ、友人であれ、私を中心に、私のために生きているわけではなく、私だけを愛するというのは無理な注文です。

 もちろん関係の近い・遠いというのはあって当然ですから、私にとって重要な人ができるだけ私を愛してくれることを望むのは、不自然でも不当でもありません。

 〈自然な欲求〉です。

 ある程度までは、「権利」だと言ってもいいでしょう。

 しかし、「愛情を独占する権利」というのはない、と私は思うのですが、どうでしょうか?

 愛情を独占したいというのは――程度はいろいろで、許容範囲というのがあると思いますが、いきすぎると――〈神経症的な欲求〉になってしまいます。

 嫉妬も、特に男女の関係では、程度が軽いものであれば、安定した誠実な関係を維持するために役立つことがあります。

 論理療法では、「健全な嫉妬」と「不健全な嫉妬」を区別しています。

 軽度の「健全な嫉妬」なら、愛情関係のスパイスになったり、関係持続のサプリメントくらいにはなるでしょう。

 しかし、過剰な独占欲から生れる「不健全な嫉妬」は、体験した人は誰でも身に沁みているように、まず自分をひどく苦しめます。

 さらに、少し冷静になってみればすぐわかるように、相手をひどく煩わせていることも確かです。

 そして、その結果、二人が幸せになるかというと、法則的に幸せにはならないようです。

 過剰な独占欲は、マナ識の我愛から生れる「貪り」つまり過剰な欲望なのです。

 そして過剰は欲望から生まれる随煩悩である「嫉妬」は、自分をも相手をも苦しめ煩わせるのですから、まぎれもなく「煩悩」ですね。

 不健全な「嫉妬」の薬は、まず嫉妬は自分も相手も誰も幸福にはしない「煩悩」であるということへのしっかりとした理解・気づきです。

 特に論理療法的な知恵としていうと、嫉妬は、相手の愛情を得たい、さらには独占したいという欲求から生まれるものですが、嫉妬しすぎるとうるさがられて相手の愛情を失うということへの気づきが大切です。

 得ようとしているものを失わせる感情は、まったく不合理な、損な感情です。

 嫉妬心が高まりかかったら、「私は、相手の愛情を得たいのだろうか、失いたいのだろうか。嫉妬することで、より多く愛情を得られるのだろうか、失うのだろうか。嫉妬を激しいかたちで表現するのと、穏やかなかたちで表現するか、あるいは今は抑えておくのと、長い目で見たら、どちらが自分の幸せ・満足につながるだろう」と考えるといいようです。

 「でも…」と言いたくなっている方、あなたは今感情を発散あるいは暴発させることと、長い目で見て幸せになることと、どちらが心理的に得になると思いますか? 得するのと、損するのと、どちらかお好きですか?

 ……あ、これは唯識の入門授業から唯識と論理療法の統合の話に進んでしまっていますね。

 今日は、ここまでにしましょう。



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随煩悩6:嫉(しつ)――分離-比較-優劣-嫉妬の心

2006年04月14日 | メンタル・ヘルス

 随煩悩というのは、病気に譬えるともっとも表面に現われてきた症状のようなものです。

 例えば、発熱とか痛みとかだるさとか腫れとか……。

 症状の背後には病気があります。

 例えば、風邪、感染症とか、糖尿、生活習慣病とか、ガンとか……。

 これが、意識上の根本煩悩に当たると言ってもいいかもしれません。

 さらに、病気の背後には、ウィルスとか生活の乱れや体質などなどがあります。

 これが、マナ識の根本煩悩でしょうか。

 比喩はあくまで比喩ですが。

 さて、今日のテーマ「嫉妬」は(も)現代の重大テーマの一つです。

 近現代のいわゆる先進国の多くは、自由主義・資本主義の国です。

 それは、近代的なばらばらコスモロジー(という分別知)に基づいた自由競争の社会です。

 そこでは、人は個人個人として分離しており、比較しあい競争しあう存在です。

 比較しあい競争しあっていると、当然、優劣が出てきます。

 というか、競争するということそのものが、比較して優劣を決めるということですね。

 そしてもちろん、そこではいつも優越していることがいいことです(「大きいことはいいことだ」)。

 しかし、みんなが競争しているのですから、みんなが優越することは不可能です。

 優越しているといえるのは、感覚的にいえば、一つの集団の中の10%くらいのものでしょう。

 例えば「できる子」というのは、40人クラスだったら、4,5番に入っている子ですね。

 10番以内なら「まあまあできる子」といった評価でしょう。

 ……あ、私はそういう比較・相対評価がいいと言っているのではありません。

 現代日本は、自由主義競争社会であり、社会のあらゆるところで徹底的に比較・相対評価がなされているという事実を述べているだけです。

 それに対して、私は、この授業全体を通して、一人一人の本質的な絶対評価をしたい、つまり「いのちの意味」を伝えたいと思っているのです。

 そういう意味でいうと、現代社会を容認しているのではなく、本質的な批判をしているわけです。

 さて、それはともかく、分離意識→比較・競争→優劣→少数の優越感を感じられる人と多くの劣等感を感じている人が発生する、という流れが必然的であることはおわかりいただけると思います。

 さて、多少であれ劣等感を感じる人は優越していると見える人に対して、どういう感情を抱くでしょうか?

