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しゅぷりったあえこお nano

ブログ版 シュプリッターエコー

『南ラオスへの旅』付録 お友だちインタビュー “アジアの旅人” アサオさんにきく!

2020-05-16 00:45:00 | 地球
――アサオさん、ラオスへ行ったのは何度目ですか。

憶えてないですね。いっときは毎年行ってたから、たぶん15回以上…。



――確かに、アサオさんのブログ「63 Scott Street」のラオスの記事は現時点で21本、いちばん多いですね。

新婚旅行や家族旅行は記事にしてないから、それを含めるともっと多く行ってますかね。



――ラオスの魅力って何ですか。

何も無いことが魅力だとよく言われますね。隣国のタイには無数にあるコンビニが、ラオスには一店舗もありません。静かな環境と、そこに住む人の素朴な人柄に癒されます。タイには仕事で毎月行きますが、タイと比べればラオスは貧富の差があまりなくて、むしろみんな貧しいから平和です。



――記事を読んでいると、意外にというか、自然とか景観についての話が少なくて、人との一期一会的なエピソードが多い印象ですね。

そう言われてみると確かにそうですね。旅の移動中の出来事を書く方がテンションが上がるからかもしれません。目的地に到着したあとのことは、あまり記憶に残らないのかも…いや、残ってるんですけど、記事にするほどではないというか…単純に、自然環境にはあんまり興味がないってことですかね。



――自然に興味がないというより、人に強く興味があるということかなと思ったんですけど。

あ、そう! それ!



――日本や中国、タイにはいない人たちがラオスにはいるということ? たとえば日本の「田舎」に住む人々の「素朴さ」ともちがう…。

のんびりしているという意味では、日本の地方の人以上かも。玄関に鍵かけないお婆ちゃんみたいな。



――個人的には「2」の、小さな女の子の運転するバイクに乗って連れられて行くところが映画のシーンみたいで本当に好きです。写真もすごくいいし。あのときは怖くなかったんですか。

ぜんぜん。慣れたものでしたよ。免許もいらないような島ですから、おそらく親から乗り方を教わってるんでしょうね。まぁ実際には免許要るはずですが、取り締まる警察もいませんしね。



――面白い、と言っては、そんな幼い身で労働しているのは、本当は気の毒なことなのかもしれないけれど…

彼女は喜んでましたけどね。乗ってもいいんだ、という感じで。きっと昼間は父親が仕事で使ってるから乗せてもらえないんでしょう。ちなみに、食堂のテーブルで何か書いてたのは、宿題でもやってたんじゃないかな。レストランを経営してるので、学校に通えないほど貧乏ではないんじゃないかと。



――東南アジア随一ののんびりさかげんなんでしょうか、ラオスは。

ですね。
ただまぁ、ラオスも北部と南部とでは、だいぶ事情が異なるようです。山に囲まれた北部の人に比べると、南部の人は明るいというか大雑把というか、あまり細かく考えてないんじゃないかと思わされましたね。シーパンドンまで連れてやるとか言いながらバスターミナルに案内したり(「1」参照)。
スペインなんかでも北部と南部ではぜんぜんちがいますしね。カミュじゃないですが、太陽のせいなのかもしれません。
あと、ラオス北部の「暗さ」はベトナム戦争に巻き込まれた歴史があるからかもしれません。今でも山中で不発弾で死んだり、腕や脚を失う人がいるそうです。



――まだ「未踏」のアジア国はありますか。

バングラデシュとかネパールとかブータンですかね。
でも、行き慣れたラオスでもまだまだ行ったことのないところがあるので、そういう意味では心惹かれる未踏の地がラオスにもあります。
実際、他の国はあまり興味がないですね。自分にとっては行く意味がない、と思ってます。



――「行く意味」って? もう少し詳しく。

メコン川に惹かれるんですよ。一度ブログに書いたけど、なぜだか自分のルーツがそこにあるような…すごく懐かしいような気がするんです。鮭が遡上するような感じでしょうか。



――そう、さっき自然はあんまりって話してたけど、メコンについて訊きたいって思ってたんです。ガンガー(ガンジス川)に行ったけど何も感じなかったと前に話してましたよね。

