しゅぷりったあえこお nano

ブログ版 シュプリッターエコー

輝かしく高貴な時間―F.ノボトニー 伊藤ルミ デュオ

2013-06-22 18:39:00 | 音楽
 光の流れと交わったような高貴な時間。
 そんな輝かしい時間と出遭うことは幸福なことです。
 つらいことの多い毎日ですが、ほんとうはすばらしい世界にぼくらは生きているんだと、そのことを鮮やかに思い出させてくれるのです。
 ヴァイオリニストのフランティシェック・ノボトニーさんとピアニストの伊藤ルミさんのコンサートは、そんな珠玉のような時間をぼくらに与えてくれました。(2013年6月22日、神戸新聞松方ホール)

 ノボトニーさんはチェコを代表するヴァイオリニストのひとりです。
 伊藤さんは神戸を拠点にして日欧で活躍を続けてきたピアニスト。
 伊藤さんが初渡欧した1988年に交流が始まったということです。
 日本ツアーは今回でもう16回目になるのです。

 おそらく今回のこの「デュオ2013」は、たゆまず続けられてきたこの長期シリーズのひとつの頂点ではなかったでしょうか。
 ここにきてふたりの心のありようがいよいよくっきりと現われてきたように見えるのです。
 くっきりと現われてきたことで、アンサンブルがいっそう水際立ったものになったのです。
 円熟のひとつの極点に到達した、とそう言ってもいいでしょう。

 ノボトニーさんは、天空を鋭く翔ける精神のようなのです。
 いえ、すでに精神そのものです。
 高貴な輝きを放つのです。
 伊藤さんは、大洋を悠然とめぐる大きな情感の海流です。
 温かで豊麗な風をつくります。
 高い精神と奥深い情感とが呼応して大きな世界を築くのです。

 ヘンデル(ヴァイオリンソナタ第4番)とバッハ(カンタータ147番より「主よ、人の望みの喜びよ」)のプログラムは、この天空の精神と大洋の情感とを堅実な響きのなかに表現しました。
 バロックの堅牢な鼓動が、いのちの流れを確かな軌道と無限の広がりのなかで感じさせてくれたのです。
 鋭く翔けるものとゆったりとめぐるものの均衡と調和の極致がそれを感じさせてくれたのです。
 
 そして大曲「クロイツェル」(ベートーヴェン「ヴァイオリンソナタ第9番」)では、この均衡と調和が単に表面でかたちづくられただけの風景ではないということ、その内部には確かな空間と大きな沸騰があるということ、そのことがはっきりかたられたのでした。
 第一楽章で明快に提示される鋭さ(第一主題)と穏やかさ(第二主題)の対峙、そしてその融合と超克。
 その実り豊かな交錯を、ヴァイオリンとピアノの緊密な演奏が、明晰に、揺るぎなく、情熱的に、しかも艶麗に繰り出していったのです。
 表の風景の美しさがまさしく構造的に開示された、とそう言っていいでしょう。

 しかし真実の相のなかにはいつもなにがしか悲劇への予感があります。
 完璧に晴朗な青空には、ときとして雷霆(らいてい)への不安がよぎります。
 ラヴェルの「ツィガーヌ」は、じっさい、ぼくたちを稲妻のように撃ったのです。

 ふたりの演奏家は、この曲が求める超絶技巧に猛烈な速度と精緻な振動で対応しました。
 それは天空に突き立った危険な尾根を微妙なバランスで進んでいく命しらずの冒険家のようでした。
 それは、このふたりの演奏家が、実は極限的な数々の瞬間をどんなに大きな勇気で乗り越えてきたか、そのことを如実にあかしもしたのです。

 すばらしい均衡と調和には、そうです、いつも恐ろしいクレバスが隠されているのです。
 あるいはむしろ、そのすばらしい構造は、無数のクレバスの危険な集積で成っているのかもしれません。
 危険こそ、たぶん、均衡と調和の母なのです。