 そうです、それが「嫉妬」なのです。

 いつの時代にも比較競争はあり、優劣もあり、嫉妬もあったのですが、現代の日本はそれが極端になっていると思われます。

 ばらばらコスモロジーに基づいた社会は、必然的に嫉妬という随煩悩を肥大化させます。

 そして嫉妬は、いうまでもなくとても嫌な苦しい感情ですね。

 社会システムそのものが優劣-嫉妬を煽るような本質を持っていますから、うっかりするとそれに巻き込まれて誰かに嫉妬し、その結果、自分が悩むことになってしまいます。

 そういう随煩悩から回復するための薬は、他者と自己との根源的なつながりと一体性をまず頭で理解する「知恵」です。

 つながって一つならば、比較する必要はない、どころか比較できないのです。

 だから、嫉妬する必要はない、どころか嫉妬はありえないのです。

 例えば一つの体の場合、あまりかっこうのよくない足がきれいな目に嫉妬する、なんてことは起こりませんね。

 もっと根本的に治療するためには、マナ識を浄化し、「平等性智(びょうどうしょうち)」という智慧に転換していく必要があるのですが、それはもう少し後でお話しすることになります。


 それから、「嫉妬」には、優劣に関する嫉妬だけではなく、もう一つ愛情に関する嫉妬というのがあります。

 これも大きなテーマなので、次回、少し触れようと思います。

 今日は、これから一つの学部の初授業に出かけますので、ここまでにしておきます。


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随煩悩5:悩(のう)――悩ませること

2006年04月13日 | メンタル・ヘルス

 人に腹を立て、人を恨むと、嫌な表情や態度、あるいはもっと激しい態度、嫌味や意地悪、きつい言葉などで、人を悩ませてやりたくなります。

 いたずら、いやがらせ、陰口、悪口、シカト……凡夫が編み出す人を悩ませるテクニックには驚くべきものがあります。

 癡・愚かさとは、無知ではなくむしろ「悪知恵」の別名ではないかと思ったりすることがあるくらいです。

 その愚かさの根源にあるのは、自分が悩まされたのだから、相手を悩ませるのは当然の権利だという思い込みでしょう。

 その「自分が悩まされた」という感じ方には、極端な場合、「何となく虫が好かない=私の感覚に合わないので、嫌な気分にさせられた」、だから「意地悪したくなるのは当然だ」ということまで含まれます。

 いじめが問題になる時、「いじめは、いじめられる側にもそれなりの理由がある」といった言い方が出てくるのは、そういうわけではないでしょうか。

 凡夫の中にももちろん比較的ましな凡夫、善人というほかないほどの凡夫もいますが、かなりの数の凡夫が、どこか「自分の権利だ」くらいに思って、一見平気で人を悩ませることをするようです。

 彼らの場合、人を悩ませはするけれども、自分は平気なんだから、「煩悩」という言葉は当たらないのではないか、という疑問が起こるかもしれません。

 それに対して、唯識は、怒り、恨み、悩ませるに際しては、「熱悩(ねつのう)」とか「暴熱(ぼうねつ)」という言葉で表現されるような自分にとってもきわめて不愉快な感情が伴うことを指摘しています。

 もちろん、悩ませる自分と悩まされる相手との分離という思い込み・妄想を元にしているという意味でも煩悩です。

 私は、さらにそれに現代の深層心理的な洞察を付け加えることができる、と思っています。

 確かに、人を悩ませ、人をいじめたりして平然としていたり、むしろ喜んでいるように見えるサディズム的な性格というのはあります。

 しかし、それは意識上だけを見ればそう見えるということなのだと思います。

 考えて見ましょう。

 他者から認められ愛されることのない人生は、とても楽しいでしょうか?

 性格によっては、認められず愛されなくても全然平気、むしろ楽しいという人がいるのでしょうか?

 それは、そうではない、と私は捉えています。

 人間の本性上、認められ愛されることは普遍的で切実な欲求だと思われます。

 ただ、ありのままで認められ愛されることを、心の奥・無意識で、切望していながら同時にそんなことは不可能なのだと絶望している人の場合、心の防衛メカニズムとして、「認められなくっても平気だ」、「愛なんて甘っちょろいものはいらない」、「強ければ人は嫌でもオレを認めるんだ」と言ったり行動したりしているだけなのです(精神分析で「否認」とか「反動形成」というメカニズムです)。

 ところで、自分を悩ませる人・意地悪をする人を好きな人っていますか?

 いませんね。

 ということは、当たり前のようですが、他者を悩ませる=愛さない人は永遠に他者から愛され認められることはありえません。

 人を悩ませるということは、法則的に人から認めらず愛されないという結果をもたらし、したがって自分の無意識のしかし切実な願望が満たされることは決してない、絶望的だということです。

 さて、絶望はもっとも深い悩みなのではないでしょうか?