そうなんです。ガンガーは何だか違うんです。
遺伝子に刻まれた何かがメコンに反応するような、そんな気がしています。



――不思議ですね、でも人間というか人類の歴史を考えると不思議ではないのかもしれませんね、それより、幸福ですね、自分のふるさとのようなものが見つかったのなら。

そういえば、神社の鳥居のルーツはメコン流域に住む少数民族の集落にあるという説を聞いたことがあります。ルアンパバーンでは、狐が2匹一対になって大きなお寺を守ってるんですよ。



――そうだ、訊きたいんですけど、「3」でお財布盗られたというのは、置き忘れたってことですか。

盗られたのか紛失したのか本当のところは分からないんですけどね。



――そうなんですね。

そっちの財布にはタイバーツとラオスキップ(ラオスの通貨)しか入れてなかったので、軽く考えて寝室まで持って入らなかったんですよね。日本円やクレジットカード、それと会社のお金は後生大事に寝室の枕元まで持って入ったので、それだけで安心してたんです。



――ふんふん。

財布はバンガローを出る時には既に無かったんだと思うんですけど、夜、電気点けっ放しでろくに寝られなかったので、半分寝ぼけてたかなとも思います。で、隣なんて無いと驚いて財布のことを思い出した次第でした。
思い返すと、母屋から離れてポツンと建ってる小屋に泊まる外国人なんて、良いカモですよね。



――なんかときどき…いえ、わりと、うっかりエピソードないですか。

うっかり多いんですよ。インドではパスポートを移動前の町に忘れてきたり、中国の雲南省では山中で遭難しかけたり…



――いや…そんなトラブルに見舞われても無事帰国できたというのは、旅のエキスパートというべきなのか何だかよくわかりませんが、さてさて、今回で「南ラオスへの旅」のシリーズは完結だそうですが…

はい、終わりです。



――楽しみにしてた連載なんで寂しいです。はやく次のシリーズをお願いします。

しかし家族や会社のことを考えると、若い頃のようには行けませんから、次の旅はいつになることやらですね。



南ラオスへの旅3

2020-05-04 17:58:00 | 地球
小さな集落に入って程なく、目的の宿「ポメロゲストハウス」に到着した。
素朴な看板に導かれて数歩歩いたところで、小さな門扉の向こうにウッドデッキのテラスが広がっていた。
すぐ手前に西洋人のカップルが向かい合って座っていた。
 「Hi.」
と声を掛けられ、
 「サバイディー。チェックインしたいんだけど、何処に行けばいい?」
と尋ねたところ、
 「ようこそ。ここでいいわよ。」
と女性が答えた。
 「え、オーナーは何処に?」
 「彼女さ。ぼくはスタッフさ、何もやらないけどね。」
と男が言ったが、冗談なのか女が笑った。
テラスはメコン川に向かって迫り出すように造られていた。屋根は無く、夜気を含んだ心地よい風が昼間の暑さを忘れさせる。中央にはウッドデッキの下から大きな樹が伸びていて、大きな緑の実を成していた。なるほど、ポメロゲストハウス。樹に成っているのは正しくポメロだった。
ポメロとは日本で言うところのザボンに該当するだろうか、とにかく大きな柑橘類の果物だ。タイではよく薄皮を剥いた実をプラスチックの食品トレイに並べて売っている。果実を構成する一粒々々がとにかく大きく、しっかりと固いので食べ応えがある。そして頬張った時に拡がる爽やかな、しかし甘過ぎない風味が私を虜にさせた。それだけにこの宿が気になっていたのだった。

 「あら、日本人?あちらの方も日本人よ。」
テラスのソファーで寝転びながら本を読んでいる男がいた。こちらを向く訳も無く、恐らくは人里離れた所を好んでここまで来たのだろう。こんな辺境まで来て日本人と会う不運を呪っているに違いない。同国出身の客に声を掛けない私に、彼女は不思議に思ったらしい、一瞬の間が空いた。
 「貴方がたは何処から?」
 「スイスよ。」
 「なんでまたこんな所に宿を?」
 「あら、多いのよ。あっちの島でも欧州人が開いている宿いくつか知ってるわ。」
北部ラオスでは中華系の宿をいくつも見たが、陽を浴びられるこちらでは欧州人の人気が高いということだろうか。もっとも北部に中華系が多いのは、中国からタイへ抜ける交通の要衝としての理由だろうが。

