展覧会タイトルにどう接するべきなのか、いつも迷います。
その言葉がどれぐらい重要かは、作家によってさまざまでしょう。
しかし著述家でもある林哲夫さん、決して言葉をないがしろにするようなことはないでしょうし、場合によっては本人の企図とは別のところで言葉が重要な意味をおびてくる、そういう言葉の祝福を受ける画家がいるとすれば、この人をおいて他にはないはずです。
「写実と幻想」。
身も蓋もないタイトルといえばそうです。
カフカやランボーのポートレイト。後者はヴェルレーヌと共に本の表紙の肖像として描かれていますが、さらには図版のない本そのものの形姿。また、猫たち。いわばこれらが「写実」を担当。
そしてデカルコマニーのシリーズ。確とは何が描かれているかは分かりません。暗黒星雲のそこここで輝く星のような、地と光の形象。ある種の心理テストの図像のように人の横顔を読み込めそうだったり、像を結びそうで結ばない夢の記憶のようです。いわばこれらが「幻想」の極。
と、こんなふうに、これも身も蓋もない仕方で整理をしてみると、しかしもうひとつのシリーズ、コラージュ作品の面白さがいっそう際立ってくるようなのです。
コラージュの中でもとりわけ印象的なのは、デカルコマニー作品に通じる「抽象的」な色彩の上に「具象的」な女性像が、今風にいえばコピー&ペーストされ、「オフィーリア」「レダ」といった新しく古い名を与えられた一連の作品。
鑑賞者はほとんど自動的に「写実と幻想」もしくは「具象と抽象」の融合という二分法で作品をながめてしまいます。
ですが考えるまでもなく、コラージュされた人物は絵画の人物であり、その地の上で相対的な生々しさを与えられることで、(たとえ写真作品の引用であっても)かえって非-写実性を増していくのです。
とすると「写実性」とはいったいどこにあるのか。
あるいはもはやこれは「幻想と幻想」というべき事態でしょうか。
上に「相対的」といいましたが、実はこれは度合い(”写実度”)の問題でもないでしょう。
ここで浮き彫りになってくるのは、おそらく写実性とはほとんど関係のない絵画独自のリアリティの問題です。
一方では事実感覚が爆発的に膨れ上がり、一方では仮想現実的感覚が、という現代的状況。
そのどちらもが「現実的な」「リアルな」という言葉で「写実性」を志向しており、そのあいだにあって、こうした絵画的リアリティは引き裂かれ、もう散り散りになろうとしているかのよう。
林哲夫作品のリアルな、というより、アクチュアルな問いかけ、静かなる抗議があるように思われるのです。
それにしても、あの「オフィーリア」の鮮烈さ。
彼女の背景にあしらわれた色は、足を傷つける尖った岩場、潮の引いたあと岩場に残された水、かなたの暗い森、その上で暮れていく空……
そんな場面はないはずですが、荒涼としたデンマークの海岸で、無慈悲な仕打ちを受けながら、なお愛してやまぬ王子が送られた(はずの)イングランドの彼方をながめやる彼女、この姿を浮かべることなしに、もう『ハムレット』を思い出すことはできないかもしれません。
「林哲夫展 写実と幻想」は神戸・元町のギャラリーロイユで2019年9月14日~10月5日の会期で開催。ギャラリーのホームページはhttps://www.g-loeil.com/
その言葉がどれぐらい重要かは、作家によってさまざまでしょう。
しかし著述家でもある林哲夫さん、決して言葉をないがしろにするようなことはないでしょうし、場合によっては本人の企図とは別のところで言葉が重要な意味をおびてくる、そういう言葉の祝福を受ける画家がいるとすれば、この人をおいて他にはないはずです。
「写実と幻想」。
身も蓋もないタイトルといえばそうです。
カフカやランボーのポートレイト。後者はヴェルレーヌと共に本の表紙の肖像として描かれていますが、さらには図版のない本そのものの形姿。また、猫たち。いわばこれらが「写実」を担当。
そしてデカルコマニーのシリーズ。確とは何が描かれているかは分かりません。暗黒星雲のそこここで輝く星のような、地と光の形象。ある種の心理テストの図像のように人の横顔を読み込めそうだったり、像を結びそうで結ばない夢の記憶のようです。いわばこれらが「幻想」の極。
と、こんなふうに、これも身も蓋もない仕方で整理をしてみると、しかしもうひとつのシリーズ、コラージュ作品の面白さがいっそう際立ってくるようなのです。
コラージュの中でもとりわけ印象的なのは、デカルコマニー作品に通じる「抽象的」な色彩の上に「具象的」な女性像が、今風にいえばコピー&ペーストされ、「オフィーリア」「レダ」といった新しく古い名を与えられた一連の作品。
鑑賞者はほとんど自動的に「写実と幻想」もしくは「具象と抽象」の融合という二分法で作品をながめてしまいます。
ですが考えるまでもなく、コラージュされた人物は絵画の人物であり、その地の上で相対的な生々しさを与えられることで、(たとえ写真作品の引用であっても)かえって非-写実性を増していくのです。
とすると「写実性」とはいったいどこにあるのか。
あるいはもはやこれは「幻想と幻想」というべき事態でしょうか。
上に「相対的」といいましたが、実はこれは度合い(”写実度”)の問題でもないでしょう。
ここで浮き彫りになってくるのは、おそらく写実性とはほとんど関係のない絵画独自のリアリティの問題です。
一方では事実感覚が爆発的に膨れ上がり、一方では仮想現実的感覚が、という現代的状況。
そのどちらもが「現実的な」「リアルな」という言葉で「写実性」を志向しており、そのあいだにあって、こうした絵画的リアリティは引き裂かれ、もう散り散りになろうとしているかのよう。
林哲夫作品のリアルな、というより、アクチュアルな問いかけ、静かなる抗議があるように思われるのです。
それにしても、あの「オフィーリア」の鮮烈さ。
彼女の背景にあしらわれた色は、足を傷つける尖った岩場、潮の引いたあと岩場に残された水、かなたの暗い森、その上で暮れていく空……
そんな場面はないはずですが、荒涼としたデンマークの海岸で、無慈悲な仕打ちを受けながら、なお愛してやまぬ王子が送られた(はずの)イングランドの彼方をながめやる彼女、この姿を浮かべることなしに、もう『ハムレット』を思い出すことはできないかもしれません。
「林哲夫展 写実と幻想」は神戸・元町のギャラリーロイユで2019年9月14日~10月5日の会期で開催。ギャラリーのホームページはhttps://www.g-loeil.com/
(takashi.y)