 まだ痛みなどの自覚症状が出ていない、しかし実は余命わずかという病気は、痛くなくてもまちがいなく病気です。

 それとおなじく、自覚していない絶望もまた実存哲学者キエルケゴールの言葉を借りれば「死に到る病」です。

 精神的な死に到る病は、実は悩んでいるということの自覚がない(抑圧している)としても病です。

 人を悩ませることは、悩ませているだけで自分は悩んでいないつもりの本人にとっても、そういう深く複雑な意味で実は恐るべき心の病・煩悩なのだ、と私は考えています。



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奥入瀬・八甲田山ワークショップ案内

2006年04月12日 | 心の教育
コスモス・セラピー 奥入瀬・八甲田山ワークショップ



 



 コスモロジー教育=コスモス・セラピーは、現代科学の最新の自然観‐生命観のエッセンス(文科系の方にも十分理解していただけます)を学ぶことで〈生きることの意味〉を理解し、さらに実感するという、現代人にもっともふさわしい教育‐セラピーのシステムです。

 生きる意味がわかる→学ぶ意味・働く意味がわかる→学ぶ意欲・働く意欲が湧いてくる→生きる意欲や喜びが感じられる、という臨床効果は確実で、回を重ねるごとに、多くの方から「ほんとうに元気になる」「世界が輝いて見えてくる」「生きる意欲が湧いてくる」「学ぶことがすごく面白くなった」等々、ますます高い評価をいただいています。

 今回のワークショップ(参加体験学習会)の場所は、青森県・奥入瀬・八甲田山の地です。ブナを中心にした奥入瀬・八甲田山の新緑は、実に鮮やかで爽やかで、その中にいるだけで、生きることの幸福を実感させてくれます。最高の自然環境の中で、まさに自分が自然と一体であることを実感できるでしょう。






 初日、十和田湖畔のホテルに泊まり、2日目、十和田湖畔から奥入瀬渓流を歩いて八甲田山麓の温泉に到着、3日目、八甲田山のなんともいえず優しいブナの森に入る、というとてもぜいたくな日程です。

 きっと、みなさんと人生の至高体験(peak experience)の時間を共有できると思います。

 *指導者養成コースとしての参加者(予めお申し出ください)には、終了後、レポートを書いていただき、主幹のコメントを付け、修了証と一緒にお返しします。修了証は、コスモス・セラピーの初級指導者資格認定の条件の一部になります。

●日 時:6月2日(金)午後3時頃~4日(日)2時頃

●宿 泊:1泊目・十和田観光ホテル 2泊目・奥入瀬グリーンホテル
     

●講 師:岡野守也(本研究所主幹)

●参加費:2泊4食付き(昼食は各自)、一般4万円、会員3万8千円、準学生(フリーター、派遣社員、専業主婦、無職)3万6千円、学生3万4千円。

 *現地集合、交通費各自負担となっています。予めご了承ください。

●テキスト:岡野守也『生きる自信の心理学』(PHP新書、700円+税)。

●定員:15名

●申し込み締め切り:5月14日

●申込みは、〒251-0861 藤沢市大庭5055-6-2-18-1831 サングラハ教育・心理研究所へ
 ハガキか、Fax0466-86-1824 E-mail: okano@smgrh.gr.jpで。


         コスモス・ワーク 参加申込書

氏名           男・女  年齢   歳  職業
おところ  〒                              
                                      
電話・ファックス            メール
携帯                  携帯メール
入団体名 一般・連絡会員・交流会員・学生・専業主婦・無職の方
お支払方法 銀行振込・郵便振替・現金書留     月  日頃支払い
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随煩悩4:覆(ふく)――ごまかし・隠蔽体質

2006年04月11日 | メンタル・ヘルス

 大学の授業が始まり、研究所の講座「自己実現の心理学」も始まり、途中のどこか空いた時間を見つけて、携帯から投稿しようと思っていましたが、結局時間がありませんでした。

 残念です!

 (記事検索の都合上、投稿日時を11日に訂正させていただきます。「ごまかし」をするつもりはないんですけどね。)


 ところで、さっきテレビを見ていたら、文化庁が高松塚古墳の壁画にできた2ヶ所の傷について、4年間も明日香村にさえ公表していなかったというニュースが報道されていました。

 そういうのを「隠蔽体質」というんですね。

 文化庁のそういう体質は、今に始まったことではないようです。

 他の公官庁はもちろんですが、日本人全体の貴重な文化財を預かって管理する公僕であるはずの文化庁のお役人――文化に関わる人ですから高い精神性を持っていて欲しいですよね――まで、こういう隠蔽体質が根強くあることに、半分驚き嘆き、半分「当然だな」と頷いてしまいました。

 なぜ、失敗や欠陥や犯罪を「隠蔽」するのでしょう?

 〈自分〉を守ろうとするからですね。

 正しかろうが正しくなかろうが、自己防衛をしたいがために自分の失敗や自分のところの製品の欠陥や自分(たち)の犯罪を隠蔽し、ごまかし通そうとするわけです。

 その場合の〈自分〉には、自分の立場、自分の地位、自分の名誉、自分の体裁、自分の収入、自分の既得権益などなどの自分の〈所有〉や〈属性〉も含まれています。

 それは、もちろん倫理としていけないことに決まっていますが、凡夫の性(さが)、凡夫の常、よくある話としてはよくわかります。

 〈自分〉と〈自分のもの〉を実体だと思い込み、それに執着するあまり、失わないために、あるいはもっと増やすために、隠れて悪いことでもやり、隠し続け、隠し通してごまかそうとしたくなるわけです。