 この日、ぼくたちは時間が光になるのを感じました。
 演奏者たちがまぶしく輝き、それに呼応してぼくたちも輝きました。
 この世界に真実の相があるということ、そのことを確かめることができました。 

バスの中で

2013-06-20 23:25:00 | 都市
 神戸の市営バスでのことです。
 きょうの午後、三宮に向かうバスに乗っていました(石屋川車庫前発)。
 都心も近い雲中小学校前の停留所に停まったときのことでした。
 もう発進するな、と思ったときに、とつぜん運転士さんが運転台から下りてきました。
 乗客たちの座席の方へ出てきたのです。
 なにか事故でもあったのかな、とどきっとしました。

 けれど事故ではありませんでした。
 ぼくのすぐ後ろまで進んできて、そこでそっとひとりの男の人に寄り添ったのです。
 「席が空いてますから、こちらへどうぞ」
 その男の人は目の不自由なかたでした。
 車内のようすがわからなくて、白い杖をたよりに不安そうに立っておられたのでした。
 運転士さんは、やさしく肩に手を置いて、男の人を席に導いたのでした。

 みたところまだ若い運転士さんのようでした。
 車内鏡でとっさに気づいたことのようでした。

 ぼくはじぶんのことが少し恥ずかしくなりました。
 そんな近くに目の不自由なかたがおられたのです。
 ほんとうならいちはやくぼくが気づいて、そのかたに席に空きがあることを教えてあげるべきだった、とそう思ったからでした。

 そしてそう思ったのはたぶんぼくだけではなかったように思います。
 まわりの多くの人たちがその瞬間ぼくと同じような気持ちになった、そういう雰囲気がありありと生まれていました。

 でもたぶん、こんど同じようなことがこの街であったなら、このときに同乗した人びとはきょうの運転士さんがしたのと同じことをタイミングをはずさずにするにちがいありません。
 そのような雰囲気も同時に生まれていたのです。

そば湯はどこへ行った

2013-06-13 18:18:00 | くらし、商品
 神戸の三宮かいわいには何軒か「家族亭」というそば屋さんがあります。
 ぼくの好きな店なのです。
 とりわけざるそばは、神戸ではここの店が最高だとつねづねぼくは思っています。
 少し黒みがかった色はそば粉の配合が絶妙なことをあかしています。
 それを濃いめのつゆでいただきます。
 わさびとねぎがたっぷりなのも、心を豊かにしてくれます。
 
 昔どおりにそば湯がおしまいに出てくるのも、この店の味わいです。
 出し方がいいのです。
 あとちょっとで食べ終わるなという段に、すばらしいタイミングで出てきます。
 「そば湯です。よかったら、どうぞ」
 勘定書きもこのときにそっと添えられてくるのです。
 ほんとうに、そっと、です。
 味が主役で、お金はついてくるものです、という店の思いが控えめな作法にあらわれます。
 
 それで550円は、どう考えても安いです。

 さて、ぼくがよく行くのは高架鉄道の北側にある店と地下街の南端にある店の2店です。
 どんぶりものなどのメニューも豊富で、なにを注文しても、今までに裏切られたことはありません。
 その「家族亭」がポートアイランドにもできていると知ったのは、この人工島の市民病院へ通うようになってからのことでした。
 病院の少し南に、落ち着いた、品のいい店を構えています。
 帰りに一度は入りたかったのですが、なにしろ歯の根っこを8本ばかり抜くための通院でしたから、そばを食べるどころではなかったのです。
 それが、きょう晴れての無罪放免。
 さっそくその病院南の「家族亭」へお邪魔しました。

 いうまでもなく、まずはざるそば。
 間違いなくいい味です。
 じゅうぶん満足したのです。
 ところが、そこからあとがどうもいつもの段取りと違うことになったのです。
 そば湯が出てこなかったのです。

