暴力団の世界と政治の世界で、よく似たことが並行して起こっています。
ちょっとおもしろい現象です。
暴力団のほうでは、日本最大の組織の山口組から神戸や大阪などの関西勢が飛び出して、神戸山口組というような新しい組織を作ろうとしているということです。
いっぽう政治のほうでも、全国組織の維新の党から党の看板だった橋下徹さん(大阪市長)たちが飛び出して、大阪維新の党といった新政党を作ろうとしているということです。
神戸とか大阪とか、頭に地域の名を載せただけではないかといえば、それはそうなんですけれど、これ、けっこう微妙な意味が読めるんです。
神戸という都市と山口組との間には、なかなか濃厚かつ微妙な関係がありまして。
話は敗戦直後の1945年ごろにまでさかのぼっていきますが、そのころの神戸というのは、まあ、混乱のきわみにあったわけでして。
なにしろそれまで威張りかえっていた大日本帝国の警察がすっかり威信を失って、機能マヒに陥ってしまっていましたから。
神戸に住んでいた朝鮮人や中国人の一部のひとが、戦争中はひどい差別に苦しんできましたから無理もなかったんですが、街で勝手放題をやりだして、それでも警察は手をこまねいてただ傍観しているだけという、そんな状態だったんです。
警察官の目の前で乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)が起こっていても、見て見ぬふりをしていたっていいますから。
ひどい目にあうのは一般市民。
どんな仕打ちにあっても、もっていくところがない。
けっきょくは泣き寝入り。
そんなときに、市民を守ったのが山口組の親分衆や一般組員だったんです。
かれらが警察官に代わって、それこそ体を張って市民を守ったんですね。
いまではもう想像できないことですが、三代目の田岡一雄組長は、それこそ市民から英雄とみられていました。
それどころか警察もかれを頼みにしていたようで、あるときなど田岡組長が一日水上署長になって、神戸港を巡視艇で視察したりもしてるんです。
十年ちょっと前までは、山口組への恩義を語るお年寄りがまだぼくの周囲にもいましたよ。
神戸の大震災のときなども山口組は被災者への救援物資をせっせと運んでいましたが、なかでも婦人たちが、女性の生理用品まで配ってくれたのはあそこだけだった、と振り返っていたのはとても印象的でした。
いまでも故田岡組長のことは田岡さんと特にサンづけで呼ぶひとがほとんどです。
そんなことを知らない若い世代にとっては、もう遠い昔の話としても。
まあ、そんなわけで、神戸と山口組との間には、ほかの地域では考えられないような濃密かつ微妙な関係があるんです。
それが大きく様変わりを始めているのが昨今です。
現在の組長(六代目)の司忍さんは名古屋の弘道会の出身です。
もう神戸の市民とは直接のつながりはありません。
今回の分裂劇も司さんが組の中枢部(ちゅうすうぶ)を弘道会の出身者で固めてしまった、それが原因だといわれています。
神戸や大阪など関西勢がそれに反発して、ついに離脱を決めたというんです。
もちろんそのような内部の事情はぼくら一般の市民にはなんの関係もありません。
ただ、田岡さんが亡くなってから、ほかの都市あるいはほかの地域の実力者たちがどんどん組の幹部に入ってきて、それだけ山口組が神戸の市民から遠い存在に変わってきた、そのことはこの街に長く住むひとならだれもが感じていることです。
生前の田岡さんは、罪のない一般市民には決して迷惑をかけるなと配下の組員に厳しく命じていましたが、そんな市民と組の暗黙の約束ごとももう薄れてしまったようですし。
ほかの都市ほかの地域との温度差というのは、なかなか溶け合わないもののようですね。
離脱組の中心に神戸の山健組がいるというのも、あんがい市民との間にミゾができてしまうことへの危機感が、どこかで働いていてのことかもしれません。
暴力団という、言うところの反社会的勢力が、それでも社会で生き抜いていくうえでは、市民と陰で交わし合う微妙なシンパシーこそが大きな資産なわけですから。
さてもうひとつ、橋下さんの大阪維新の党ですが。
橋下さんの離脱の原因となったのは、幹事長の柿沢未途さんとの対立が厳しくなったからですが、やっぱりここにも地域の温度差が読めるんです。
柿沢さんは東京が選挙区です。
東京スタイルの政治にとっぷり浸かってきたひとです。
今の大阪の野性的な熱さを理解するのはちょっとむずかしいでしょう。
先の大阪都構想にしても、東京から見れば、反対派が住民投票で勝利して、都構想はそれで消えたと、その結果が残っているだけです。
都構想はもうこれで終わったと、そう見ているひとが多いでしょう。
けれど、大阪ないし関西で見ていたものには、たったあれだけの短期間に、賛成派が反対派をあそこまで僅差に追い上げた、そのダイナミックなプロセスが大きく記憶に残っています。
もう一度住民投票を行ったら今度は勝つのではないかと、そういう予感さえ漂っているのです。
維新の党は国会での勢力を広げるために他の勢力との連携をめざしてきました。
それが一定の成果に結びついたことは確かですが、政治改革を急ぎたいという大阪の情熱はかえって希薄になりました。
橋下さんが維新の党を離脱して、あらたに大阪維新の党を構想する背景には、大阪の濃度をいしづえにした濃厚な運動を再度くわだてたいという強い思いがあるはずです。
政治にしろ社会にしろ、新しい状況へ向かう動きはしばしば関西で生まれてきました。
今度はどんな展開になるのでしょう。
ただ暴力組織の再編には常に血を血で洗う抗争が伴います。