 「部屋に案内するわ。」
と女主人から電気ランタンを渡され、テラスから外に出た。民家の窓から灯りが漏れているものの、周囲はほぼ闇に近い。慎重に足元を確認しながら歩く。
母屋から2~30メートルぐらい歩いただろうか、思っていたより距離がある。私の部屋は一軒のバンガローだった。二部屋から成るスイートで、リビングと寝室、浴室と連なった手洗い。浴室の床板には敢えて隙間を空けていて、水はそのまま地面に落ちる。テラスには小さなテーブルと椅子が二脚。カンボジアへ続くメコン川の水平線を眺望できる。こんな部屋で一泊しか出来ないのはなんと惜しいことか。

 「ところで、明日の帰り道にコーンパペンの滝を見たいんだけど。」
 「コーンパペンはちょっと遠いわね。朝7時にここを出ることになるけど、それで良ければタクシーと船を手配しておくわ。」
 「幾らぐらいだろう。」
 「調べておくわ。」
 「後で夕食を食べに行くから、その時に教えてもらえたら。」
そう行って彼女が去った後、堪らずすぐに服を脱いで、シャワーで昼間の汗を洗い流した。

夜、財布をリビングの机の上に置いたまま床に就いた。日本に持ち帰るべくバンコクで引き出した会社の金はリュックに入れ、寝室に持ち込んだ。隣のバンガローにも客がいるのか、遅くまで2~3人の男の話し声が聞こえていた。気味が悪く、寝室の照明をずっと点けたまま眠りに就いた。

朝7時、リュックを持って母屋へ向かおうと外に出て初めて気付いた。隣にバンガローなど無い。私の部屋は全くの一軒家だったのだ。昨夜の男の声は何処から聞こえていたのだろう。すぐに戻ってリビングに置いた筈の財布を探したが、忽然と無くなっていた。

母屋へ行き、女主人に理由を話し、日本円を入れていた別の財布から宿泊代を出そうと思って1万円札を見せた。
 「日本円で払わせてもらえないかな。」
 「ごめんなさい、日本円は扱っていないの。これが幾らかも分からないの。」
と言われても、タイバーツは幾らも残っていない。リュックの中の会社の金を調べると、バンコクで両替した大量の日本円と半端なタイバーツがあった。パクセーに帰るには何とか足りる。流用した分はバンコクで自分の金から補填すれば済む。しかし宿泊代は…
と肩を落としている間に、男が女主人を呼んでパソコンを見せた。
 「えっ!」
と彼女は声を上げ、慌ててレジを引き出し紙幣を数え始めた。
 「両替レートで日本円を調べたわ。幾らお返しすればいいかしら。」
と私は逆に訊かれる立場となった。
しかし財布を失ったのは明らかに自分の過失だ。盗られたという証拠が無い以上、自分が紛失したことに違いはない。
 「財布を失くしたのは私のミステイクだから、このまま受取って下さい。」
 「そんなの申し訳ないわ。」
 「いやいや、申し訳ないのは寧ろ私ですから、どうぞこのまま。」
と押し問答になって、彼女は何度も「ごめんなさい」と謝った。彼女らを逆に恐縮させてしまい、申し訳ない気持ちを残したまま、迎えに来たシクロで宿を後にした。
人柄がとても良い、フレンドリーな宿だった。また必ず来よう。今度は3日は泊まるつもりで是非来たい。そう思わせる、素晴らしい宿だった。


余談:
冷房付きのバスでパクセーに帰って驚いた。
ターミナルでも何でもない住宅地で、バスは終点となった。
「バスターミナルは幾つもある」とはこのことだったのかと、漸く納得した。

(アサオケンジ)



南ラオスへの旅2

2020-02-26 22:25:00 | 地球
メコン川は中国青海省を源流に、ラオスとミャンマー、タイとラオスの国境を隔ちながら、カンボジアを経てベトナムで南シナ海に流れる約4,000kmに及ぶ大河だ。ラオスとカンボジアの国境をも成し、そこは世界一の幅を誇る滝となっているのだが、滝の手前では川幅が14kmにまで膨れ上がる。その川幅の中には4千以上の大小様々な島が点在し、それらの島を纏めて「シーパンドン(4千島)」と呼ばれる。大きい島には人が住んでいるのだが、今回は4千の島の中でも最南端のコーン島を目指す。