 これは、「私はウソを申しません」と昔の政治家のようなことを言いたいのではありません。

 私も、ついつい失敗を隠したくなることはあります、マナ識があるので。

 なるべく、悪質なごまかしはしない、ウソはつかないようにする、というのがポリシーではありますが。

 神話的仏教を信じていた時代の日本人は、「隠れて悪いことをしても、どこかで神仏やお天道さまやご先祖さまが見ておられる」、「正直に生きなければ、死んでからいいところへ行けない」と思っていたのです。

 そういう信仰がほとんど失われた現代の日本人には、「ちょっとぐらい――実はちょっとではない――悪いことをしたって、バレなければ平気だ。陰でやればいい。隠しておけばいい」とどこかで思っている人が増えているようです(この傾向は、学生へのアンケートや聞き取りの調査からもはっきりしています)。

 でも、隠すと、良心が多少でもあれば、しくしくあるいはずきずきと痛みますし、ほとんどなくてもバレはしないかと不安ですし、バレっこないと思っていてもいつもバレないように余分に気を張っていなければならないし……心が煩わされ悩まされますね、煩悩ですから。

 もちろん、隠蔽、ごまかしは人に迷惑をかけます。そういう意味でも煩悩です。

 人に信頼され、愛され、自分で自分に誇りを持つことができ、胸を張って正々堂々と爽やかに生きたいのなら、ごまかし・隠蔽体質はなくしたほうがいいのは、あまりにも明らかです。

 ……が、〈自分〉と〈自分のもの〉の実体視と執着があるかぎりは、なかなか完全にそういう体質、心の働きはなくなりません。

 この煩悩を癒す薬は、「信(まごころ・誠実さ)」と「マナ識の浄化」です。

 もちろん私も含めて私たちみんな、この薬を持続的に服用する必要がありはしないでしょうか?



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随煩悩3:うらみ(恨・こん)

2006年04月10日 | メンタル・ヘルス

 私たちは、自分の思いどおりにならないことがあったら、腹を立て、そしてそのことをずっと覚えていたりします。

 怒りというカルマが種子(「記憶」と言い換えることもできます)となって、アーラヤ識に溜まり、いつまでもなくならない、どころかしばしば芽を吹く、つまり思い出してはまた怒り・憎しみの感情が湧くのです。

 人を恨み、世間を恨み、軽いとすねたり、ふてくされたり、ねじけたり、ぐれたり、憎しみを持ち続け、ひどいと怨念を抱き、呪い続けたりします。

 怒り以上に、恨みは恨んでいる人自身、きわめて不愉快、嫌な気持ちで苦しいものです。まさに、自分にとって「煩悩」ですね。

 恨みを言葉や表情や態度で示されるともちろん相手も不愉快ですし、恨まれた結果、復讐されることになれば、ますます嫌な目に遭わされることになります。相手にとっても「煩悩」です。

 さて、怒りと同じく、恨みの奥には「自分は正しい」という思い込みがあります。

 「盗人にも3分の理」ということわざがあるように、悪いことをしたと自分でわかっていても、その悪いことをした「自分なりの理・正しさ」があると思いたいのが人間です。

 まして、「どう考えても絶対に自分が正しい」と信じていれば、恨みは決して解消できないでしょう。

 それに対して唯識は、絶対=「対・関連性」を「絶した」、つまり完全に他と分離したような実体的な「自分」がいると思うこと自体、無明・錯覚であることを指摘します。

 恨んでいる自分も恨まれている相手も、深いところ・ほんとうのところではつながって一つのコスモスなのです(なかなかそうは思えませんが)。

 さらに、それが自他を共に煩わせ悩ませるもの・煩悩であることを指摘します。

 恨みは、自他共に不幸にするのです。自分だけではなく相手をも、相手だけではなく自分をも。

 詳しいことは「忍辱(にんにく)」のところでお話ししますが、その2つのことが心の奥底までわかる(智慧)と、恨みは解消され、何よりもまず自分の心が爽やかになります。

 ここでも、凡夫である私たちにとってのポイントは、「恨んでいるのは不愉快で、ということは自分が損をしているのだ」ということへの気づきです。

 私は、人を恨んでいる方には――話をよく聞いて共感した上で――「でも、恨んでいると損だから、許さなくてもいいですから、自分のために忘れましょう」とお勧めします。

 一定程度時間をかけた丁寧なカウンセリングのプロセスを経ると、〔残念ながらすべてのではありませんが〕多くの方が恨みから解放されてくださるようです。

 (あ、申し訳ありませんが、私は今時間の関係で、基本的に個人カウンセリングはお引き受けしていませんので、ご了承ください。)


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随煩悩2-3:怒りはコントロールできる

2006年04月09日 | メンタル・ヘルス

 怒りも含む随煩悩はすべて、それがまぎれもなく煩悩であることにしっかりと気づくと(意識上の智慧)、(完全にではないにしても)かなり鎮まり、コントロールできるようになります。

 みなさんは、心穏やかな時と腹を立てている時と、どちらが気持ちがいいでしょう?

 「そんなこと当たり前だろう」と言わないでください。

 当たり前のようなことがしっかりわかっているかどうかが大切なのです。

 腹を立てている時は、たいてい不愉快です。

 怒りを爆発させて、その時だけはせいせいした気分になることはありますが。

 ここでは、腹を立てて当然(だと私が思っている)かどうかは置いておきましょう。

 当然だろうと不当だろうと、(たいていの場合)不愉快であることは確かです。

 さて、不愉快なのは誰でしょう?