 見れば、勘定書きも最初からテーブルの上にありました。
 ひょっとしたらそば湯はこの店ではらち外なのか、とむろんすぐにそのように考えました。
 しかし、器の底に残ったつゆにそば湯をそそいで、ゆっくりといただくあの醍醐味。
 ぼくには至福の時間です。
 貴重な儀式だといってもそう間違いではありません。

 もう少し待ってみるか、とまだ未練がましく座っていました。
 2分ばかりたちましたが、いぜん出てくる気配はありません。
 忙しそうに立ちまわっている店員さんをつかまえてお願いするのも気がひけます。
 とはいっても、やっぱりそば湯なしでは立ち去りがたく、タイミングを待つことにしたのです。
 するとさらに2分ばかりして男の店員さんが、どうやら頼んでもよさそうな雰囲気でそばを通りかかってくれました(店長さんかもしれませんが、それは確かめていないのでわかりません)。
 「すみません、そば湯をお願いします」
 「少々、お待ちください」
 それが店員さんの答えでした。

 ところが、です。
 そのそば湯が来ないのです。
 ああいうものは間髪いれずに出てきてこそ、すっとそっちへ乗り移ることができるのです。
 二分も三分も待たされるのは、間抜け面もいいとこです。
 それに料金を払っていただくものならまだ格好がつきますが、もともとタダのものですから、なにかしら、どうも、もの欲しげで、その格好悪さが時間とともにいっそう強くじぶんに見えてくるのです。
 そば食いとしてはどんどんメンツが壊れていく気分です。
 とうとういたたまれなくなりました。
 そこで席を立ったのです。

 カウンターには中年の女の店員さんがにこにこと待っていました。
 店を黙って出てもよかったのですが、黙って出るとたぶん夜中まで裏切られた気分が続きますから、ついひとこと彼女に言ってしまうことになりました。
 「そば湯をお願いしたのですが、きませんでした」
 すると、なにを勘違いしたのか、彼女はいっそうこぼれるような笑いを浮かべて、
 「ありがとうございました」
 と言うのです。
 「そば湯を頼んだのに、こなかったのです」
 すると、今度ももっと明るい笑顔になって、
 「それはそれは、ほんとうにありがとうございます」
 とまたそう繰り返すのです。
 要するに、こちらのいうことをなにも聴いていないのです。
 ただ感謝の言葉と笑顔とを、おそらくはマニュアル通りに、前よりもっと懸命に繰り返すだけなのです。
 「いえ、そば湯が来なかったのです」
 さすがに今度はそば湯という言葉だけは届いたらしくて、前よりは近い返事になりましたが、近づいただけ、なおさら逆なでされるような言い方になったのでした。
 「そば湯ですか。申しつけてくださればお持ちいたしましたのに」
 もちろんこぼれるような笑顔です。
 「いえ、さっき男の店員さんにそば湯をお願いしたのですが、持ってきてくださる気配がないんです。しびれを切らして、あきらめました。忘れてしまわれたのでしょう」
 そこでようやく彼女はわかったようでした。
 「どうしましょう」
 もっと笑いながらもっと明るい声をしてこう申されたのでした。

 どうしましょう、と言われても、ぼくにはどうしようもありません。
 たじろいでしまう始末です。 
 もう絶句するばかりです。
 すると彼女はなおも笑い続けながら言いました。
 「今からお持ちしましょうか。席に戻っていただけたらお持ちしますが」
 今となってはそば湯にこだわっていることじたいが、なかなか、けっこう、みじめなのに、そのうえさらに恥の上塗りをさせられそうな雲行きです。
 大声で捨てぜりふを怒鳴って出るには、そこはそこ、やはりそれなりの訓練が要るわけで、そんな作法を習得していないこの身では、まぬけ面に半端な笑いを浮かべながら退散するほかありません。

 …まあ、ブログ向けにちょっとおもしろい話ができた。
 これで、いっか。

 それにしても、新しい店というのはだんだんこんなふうになるのでしょうか。
 いつまでも大切にしたい店なのですが。