パクセーから144km。途中2度の休憩を挟みながら終点ナーカサンに着いた時には既に午後5時を回っていた。


バスターミナルと呼ばれる広場から傾いた夕陽に向かって真っ直ぐ歩くと、茶色く濁った湖が水平線まで眼前に拡がった。否、湖ではなく川なのか。河口でもないのに島以外の対岸が見えない程に広い。


川端に渡し舟の小屋があった。窓からぶら下げられた時刻表では最終便は5時半。間に合った。
 「コーン島まで行きたい。」
と小屋にいた男に尋ねると、
 「もう終わったよ。」
と如何にも面倒臭そうにこの新しい客をあしらった。
 「最終は5時半て書いてあるじゃないか。」
 「・・・一人?85,000kipだ。」
 「タイバーツで300でいいか?」
自国の通貨を信用しないラオスでは外貨での支払いが通用する。タイバーツか米ドルに限られるようだが、最近では人民元も扱われているようだ。ナーカサンに着いて両替所を見てみたが、日本円の記載は無かった。
男は300バーツを受け取ると、「ここで待ってな」と言ってチケット代わりの領収書を私に渡した。河岸を見下ろすと船乗りの男たちが談笑している。ビアラオの黄色い通し函が流通せずに山積している。皆早く仕事を退けて一杯やりたいのだろうが、誰も川岸から上がって来ない。かと言って男が川岸の船乗りを呼びに下りる気配もない。終業時刻が刻々と迫っている。
 「どれだけ待てばいいんだ。」
痺れを切らして質問すると、舌打ち交じりに漸く重い腰を上げた。男は窓から川岸を見遣り、
 「下に行ってチケットを見せな。」
と、さも面倒臭そうに言った。結局彼は案内するつもりなど無かったのだ。時間切れになることを望んでいたのだろうか。岸に下りて船乗りに話すと、意外にもすんなりと乗せてくれた。


大きなエンジン音を伴って広い広い川面を進む。余りの広さに下っているのか上っているのか、どちらが東で南なのやら判別がつかなくなる。右手の島に集落が見える。左手には人が一人立つのがやっとな小島が浮かぶ。藪だけの島、誰も住まない島・・・大小様々な島が浮かぶ中を、船頭は着実に舵を操った。
大きな島に錆びた鉄橋が川に向かって寸断された形で建っていた。ガイドブックでも見たが、大戦中に仏国軍がカンボジアまで鉄道を通そうと計画したものの、滝の激しさに断念したものらしい。ラオスには戦争の痕跡を未だ残している所が多いが、ベトナム戦争の戦地でもあったことは余り知られていない。


約30分の船旅を経てコーン島に上陸する。もう空が薄暗い。コーン島は四千の島々の中で最も南に位置し、カンボジアとの国境に最も近い。船着場はコーン島の最北端に位置していたが、今回予約していたゲストハウスは最南端に建っている。川岸から階段を上った所の食堂でバイクタクシーを頼んだ。
 「すみません。ポメロゲストハウスに行きたいんですけど。」
食堂に座っていた婦人と小学生ぐらいの娘が私に目を向けた。
 「今からかい?」
婦人が驚きなのか迷惑なのか、どちらとも取れない表情を見せた。
 「すみません、今日予約してるんです。」
 「しょうがないね、連れてってやりな。」
と彼女は娘に言うと、娘は喜んで表に停めてあったシクロのバイクに跨った。まさかこの10歳程度の女の子の運転で行くのか?
 「いつもの所だよ。」
とでも言ったのか、婦人は娘の背に言葉を投げた。