 直接怒りを相手にぶつける場合は、もちろん相手も不愉快でしょうが、私も不愉快です。

 まして相手はもう目の前にいないのに怒っている場合は、不愉快なのは相手ではなく私です。

 私が腹を立てていると知っていれば、相手も少しは気になるかもしれませんが、私ほど不愉快ではないでしょうし、まして知らなければ、全然不愉快ではありません。

 よく考えると、腹を立てるとまず私が不愉快になりますし、比較しても私の不愉快のほうがどうも大きそうですね。

 さて、みなさんは、愉快なのと不愉快なのとどちらがお好きですか?

 愉快な気分でいるのと不愉快な気分でいるのと、どちらが得だと思いますか?

 言うまでもないようですが、はっきりと言って気づいたほうがいいのです。

 気づかないと変われませんが、気づいたら変われるからです。

 愉快なほうが好きで、得だと思いますよね?

 不愉快なのは嫌いで、損ですよね?

 ならば、どうして好きで得なほうを選ばないんですか?

 当然だろうと不当だろうと、とにかく腹を立てたら私は不愉快になり、そういう意味で損をする、んですよね。

 どうして、不愉快で損な気分を選ぶんでしょう?

 「そんなこと言ったってえ」という声がここでありそうですね。

 でも、お話ししたことを、どうぞよく考えてみてください。

 よく考えて、腹を立てたら誰よりもまず〈自分〉が損をするんだということに、しっかりと――ぼんやり、あいまいにではだめです――気づいたら、かなり怒りをコントロールすることができるようになります。

 自分に損をさせ、煩わせ悩ませるようなこと=煩悩は、コントロールしておいたほうが得ですよね。

 (私の場合は、そうでした。腹が立ちそうな場面でも、瞬間的に「ここで腹を立てたら自分が損をする」「損したいのか?」とセルフ・トークできるようになってから、腹を立てることがかなり少なくなりました。)

 これは、自分の損得勘定に過剰に敏感なマナ識を逆手に取るやり方です。


 前回もご紹介しましたが、さらに詳しいことは拙著『唯識と論理療法』(佼成出版社)をご覧ください。

 特に怒りについては、エリス『怒りをコントロールできる人、できない人―理性感情行動療法(REBT)による怒りの解決法』(金子書房)が参考になると思います。


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随煩悩2-2:怒りのメカニズム

2006年04月08日 | メンタル・ヘルス




 怒り・「忿」は、自分が他と分離し対立していると思っている時に起こる心の現象です。

 自分ではない他のもの(者・物)が自分の思いどおりにならないと、どうしても、どうしようもなく腹が立つのです。

 これは、病気のもっとも目に見える症状に譬えられるでしょう。

 それは、私たちの意識がもともと自分の思いどおりにならないといつでも腹を立てる可能性・「瞋」(しん)という根本煩悩を抱えているからです。

 「私の思いどおりにならないことがあった場合、私が怒るのは当たり前、当然の権利ではないか」という深い深い思い込みです。

 瞋という基本的な心のあり方は、きっかけがあればいつでも忿という現象を生み出してしまうのです。

 そして、それにはマナ識の我癡・我見・我慢・我愛というより根本的で無意識的な根っこがあります。

 私がいちばん可愛い、私がすべての依りどころ、私は私であって、他のものとは関係ないという思い込みがあれば、あらゆるものが私を中心にしてめぐるべきだ、すべては私の思いどおりになるべきだという気持ちになるのは当然です。

 怒りという症状の奥底にはマナ識-アーラヤ識における無明・煩悩という根源的な病因・病原があります。

 そしてマナ識と意識が共同して作り出したカルマ――共同作業ですね――は、アーラヤ識に蓄えられ、こびり付き、ほとんど解けそうもないと思えるしがらみになり、そこから新たな煩悩のカルマがまた生えてきます。

 善の場合(そしてこの後お話ししていく覚りに向かうための6つの方法・六波羅蜜の場合も)、煩悩の場合も、アーラヤ識-マナ識-意識の循環のメカニズムは基本的に同じです。

 性質は、好循環と悪循環でまったく逆ですが。

 このメカニズムを思い出していただくと、理屈と感情が一致しない理由がはっきりつかめます。

 感情は湧いてくるものですが、どこからでしょう?

 そうです、マナ識-アーラヤ識という深層から湧いてくるのです。

 それは、意識上、ちょっと理屈でわかったくらいで、解消・浄化できるものではありません。

 意識の表面でちょっとわかった程度の理屈では、感情はどうにもならないのです。

 しかし、理屈嫌いの傾向の強い日本人にとって重要なことは、確かにちょっとわかった程度の理屈では感情は抑えられませんが、しっかりわかると相当程度感情は変えられるということです。

 詳しいことは拙著『唯識と論理療法』(佼成出版社)をご覧いただきたいのですが、「怒り」というのは(も)毎日の生活ではとても重要なテーマの一つなので、次回、そのあたりについて少しだけお話ししたいと思います。



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随煩悩2:怒り(忿・ふん)

