批評のまねごとのような仕事を長年にわたってしていますと、体の中にある癖(くせ)のようなものがたまってきます。
たとえば演劇の舞台を見るとして、すると物語の中に浸(ひた)るというより、つい作品の良し悪しを計量するような、そんな外部者の立場に身を置いてしまうのです。
しかもそこは比較的安全なゾーンです。
そういう観察者の立場にいるかぎり、どんなシーンが目の前に現れても、心がグチャグチャになるような、そこまでの危険に身をさらすことはまずないといっていいでしょう。
どんな事件でも、それはちょっと他人事で終わるのです。
ところが、あまり安全でない夜を味わうはめになりました。
オッ、これはオレのことだ、とそう思って少なからず身を引く構えになりました。
劇団道化座が兵庫県立芸術文化センターで上演した「おやじ」です(8月25日)。
「おやじ」は中国の劇作家・申捷(シェン・ジ)さんが2001年に発表した現代中国の物語です。
はじめはタカをくくって見ていました。
どっちにしても海の向こうの話です。
急成長する巨大都市に住む富裕な父子、そして時代から遅れた僻村(へきそん)に住む貧しい父子、この二組の家族をめぐって、対比的に話は進んでいくのです。
地理的にも社会的にも日本とは事情が違います。
今の中国を知るうえでこれほどいい機会はないですが、そんなに急激に大金持ちになる父親はぼくらの周りにいませんし、そこまで貧乏な父親もそうめったにいるものではありません。
あくまで中国の出来事です。
中国の出来事でした。
そう。デシタ、です。
少なくとも劇中の父親が息子との微妙な心の溝をせりふの中に暗に含ませるまでは。
息子との間に起こったささいなことに、父親がふと寂しい表情を浮かべるまでは。
そして、それにもかかわらず、いぜん息子たちのことが好きで好きでたまらない、父親たちのその控えめな心の動きが舞台にこぼれ出るまでは。
あっ、あれはオレのことだ。
グサッと突き刺さってきたのです。
その瞬間、ぼくはもうこれが中国の演劇だということをすっかり忘れていたのです。
そうだった、オレもおやじだったのだ。
なぜか少し恥ずかしい思いをしながら、ぼくはそのことを反芻(はんすう)しました。
息子が生まれてからこれまでの実に長い年月が体にあふれてきたのです。
ぼくは劇中の父親ほど貧しいわけではなく、もちろん豊かでもないですし、使う言語も違えば住む環境も異なりますが、にもかかわらず劇中の父親の戸惑(とまど)いはぼくの戸惑いだったのです。
彼らの悲しみはぼくの悲しみになりました。
彼らの喜びはぼくの喜びになりました。
涙がじわっとにじんできました。
批評者の矜持(きょうじ)からいえば、これはいささか安っぽい涙です。
こんなに簡単に泣くなんて。
くそっ。
しかし。
しかし、です。
批評、なんか、クソったれ。
クソったれ、です。
もう、このさい。
国境を越え、民族を越えて、父親とはちょっと哀しく、ちょっと寂しい存在です。
どっちが本当でしょう?
民族の異質性と、父親の同質性の…。
ともあれ向こうでも父親のあり方を懸命に考え、探っているのです。
申捷さんの台本はその真剣さをあかします。
こちらでも同じことにみんな迷っているのです。
同じ心の断層がむこうとこちらを深く走っているのです。
同じことを向こうでもこっちでも一生懸命考えている。
そう思うと、だらしなく涙を浮かべながらのことですが、少し明るみがみえました。
☆
劇団道化座公演「おやじ」は翻訳・叢林春、演出・須永克彦。出演は須永のほか仲比呂志、浅川恭徳、宮内政徳、馬場晶子、吉安愛、阿曽修三、松本学、三宅幸雄。
たとえば演劇の舞台を見るとして、すると物語の中に浸(ひた)るというより、つい作品の良し悪しを計量するような、そんな外部者の立場に身を置いてしまうのです。
しかもそこは比較的安全なゾーンです。
そういう観察者の立場にいるかぎり、どんなシーンが目の前に現れても、心がグチャグチャになるような、そこまでの危険に身をさらすことはまずないといっていいでしょう。
どんな事件でも、それはちょっと他人事で終わるのです。
ところが、あまり安全でない夜を味わうはめになりました。
オッ、これはオレのことだ、とそう思って少なからず身を引く構えになりました。
劇団道化座が兵庫県立芸術文化センターで上演した「おやじ」です(8月25日)。
「おやじ」は中国の劇作家・申捷(シェン・ジ)さんが2001年に発表した現代中国の物語です。
はじめはタカをくくって見ていました。
どっちにしても海の向こうの話です。
急成長する巨大都市に住む富裕な父子、そして時代から遅れた僻村(へきそん)に住む貧しい父子、この二組の家族をめぐって、対比的に話は進んでいくのです。
地理的にも社会的にも日本とは事情が違います。
今の中国を知るうえでこれほどいい機会はないですが、そんなに急激に大金持ちになる父親はぼくらの周りにいませんし、そこまで貧乏な父親もそうめったにいるものではありません。
あくまで中国の出来事です。
中国の出来事でした。
そう。デシタ、です。
少なくとも劇中の父親が息子との微妙な心の溝をせりふの中に暗に含ませるまでは。
息子との間に起こったささいなことに、父親がふと寂しい表情を浮かべるまでは。
そして、それにもかかわらず、いぜん息子たちのことが好きで好きでたまらない、父親たちのその控えめな心の動きが舞台にこぼれ出るまでは。
あっ、あれはオレのことだ。
グサッと突き刺さってきたのです。
その瞬間、ぼくはもうこれが中国の演劇だということをすっかり忘れていたのです。
そうだった、オレもおやじだったのだ。
なぜか少し恥ずかしい思いをしながら、ぼくはそのことを反芻(はんすう)しました。
息子が生まれてからこれまでの実に長い年月が体にあふれてきたのです。
ぼくは劇中の父親ほど貧しいわけではなく、もちろん豊かでもないですし、使う言語も違えば住む環境も異なりますが、にもかかわらず劇中の父親の戸惑(とまど)いはぼくの戸惑いだったのです。
彼らの悲しみはぼくの悲しみになりました。
彼らの喜びはぼくの喜びになりました。
涙がじわっとにじんできました。
批評者の矜持(きょうじ)からいえば、これはいささか安っぽい涙です。
こんなに簡単に泣くなんて。
くそっ。
しかし。
しかし、です。
批評、なんか、クソったれ。
クソったれ、です。
もう、このさい。
国境を越え、民族を越えて、父親とはちょっと哀しく、ちょっと寂しい存在です。
どっちが本当でしょう?
民族の異質性と、父親の同質性の…。
ともあれ向こうでも父親のあり方を懸命に考え、探っているのです。
申捷さんの台本はその真剣さをあかします。
こちらでも同じことにみんな迷っているのです。
同じ心の断層がむこうとこちらを深く走っているのです。
同じことを向こうでもこっちでも一生懸命考えている。
そう思うと、だらしなく涙を浮かべながらのことですが、少し明るみがみえました。
☆
劇団道化座公演「おやじ」は翻訳・叢林春、演出・須永克彦。出演は須永のほか仲比呂志、浅川恭徳、宮内政徳、馬場晶子、吉安愛、阿曽修三、松本学、三宅幸雄。