よく揺れる未舗装の道を走る。宿は北部に多いらしい、欧米人の集まる洋風の食事を出す食堂が多く(と言っても2〜3軒)固まっていた。ゲストハウス街を行き過ぎて程なく、娘は一軒の店の前でシクロを停め、店の中へ姿を消した。居酒屋だろうか、時折り大きな笑い声が外にまで響く。間も無くして一人の男が少女に連れられて出てくると、私を一瞥してバイクに跨った。
 「どこ行くんだって?」
酒臭い息が鼻に衝いた。
 「ポメロゲストハウス。」
 「遠いぞ?」
と質問なのか単なるメッセージだったのか、男は私の回答を待つこともなくアクセルを回した。

街灯の無い真っ暗な畦道を、男はヘッドライトと月明りだけを頼りに踏み外すこともなく走った。言うだけあって確かに遠い。大きな島だ。北部と南部の間には民家など無く、ただただ畑とジャングルが続く。
最南端の島の最南端に胸が躍る。もし目に見えるものであれば国境のラインが見えるかもしれない。月夜の下、鬱蒼と茂る樹々のシルエットが風に流され揺れている。シクロはまだ止まらない。

(アサオケンジ)




南ラオスへの旅

2019-10-13 18:37:00 | 地球
突き出した紫色の庇が空を刺す。
眼前に建つ国境管理局はタイの国花である蘭を形容しているのであろう屋根を一面紫に染め上げ、庇の一角だけを空に向けて突き立てている。
タイ東端の国境の町・チョンメック。
徒歩で国境を越え、ラオス最南端の島・シーパンドンを目指す。
屋根の下では4メートルはあろうかという巨大なワチラロンコン新国王の肖像画が出国する者を見下ろしている。


(チョンメック出入国管理局)

五月初旬のタイは予想以上に蒸し暑かった。
日本国内では平成から令和へと移る空前の10連休を迎えているにも拘らず、国外では何ら恩恵に預かることもない。
毎月末・毎月初に渡泰せねばならない己の使命を呪いつつ、腹立ちまぎれに2泊3日の旅に出ようと、仕事を終えた晩の便で空を飛んだ。
タイ東部の主要都市・ウボンラチャタニで一晩を過ごし、翌朝8時半の国際バスでラオスへ渡る―――と思っていたのだが、国際バスは出発の30分前で既に満員だった。
仕方なく国境行きのトラックバスに乗り、今、国境の前に立つ。

こうして国境に立つまでずっと、メコン川こそが二国を隔つ国境を成していると思い込んでいた。
チョンメックだけが唯一徒歩で国境を越えられるポイントであるとは知ってはいたが、歩いて橋を渡るのか、はたまたトンネルを越えるという情報もあり、まさか大河の底を掘ったわけでもあるまいにと半信半疑だったのだが、何のことはない、必ずしもメコン川が国境であるとは限らないのだと、こうして国境に立って初めて知った。
出国手続きを済ませると、地下に潜る階段があった。地下に掘られた10メートル程度の通路を歩いて地上に出ると、そこはもうラオス。

(国境のトンネル)


(ラオス側出入国管理局)

入国管理局でアライバルビザの申請用紙に四苦八苦している欧米人を傍目に、ビザ不要の日本人としてスムーズに入国手続きを済ませると、すぐにタクシー運転手が声を掛けて来た。
意外にも声を掛けて来たのはただの一人で、大声で客を取り合う気配などまるで無い。
恐らくは国際バスを逃すような間抜けはそうそう居ないということなのであろう。
 「パクセー?」
 「イエス、パクセー。」
ラオス最南端を目指す前に、まずはラオス南部の都市・パクセーを目指す。
 「100バーツ、OK?」
 「バスターミナルまで行きたいんだ。」
小柄な初老の浅黒い肌の男は顔をしかめた。
 「バスターミナルは一杯ある。何処のバスターミナルだい?」
 「シーパンドンへ行きたいんだ。」
 「シーパンドンまでなら1000バーツ。」
シーパンドン行きのバスが出るターミナルと言いたいのだが、男の英語も覚束ないため、どう言って説明すれば良いのか思案に暮れる。
男も話にならないと諦めたのか、他の客が来ないかと視線を私から外した。
しばらく沈黙が続き、私も諦め他の運転手を探そうと男から遠ざかっても、彼は追いすがる素振りも見せなかった。
延々と続くアスファルト舗装の道を少しだけ歩いたものの、とても歩いて行ける距離では無いと困っていたところ、スクーターに乗った男が声をかけてくれた。
 「パクセー?」
 「イエス、パクセー。何処でもいいからバスターミナルまで。」
とりあえずバスターミナルに行けば何とかなるだろうと考えた次第だった。
 「OK。300バーツ、ユーOK?」
3倍の値段に驚いたものの、もはや彼にこの身を預ける以外の道は無い。致し方なくOKと答えた。
 「おれのヘルメットは?」
と訊いたところ案の定「ノープロブレム」という回答だったが、彼はしっかりフルフェイスのヘルメットを被っているのだった。