2006年04月07日 | メンタル・ヘルス

 随煩悩の第一にあげられているのは「怒り」(忿・ふん)です。

 これは、まず怒っている本人も嫌な気分ですし、怒られている相手も嫌な気分になりますから、まさに「煩悩」ですね。

 私たちは、自分にこだわり、自分の思いどおりにならないということで腹を立てます。

 自分、自分、自分……ですね。

 原語はサンスクリット語なのですが、漢字に写すと意味がさらにはっきりしてきます。

 「忿」とは、読んで字のごとし、分ける心です。

 自分と他者とが分離しているという思い込みの上で、好みや利害や信念や立場などが対立していると思って、怒るわけです。

 分かれていると思わなければ、対立のしようもありません。

 対立しなければ、腹の立ちようもありません。

 ……というのは、理屈なのですが、感情はそうはいかない。

 この場合の「理屈」と「感情」の不一致は、なぜ起こるんでしょう?

 今日はこれから2つ仕事(1つは中級講座「『証道歌』を読む」)に出かけなければなりませんので、詳しい解答は明日にして、みなさんへの宿題にしたいと思います。

 これまで学んできた心の仕組みの理論で、上記の問題はどういうふうに説明できるでしょう?

 考えてみてください。


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随煩悩1:心には20もの現象的な煩悩がある

2006年04月06日 | メンタル・ヘルス



 これまで、マナ識の4つの根本煩悩、意識の6つの根本煩悩について学んできました。

 もうこれだけでも、嫌になってしまうくらい、人間の心のマイナス面をしっかりと、的確に、しつこいくらい見せつけられました。

 しかし唯識というドクターは、病気に関する情報提供をさらに詳しくやってくれます。

 たいていの、ふつうの人、つまり凡夫の日常にありふれた付随的な悩み=「随煩悩」が20種類もあるというんです。

 根本煩悩という病因があるんですから、いろいろ症状が出てくるのは当たり前といえば当たり前なんですが、それにしてもあまりにもはっきり詳しく言われると、そうとうショックです。

 この煩悩のリストは、私も読むたびに、あまりに自分の日常の心の状態に当てはまっていて、がっかり、うんざり、しょんぼりしてしまうほどです。

 いかり(忿・ふん)
 うらみ(恨・こん)
 ごまかし(覆・ふく)
 悩ませ悩むこと(悩・のう)
 ねたみ(嫉・しつ)
 ものおしみ(慳・けん)
 だますこと(誑・おう)
 へつらい(諂・てん)
 傷つけること(害・がい)
 おごり(憍・きょう)
 内的無反省(無慚・むざん)
 対他的無反省(無愧・むき)
 のぼせ(掉挙・じょうこ)
 おちこみ(惛沈・こんじん)
 まごころのなさ(不信・ふしん)
 おこたり(懈怠・けだい)
 いいかげんさ(放逸・ほういつ)
 ものわすれ(失念・しつねん)
 気がちっていること(散乱・さんらん)
 正しいことを知らないこと(不正知・ふしょうち)

 このリストを丁寧に読みながら、自己診断をしてみてください。

 一つも身に覚えがないという方はおられませんよね?

 ここで大切なのは、「そんなに強くはない」、「それほど頻繁ではない」というのを、心の中で「ない」と言い換えて誤魔化してしまわないことです。

 症状の程度は軽くてもあるものはある、少なくてもあるものはある、と判断-診断しないと、病気を見過ごしてしまうことになります。

 見過ごしてしまうと、当然、治療をしません。

 治療をしないと治りません。

 心の底から健康になって爽快な人生を送りたいのなら、心の病気の症状を見過ごさず、ちゃんと自覚する必要がある、ということなのです。

 慢性病のまま、うじうじ、ぐじぐじ、不快感や痛みはあるんだけれど、めんどくさい、こわいから、治療したいくないという方、強制はできませんが、でも治療したほうがいいんじゃないでしょうか。

 そのためには、症状をチェックして自覚したほうがいいんじゃないでしょうか。

 強くお勧めします。



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本日休講の言い訳

2006年04月05日 | Weblog

 コスモス・セラピーのワークの一つに「自分の長所を6つ以上あげる」というのがあります。**
 これは、日常の場面でやると「バカじゃないの」と思われるでしょうが、「自己価値感」を高めるために、あえてわざわざやるわざです。

 ちょっと一つだけあげさせていただくと、私の長所は何と言っても「幅広い好奇心」です。
 お陰で、特定の領域のことしか知らない「専門バカ」にならないですみました。

 もっとも、「長所は短所」(逆もまた真なり)で、幅広すぎて、どの分野でも専門家になりきれなかったということもあります。
 ま、全然、後悔していないんですけどね。

 しかし、今ちょっと苦労しているのは、欲張ってあまりにもいろいろな分野の大量の本を買いすぎたということです。
 引越しするたびに、涙を呑んで、蔵書の半分くらいは処分するのですが、それでもまた溜まります。

 それが残念で、一度、永住するつもりで3階の屋根裏部屋はすべて図書室という家を建て、安心して溜め込んでいましたが、またもっと狭い所に引っ越しすることになり、またまた涙を呑みました。
 しかしあまりにも惜しいので、頼み込んで、2ヶ所で預かってもらうことし、そのうち引き取ろうと思っていたのですが、それでなくても狭い自宅にも溜まるばかりで、ずっとそのままになっています。