その点が予断を許さないところです。
ちょっとおもしろい現象です。
暴力団のほうでは、日本最大の組織の山口組から神戸や大阪などの関西勢が飛び出して、神戸山口組というような新しい組織を作ろうとしているということです。
いっぽう政治のほうでも、全国組織の維新の党から党の看板だった橋下徹さん(大阪市長)たちが飛び出して、大阪維新の党といった新政党を作ろうとしているということです。
神戸とか大阪とか、頭に地域の名を載せただけではないかといえば、それはそうなんですけれど、これ、けっこう微妙な意味が読めるんです。
神戸という都市と山口組との間には、なかなか濃厚かつ微妙な関係がありまして。
話は敗戦直後の1945年ごろにまでさかのぼっていきますが、そのころの神戸というのは、まあ、混乱のきわみにあったわけでして。
なにしろそれまで威張りかえっていた大日本帝国の警察がすっかり威信を失って、機能マヒに陥ってしまっていましたから。
神戸に住んでいた朝鮮人や中国人の一部のひとが、戦争中はひどい差別に苦しんできましたから無理もなかったんですが、街で勝手放題をやりだして、それでも警察は手をこまねいてただ傍観しているだけという、そんな状態だったんです。
警察官の目の前で乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)が起こっていても、見て見ぬふりをしていたっていいますから。
ひどい目にあうのは一般市民。
どんな仕打ちにあっても、もっていくところがない。
けっきょくは泣き寝入り。
そんなときに、市民を守ったのが山口組の親分衆や一般組員だったんです。
かれらが警察官に代わって、それこそ体を張って市民を守ったんですね。
いまではもう想像できないことですが、三代目の田岡一雄組長は、それこそ市民から英雄とみられていました。
それどころか警察もかれを頼みにしていたようで、あるときなど田岡組長が一日水上署長になって、神戸港を巡視艇で視察したりもしてるんです。
十年ちょっと前までは、山口組への恩義を語るお年寄りがまだぼくの周囲にもいましたよ。
神戸の大震災のときなども山口組は被災者への救援物資をせっせと運んでいましたが、なかでも婦人たちが、女性の生理用品まで配ってくれたのはあそこだけだった、と振り返っていたのはとても印象的でした。
いまでも故田岡組長のことは田岡さんと特にサンづけで呼ぶひとがほとんどです。
そんなことを知らない若い世代にとっては、もう遠い昔の話としても。
まあ、そんなわけで、神戸と山口組との間には、ほかの地域では考えられないような濃密かつ微妙な関係があるんです。
それが大きく様変わりを始めているのが昨今です。
現在の組長(六代目)の司忍さんは名古屋の弘道会の出身です。
もう神戸の市民とは直接のつながりはありません。
今回の分裂劇も司さんが組の中枢部(ちゅうすうぶ)を弘道会の出身者で固めてしまった、それが原因だといわれています。
神戸や大阪など関西勢がそれに反発して、ついに離脱を決めたというんです。
もちろんそのような内部の事情はぼくら一般の市民にはなんの関係もありません。
ただ、田岡さんが亡くなってから、ほかの都市あるいはほかの地域の実力者たちがどんどん組の幹部に入ってきて、それだけ山口組が神戸の市民から遠い存在に変わってきた、そのことはこの街に長く住むひとならだれもが感じていることです。
生前の田岡さんは、罪のない一般市民には決して迷惑をかけるなと配下の組員に厳しく命じていましたが、そんな市民と組の暗黙の約束ごとももう薄れてしまったようですし。
ほかの都市ほかの地域との温度差というのは、なかなか溶け合わないもののようですね。
離脱組の中心に神戸の山健組がいるというのも、あんがい市民との間にミゾができてしまうことへの危機感が、どこかで働いていてのことかもしれません。
暴力団という、言うところの反社会的勢力が、それでも社会で生き抜いていくうえでは、市民と陰で交わし合う微妙なシンパシーこそが大きな資産なわけですから。
さてもうひとつ、橋下さんの大阪維新の党ですが。
橋下さんの離脱の原因となったのは、幹事長の柿沢未途さんとの対立が厳しくなったからですが、やっぱりここにも地域の温度差が読めるんです。
柿沢さんは東京が選挙区です。
東京スタイルの政治にとっぷり浸かってきたひとです。
今の大阪の野性的な熱さを理解するのはちょっとむずかしいでしょう。
先の大阪都構想にしても、東京から見れば、反対派が住民投票で勝利して、都構想はそれで消えたと、その結果が残っているだけです。
都構想はもうこれで終わったと、そう見ているひとが多いでしょう。
けれど、大阪ないし関西で見ていたものには、たったあれだけの短期間に、賛成派が反対派をあそこまで僅差に追い上げた、そのダイナミックなプロセスが大きく記憶に残っています。
もう一度住民投票を行ったら今度は勝つのではないかと、そういう予感さえ漂っているのです。
維新の党は国会での勢力を広げるために他の勢力との連携をめざしてきました。
それが一定の成果に結びついたことは確かですが、政治改革を急ぎたいという大阪の情熱はかえって希薄になりました。
橋下さんが維新の党を離脱して、あらたに大阪維新の党を構想する背景には、大阪の濃度をいしづえにした濃厚な運動を再度くわだてたいという強い思いがあるはずです。
政治にしろ社会にしろ、新しい状況へ向かう動きはしばしば関西で生まれてきました。
今度はどんな展開になるのでしょう。
ただ暴力組織の再編には常に血を血で洗う抗争が伴います。
その点が予断を許さないところです。