延々と続く完全アスファルト舗装の道を駆る。
排気量100cc程度のスクーターの目盛りは常に時速60km前後で維持している。
道の両側には耕作地でも牧草地でもない、手付かずの緑豊かな大地が広がる。
恐らくはグリーンベルトのようなものなのか、国境は越えているものの、何処の国にも属さない土地という範疇なのかもしれない。
途中で料金所のような大きなゲートがあり、写真を撮ろうと思って「ストップ、ストップ」と声を掛けたのたが、男はまるで止まらなかった。
聞こえなかったのか?
メコン川を渡る橋に来た。私は男の肩を叩いて、再び「ストップ、ストップ」と言ってみると、さすがに「オーケー」と応じてくれたが、やはり止まることはなかった。
何のオーケーだったのだろうか?
まるで不可解な旅が続き、出発してから約45分かけて漸く終点に着いた。
国境から実に45km。
乗合ではないマンツーマンタクシーなのだから、300バーツでも全く高くないことを知った。

男はバスターミナルがある市場で私を下ろし、サイドカーを付けたシクロの運転手に私を紹介した。
 「兄ちゃん、シーパンドンへ行きたいんだって?100バーツでどうだい?」
驚いた。
国境から300バーツだというのに、最南端までたったの100バーツで行けるのか?
外国人価格だったのか、もしくは思っていたほど遠くないのか?
 「本当に100バーツでシーパンドンまで行ってくれるのか?」
半信半疑で聞き返したが、
 「イエス、100バーツ。ユーOK?」
快くオーケー、プリーズとサイドカーに乗り込んだ。
男が走った先は果たして別のバスターミナルだった。 複数のバスやトラックバスが停まっている。
男は一台のトラックバスを指して言った。
 「このバスがシーパンドン行きだってよ。」
決して嘘つきではないのだが、南ラオス人とのコミュニケーションは難しいと知る。
南北に長いラオス。
初めて訪れた南部ラオスに地域性の違いを思い知った。



(アサオケンジ)


                                

桜、やがて満開

2011-03-31 20:02:00 | 地球
 こんなに悲劇の年ですのに、ことしは桜がきれいに咲きそうです。
 完璧な満開になりそうです。
 美しい春になりそうです。

 自然から見れば、あるいは大地震も地球が健康に生きていることのあかしなのかもしれません。
 すると原発の大事故も、地球がカサブタを除こうとしている治癒行為なのかもしれません。

 ぼくらにはおそろしい出来事ですが。

スペースシャトル

2010-04-05 22:42:00 | 地球
 スペースシャトルが宇宙へ出発しました。
 日本人飛行士として山崎さんが乗っています。
 ステーションでの活躍と幸運を祈ります。

 でも発射のニュースを見ながら、人間の心ってどこまで贅沢にできているんだろう、と思いました。
 もう発射に馴れてしまって、はじめのころのワクワク感がどこにもないんですね。
 いつのまにか、発射がふつうのことになってるんです。

伊藤さんの死に思う(違う角度で)

2008-08-29 09:31:35 | 地球
伊藤和也さんの死はとても悲しいものです。
政情不安定でなおかつ貧困な
アフガニスタンという国に
その国の人々が自活出来るように
農業の指導に行ったような
純粋無垢で使命感に燃えた人を失う、
しかも同じ日本人であったということを
考えると無念の一言に尽きます。

しかしアフガニスタンの人が
みんな威圧的ではない、
むしろ伊藤さんや我々日本人に
感謝をしてくれているのです。
これは単純に一個人として嬉しいですし、
国としても誇るべきことだと思います。