 ……あ、みなさんにはどうでもいい話をしているかもしれませんね。
 ちょっとマニア的な愛書家・蔵書家には、心の底から共感してもらえると思うんですが……。

 これは、本日休講の言い訳をしているのです。

 というわけで、蔵書のことではけっこう悩んできたのですが、ふと気づくと、どう計算しても死ぬまでに蔵書のすべてを読むことはできないという歳になっていました。
 私は、本を読むのはそうとう早いほうだと思っていますが、それでも計算すると――実際に計算したことがあるのですが――今の蔵書のうちまだ読んでいない分の半分も読めないことははっきりしています。

 今年59歳、あと1年で60歳、還暦なので、そろそろ、どうしても読んでおきたい本と、できれば読みたい本と、読まなくてもまあいいかという本を、ちゃんと整理しておきたいなと思ったのです。

 で、ワークショップの後、まだ大学の授業が始まっていないので、ここでまず第一回目の整理をできるだけしておこうと、おとといから2日丸々費やしたのですが、まだ片付かず、今日も取り組んでいます。

 他に『サングラハ』の次号の原稿もそろそろ仕上げなければなりませんので、今日はちょっと公開授業は休講にさせていただきます、というわけです。

 たぶん、明日にはまた書けると思います。お待ちいただけると幸いです。


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意識上の根本煩悩6-4:見取見、戒禁取見―自分の正義にこだわる心

2006年04月04日 | メンタル・ヘルス

 悪見の第4と5は、自分の見解・思想にこだわる見取見(けんしゅけん)と特定の戒律や禁止事項にこだわる戒禁取見(かいごんしゅけん)です。

 仏教では、いうまでもなく正しいものの見方(正見)と戒律を非常に重んじます。

 ところが、自分(たち)のものの見方(思想、宗教)や戒律に執着しこだわることは根本的な煩悩だとしています。

 これは、初めて学んだときは驚きでした。

 あらゆる宗教やイデオロギーが陥りがちな自己絶対化の危険にみごとなまでにしっかり気づいていて、それに対する厳しい警告をしているのです。

 一般には、自分(たち)が信じている教えは絶対に正しく、守っている戒律は絶対に守るべきだ、と信じることこそ宗教だと考えられているのではないでしょうか。

 そうしてこそ、確信、安心、安定、アイデンティティの確立ができる、と思っている人が多いようです。

 ところが、唯識仏教では、自己絶対化は根本煩悩だとするのです。

 つまり平たく言えば、まちがっているということです。

 とても柔軟な、ある意味で「自己相対化」ともいえるような視点を持っているのです。

 私の知るかぎり、こんな宗教は他にはあまりないようです。

 そういう点でも、仏教はふつうにいう「宗教」を超えてしまっていると思います。

 唯識仏教は、なぜ見取見と戒禁取見を否定するのでしょうか。

 それは、人間がマナ識という自分にこだわる心を抱えているため、やることなすこと、どうしても自分へのこだわりにつながってしまいがちだという洞察があるです。

 すでに他のところでも少しふれましたが、私たちは自分へのこだわりのために、「自分(たち)が信じているのだから、自分(たち)が守っているのだから、これは正しいに決まっているんだ」、「これを信じ守ることこそ人間として正しいことなのだ」、「これを信じない、守らないやつは人間じゃない」という思考パターンに嵌ってしまう傾向があります。

 そうするとあまりにもしばしば、十字軍などに代表されるような宗教戦争や内部での宗派間闘争や異端裁判や魔女狩りなどの恐るべき事態が生じてしまいます。

 宗教・信仰やイデオロギーの危険、どころか過去から現在に到るまでさまざまなところで起こっているあまりにも悲惨な実害は、集団的な自己絶対化から出ています。

 ところが、自己を絶対視することこそ無明だと気づいている仏教では、どんなに正しいと見える教えや戒律でも絶対視したらもうそれは誤りだというのです。

 どんなにすばらしい教えも戒律も、人間が救われたり、覚ったりするための、すぐれた方法つまり「方便」にすぎないというのが仏教の基本的立場だ、と私は理解しています。

 といっても、これは、「あらゆる意見はそれぞれの主観にすぎないのだから、どれが正しいなどということはない」といった価値相対主義とは、一見似ていて実はまったくちがうものです。

 縁起、無常、無我……といったコンセプトで指し示される事実は、コンセプトがどうであれ、事実そのものでしょう。

 そのほうがわかりがよければ、例えば関係性、時間性、非実体性というふうに言い換えても、指し示された事実は変わりません。

 つまり、教えは絶対ではないが、それが示している事実は絶対です(と私には思えます)。

 ですから、疑わしかったら、自分で何度でも考え直し、確かめ直すことができるのです。

 頭から信じなくてもいい、どころか信じてはいけない、よく見(正見)、よく考え(正思)、何度でも考え直し確かめ直しながら、確信を深めていくことができる、というのが仏教的な「信」の特徴なのです。

 そして、そういう事実に目覚めるためには、やるべきこと、やってはいけないことがあるというのも、ほんとうにそうかどうか、いわば臨床的に確かめることができます。

 「効果が確かめられようが確かめられまいが、とにかくこの教団ではこの戒律を守ることになっているんだから、絶対に守らなければならない」というのは、大乗仏教-唯識の考え方ではありません。

