意識上の根本煩悩6-1:悪見(あっけん)――まちがったものの見方1

2006年04月01日 | メンタル・ヘルス

 人間は、他の動物とちがって先天的に本々具わった能力(本能)によって生きることができません。

 ほとんど後天的に作られた文化によって生きています。

 文化の基礎になっているのは、言葉と言葉によって体系化された価値観・世界観=コスモロジーである、というのはすでにお話してきたとおりです。

 人間は、特定のコスモロジーに基づいたものの見方なしには生きていけないのです。

 そのため、無意識でも意識でも、つながりコスモロジーに無知(我癡→癡)であるだけではなくばらばらコスモロジーを信じ込んでいる(我見→悪見)わけです。

 唯識では「悪見」もさらに詳しく分類しています。

 身見(しんけん)、辺見(へんけん)、邪見(じゃけん)、見取見(けんしゅけん)、戒禁取見(かいごんしゅけん)の5つです。

 まず「身見」とは、外界や他者と分離独立したこの身体が実体としての「私」だと思い込み、それに執着していることです。

 え? と思われるのではないでしょうか。

 「この体が私だというのは当然ではないか、どこがちがうんだ?」と思われた方が多いと思います。

 こういうものの見方は、現代人には当然の常識だと信じられているようです。

 しかしよく考えてみると、身体=私ではないのではないでしょうか。

 体つまり生命体は細胞から成っていますが、その細胞も、外界と区切りはあってもつながっていて新陳代謝というかたちで外界と交流していなければ生きていけませんし、やがて細胞分裂して元のままの細胞ではなくなります。

 細胞は実体ではないのです。

 実体でない細胞の集まりでありながら私たちの身体そのものは実体である、なんてことはありえませんね。

 それどころか、体も心もすべて「私は私でないものによって私であることができる」ということについては、繰り返しお話してきたとおりです。

 よく考えてみると、「実体としての体が実体としての私である」というのは、明らかにまちがった思い込み=悪見です。

 しかし物質科学主義の教育を受けてきたため現代の日本人の多くが、この「身見」を強く抱いているようです。

 そこから生まれるのが、次の「辺見」です。


にほんブログ村 哲学ブログへ

人気blogランキングへ

↑ぜひ、クリックしてメッセージの伝達にご協力ください。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする