しゅぷりったあえこお nano

ブログ版 シュプリッターエコー

口先だけの神戸市バス

2014-07-12 19:12:00 | 都市
 先月の19日に神戸市バスへの苦情を書きましたが、きょうもまた苦情です。

 バスの中ではいつもこういう放送をしているんです。
 バスがちゃんと停まるのを待って、それから座席をお立ちください、と。
 ところが、実際にバスが停止してから立つと、ほとんどの場合まず間に合わないんです。
 いさいかまわず、運転士さんがバスを発進させてしまうんです。

 きょうもそうでした。
 ぼくは三宮から乗って、野崎通3丁目で降りるんです。
 梅雨の時期には腰痛がひどくなるでしょう。
 それできょうはバスの放送通りに停まってから立ったんです。
 ところが運転士さんは先の客一人が降りてしまうと、ぼくのことなんかお構いなしに、早々にドアを閉めて、バスを発進させたんです。
 「あっ、すみません、降ります」とあわてて大声をあげました。

 とうぜんバスはそこで急停車です。
 ぼくは前にのめって、運転席の後ろの柱にぶつかって、やっと体を支えました。
 おかげで、腰痛ばかりか、今度は右のふとももを痛めました。
 びっこをひきひき家まで歩く始末です。
 午後6時31分発の18系統のバスでした。

 いちおう注意の放送はするけれど、乗客がその通りにすると、こんなことになるんです。
 むろん中には車中の動きをしっかり見届けて、それから慎重に発進する運転士さんもおられることはおられます。
 しかし見たところ、そういうかたは10人に2人くらいだと思います。

 おおかたは形だけで、心なしです。
 口先だけのことなんです。

映画「ハンナ・アーレント」

2014-07-09 02:43:00 | 映画
T: 先日、神戸・湊川の名画座パルシネマで「ハンナ・アーレント」をみたあと、Yさんが、1961年当時アイヒマン裁判のニュース映像に触れたときに心をよぎったいうひとつの疑念が、映画をみるなかでよみがえってきたと言っていました。その話が印象に残ってるんです。
 マルガレーテ・フォン・トロッタ監督の「ハンナ・アーレント」(2012)は、ナチスの幹部だったアイヒマンが潜伏先のアルゼンチンでモサドに拘束される場面ではじまり、そのころすでに『全体主義の起源』を出していたユダヤ系の政治哲学者アーレントが「ザ・ニューヨーカー」誌の特派員として裁判の傍聴に行くことになる。そして中盤以降は、特に有名になった「悪の凡庸さ」も論じられているアーレントの『イェルサレムのアイヒマン』をめぐって、とりわけユダヤ人社会から彼女に向けられた批判や敵意との闘いが割合に淡々と描かれます。

Y: エルサレムでアイヒマンの裁判が始まったのは、ぼくが高校の三年にあがったその春のことでした。悪魔のような男が出てくるものと、そう想像していたものですから、地方役場の小役人のような、えらく貧相なアイヒマンが現われたのには、やっぱりぼくも驚きました。

T: 61年というのは僕の方は生まれてもいませんが、そうですね、アーレントの言う「悪の凡庸さ」とは、ナチスのような現代の巨悪は、極悪人の怪物的な意志によってではなく、いかにも小役人風情のアイヒマンにみられるような凡庸さ、思考や判断の欠如によって担われるという考えですね。

Y: 新聞がそれまで載せていたナチ時代の肖像写真。それがもう頭にこびりついていたのですが、こいつがみごとにハードボイルドだったんです。細おもてのおそろしくハンサムな将校で、そのうえナチスの軍服というのは、ほめたくはないんですけど、デザインが最高にシャープでしょう。いかにも冷徹な親衛隊中佐のイメージ。ああ、この顔なら、なんの憐憫の情もなくユダヤの人びとを地獄の収容所に送ったろうと、じゅうぶん納得してしまう、そういう雰囲気というか、説得力というか、むしろ同調(チューニング)力のようなものがあったんです。
 ところが、いま法廷に引き出された初老の男は、頭もなかば禿げあがって、むしろしょぼっと立っている。豪胆に信念を語るのかと思ったら、まったく逆に、「あれはすべて上からの命令だった。私はただ命令に従ったに過ぎない」と、始めから終わりまで逃げの一手。それまでのイメージとは、あまりの落差なんですね。
 こんなみすぼらしい男だったのか、と…。

T: そういう「みすぼらしさ」、主体性の無さをアーレントは、アイヒマンという個人のたまたまの性質ではなく、彼の悪の行使と結び付いた本質的なものとみなしたと、そういうことですね。(続)