ニュースで聞いた限りですが
伊藤さんのいた村のアフガニスタンの人々が
葬儀をここで自分達の手でさせて欲しいと
言われたそうです。
そして捜索には700人、
葬儀には600人が参列したと聞きました。
武力的なアフガニスタン人はホンの一握りで
あとは日本のNGOのボランティアや
国のODAに感謝してくれているのです。
だからその感謝の意も込めて
アフガニスタンでの葬儀が行われたのです。

ODAで思い出しましたが、
一般の中国人は日本のODAのことなど知りません。
言論統制されてますから。
だから一般の中国人は「中国の民の力でここまでなった」
と思っているのです。
北京オリンピックにも日本のODAが
湯水のごとく使われています。
最新の数字は忘れましたが、
一時は日本のODAを一番カッパいでいたのは
中国でした。
日本は戦争処理と引換に大量なカネを出していたのですね。
この話はまた別の機会に。

じゃあ、伊藤さん一個人の問題ではなく、
日本という国家としてどのように
アフガニスタンをはじめとする
中東諸国と対峙するか、

これは暴論かもしれませんが、
統制のある軍隊を作って
不安定なアフガニスタンに
食糧や農業といったモノや技術移転の他に
治安対策をやるしかありません。

でもこう書いている私が
明日アフガニスタンに行けと言われたら
嫌に決まっています。
でも「国家を背負う」日本人の意識を持てば
私でもきっと行くでしょう。
もっともそれまでに教育という名の
マインドコントロールが必要ですが。

オリンピックでメダルを取れば
兵役免除になる韓国のような例はありますが
ホンの一握りの人です。
国を守るとはどういうことか
小学生から学んで兵役に就く
韓国や台湾やアメリカ(←ここはちょっとアホですが)
のような教育がされる必要があると
私は思います。

しかし、戦争を美化や賛美する教育が良くないのは
言わずもがなです。
竹島問題、尖閣諸島、北方領土といった
歴史的にどうひっくり返っても
日本固有の領土であるものを守り、
同時に不幸な紛争を抱えているところに行って
その不幸な紛争を仲裁するような
(フランスがこれに近いですが)教育を
施すべきです。

日本の戦争論を語りだすと
キリがないのですが
少なくとも
伊藤さんのような人は死んでしまって、
日本にいる我々は酒飲んで、旨いもん食って、
セックスで快楽を得ているというのは
どう考えても「日本人」として矛盾です。

直ぐ太平洋戦争の軍部独裁を叫ぶくせに?
日本の政党で唯一「日本」がつく党も
戦前の軍部独裁の片棒を担いでいたのです。
共産主義国家の中国に
ODAバンバン取られていた資本主義の日本は
戦後処理の一言でキ●タマ握られていたのです。

そろそろ閉めようかと思うのですが、
本当に尊敬されてかつ独立した
日米安保条約などに頼らない国家を
作るには軍隊は必要不可欠だと「今は」思います。

「今は」というのは、高校生ぐらいの頃は
ジョン・レノンやヒッピーに憧れ、
フラワー・チルドレンを素晴らしいと思い、
今やサイバラのネタになるまでになった
「ラヴアンドピース」を本気で信じて
連合赤軍はやり方は悪いけど考えていることは
正しいと大馬鹿たれだったからです
(私の世代の高校生にしては古くさいこと
考えていたんですがね)。

ちなみに私は右翼でもウヨクでもありませんから(笑)



つらい伊藤和也さんの死―アフガニスタン

2008-08-28 23:36:18 | 地球
 アフガニスタンで住民の中に入って地道に農業の支援活動をおこなっていた伊藤和也さん(31歳)が、反政府の武装グループに連れ去られて殺害されました。
 ぼくたちは新聞やテレビの報道でしか事情がわかりませんから、もうひとつ真相がつかめませんが、大変いたましいことです。
 残念なことです。
 個人の真剣で献身的な心や行動もそのまま善意としては受け止められず、政治的な眼鏡で見られて命さえ狙われる時代になってしまっているのだと、つらい思いにとらわれます。