 その戒律を守ることによって、マナ識が浄化されて爽やかで温かな心になるという効果があるかどうか、確かめ直しをしていいはずです。

 効果があるようなら守り続ける、ないようなら止めていい、というのが大乗の戒律への基本的な姿勢だ、と私は理解しています。

 そういう意味で仏教は、絶対主義でも価値相対主義でもなく、いわば「臨床的実証主義」とでもいうべき立場を取っているのではないでしょうか。

 ここでも、「大切にすることはこだわることではない」という区別が当てはまるようです。


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意識上の根本煩悩6-3:邪見(じゃけん)――つながりを否定するものの見方

2006年04月03日 | メンタル・ヘルス



 まちがったものの見方の第3にあげられているのは、邪見・つながりを否定するものの見方です。

 これはもうほとんど説明の必要もないほどはっきりさせてきたことですが、すべてのもの、ということは私も、実にさまざまなつながりのお陰で存在することができます(縁起)。

 そのつながりは時間的にいえば、過去の数え切れないほどの出来事という原因が今の結果を生み出しているという「因果の理法」になります。

 空間的にいえば、あらゆる物事が今特定のもの(者・物)が存在することを可能にしているということになります。

 そういう時間的・空間的つながり(因果・縁)という真理を無視したものの見方を「邪見」・よこしまな見方というのです。

 人間はもともと分別知への傾きがあるのですが、特に戦後の日本人は極端なばらばらコスモロジーに陥っている人が多く、他と関係なくそれだけで存在できる物事があるかのように考えがちです。

 特に自分に関して、「私は私だ。他人は関係ないだろ」と考えている人が多いようです。

 その結果、他人に縛られないという意味での自由を得たように見えて、他とのつながりを見失って、孤独に陥ってしまっています。

 自由に振舞っているつもりが、他とのつながりを忘れているため、しばしばただの自分勝手になって、他者に迷惑をかけます。

 そういうものの見方は、すべてはつながって一つであるというコスモスの事実に反しており、自分自身を孤独に悩ませ苦しめ、他者に迷惑をかけるという3重の意味で「煩悩」というほかありません。

 しかし幸いにして、私たちはもうすっかり意識的には邪見を克服したのではないでしょうか。

 そういう意識上の知恵・無癡のカルマをアーラヤ識に蓄えていくと、次第に心の奥・マナ識から、他とのつながりの実感が湧いてきて、励まされ、心が温かくなり、生きる勇気が出てきます。

                    *

 昨日は、藤沢ミーティング・ルームで「コスモロジー教育=コスモス・セラピー――生きる自信の心理学」の1日集中講座を行ないました。

 他者およびコスモスとのつながりを理論とワークの両方で学び、参加者のみなさんはすっかり元気になってくださったようです。

 つながりの実感=邪見の克服というのは――適切な方法を実践すれば――抽象的な話ではなく、きわめて具体的に元気になる、自信が湧く、心が温かく爽やかになるという臨床的効果のあることです。

 読者のみなさん、4月からの講座や、また新しく企画する予定のワークショップにぜひ参加していただいて、煩悩の克服を実体験してください。


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意識上の根本煩悩6-2:辺見(へんけん)――まちがったものの見方2

2006年04月02日 | メンタル・ヘルス

 この体が私だと思っている(身見)があると、それに伴ってさらに偏ったものの見方(辺見)が生まれがちです。

 偏ったものの見方(辺見)は、さらに2つあります。「断見(だんけん)」と「常見(じょうけん)」です。

 この体が私だとしたら、体はどうしても結局は死にますから、私は無くなります。「無」になるわけです。

 「〔からだが〕死んだらすべては終わり、無になってしまう」という考え方のことを「断見」といいます。断絶しておしまいということですね。

 そのことを見つめると、すべては無であり空しいという考え方に陥っていかざるをえません。

 現代の言葉でいうと「ニヒリズム」です。

 物質としての身体が私のすべてだと思うと、必然的にニヒリズムになる、ということを、唯識はなんと千数百年も前に見抜いていたのだから驚きです。


 しかし私がいちばん大事だと思いながら(我愛)、それが無になってしまうなど堪えがたいことです。

 そこでもう一つの偏った見方が発生するのです。

 体は実体としての私ではなく、体に宿る魂が実体としての私であり、永遠に死なないという考え方で、「常見」といいます。

 あるいは、「今生の体は死ぬ体だが、次の生では死なない体になって甦る」というのも、常見のヴァリエーションと考えていいでしょう。

 「魂の永遠」も「体の甦り・復活」もどちらも、仏教の視点からすると、魂か新しい体を実体と考えているという点で、まちがったものの見方・辺見とされます。

 「魂」も「新しい体」も、他と関わりなくそれ自体で存在するということはありえないという意味で実体ではない、と私も考えます。

 確かに実体としての魂や新しい体にこだわることは、辺見ということにならざるをえないでしょう。

 ただ私は、実体ではないけれども、身体とは別の、現象としての「魂」が存在する可能性は頭から否定できない、と考えています。

 しかし、魂が存在するかどうかということよりも、人間が今生で覚りうるかどうかということのほうが重要だと思っていますし、またブログ記事で長々と書くにはあまりに微妙な問題なので、これ以上述べることは避けておきたいと思います。


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