 こういう世界をぼくらはどんなふうに考えたらいいのでしょう。

 ぼくら一市民の思いなど、結局のところ何の役にも立ちませんが、この事件ではこんなことも考えないではいられません。
 もし日本の国が世界からこんなふうに見られていたら、それでも事件は起こっていただろうか、と。
 つまり、日本が本当に世界の平和を追求する国で、それを実現するために、自分たちの頭で一生懸命考え続け、世界のすべての国々と等距離の外交を結び、軸がブレることなどなく常に人類の理想を訴え続ける、そういう国だとすれば、それでも伊藤さんは殺されただろうか、と。

 そうだとすればたぶん殺されずにすんだのではないかと、甘い考えかもしれませんが、そんなふうに思うのです。
 せめてそれが最後の希望だとも思うのです。  

 残念ながら、今の日本はそういう国ではありません。
 自分の頭で考える代わりに、外交の根幹はアメリカに任せています。
 等距離外交からはほど遠く、ほとんどアメリカにべったりで、アメリカの言いなりです。
 世界の将来像についてはまったく日和見(ひよりみ)的で、世界の平和について日本の首相がなにか積極的な理想を訴えるところなど聞いたことがありません。
 何を言うにもアメリカに気をつかって、どこかおずおずとしゃべっているようなけはいです。

 世界のどこから見ても、今の日本はアメリカの片棒をかついでいるとしか見えません。
 
 個人としては何の政治的な意図もなかったとしても、日本から来ているというだけで、アメリカの影がそこにつきまとってくるのです。
 個人の自立や決断まで、色眼鏡で見られてしまうということです。
  
 ということは、日本政府にアメリカ追随を許しているぼくら市民にも、伊藤さんの死に対して大きな責任があるのではないでしょうか。
 それを認識することこそ、ぼくたちが伊藤さんに示せる最小限の哀悼ではないでしょうか。

 と言っても、ぼくらのようにせいぜい選挙のときにたった一票を投じる力しかないものはこうして心の中を語るほか、ほかに何の行動もできませんが。

地球の傷をいやそう

2008-06-15 23:42:48 | 地球
 東北の大地震、中国の大地震そして大洪水…、ハリケーンやサイクロンや竜巻や干ばつや、地球がかつてなく荒れ狂っています。
 でもこれはまだ序の口でしょう。
 ますます災害は大きくなって、ますます多くの人が死ぬでしょう。
 多くの人が傷つくでしょう。
 人類は地球の怒りに対処するために手をつながないといけません。

 地球の傷をいやすこと。
 それが今世紀の人類共通の倫理です。
 地球を荒廃に導くもの、それこそが悪なのです。
 なにも物理的な面だけのことではありません。
 精神的な意味でもです。

 精神的な意味とは、地球のことを大切に思うあたたかい心のことです。

 でも、これは人間がどれほど賢明になりうるか、地球が試しているように思えません?
 賢明になれないなら滅ぼしてしまおうと、そのような決心を地球がかためた、そのあかしのように見えません?

人間に明日はない?――大規模化する災害

2008-05-18 01:02:11 | 地球
 アメリカ南部で続発している強力なハリケーン、ミャンマーをはじめ南アジア各地で顕著になっている狂暴なサイクロン、また日本でも年々苛烈になっているタイフーン(台風)、そして中国や日本の大地震、それら地球のいたるところで頻発(ひんぱつ)している最近の大災害は重要な二つのことを強力に示唆(しさ)しているように思えます。

 一つは、地球の温暖化や地殻運動の活発化、そして人口の増加などによって、被害の規模がますます巨大化しているということです。
 どれだけ想像力をたくましくして、どれだけ大きな予防策を講じても、それを超える災害が起こるでしょう。
 もともと災害というのは、それまでの推計や予測を超えるから災害になるわけで、結局は地球の崩壊に至るまでひたすらに拡大していくという宿命にあるのです。

 そしてもう一つは、それら大災害はもはや一国や一民族の対応では間に合わないということです。
 国々の連携と相互協力が不可欠です。
 国々が対立を続けている場合ではありません。
 国と国との切断軸を、人類と地球との切断軸に急いで転換しなければなりません。

 人間の視点で見て地球があきらかに崩壊に向かっているときに、なお国と国、民族と民族が対立を続けている状況は、ただただ人類の滅びを加速しているに過ぎません。

 人間が賢明にならなければ、人類の明日はないのです。