重要なのは、ひとが「意味」という語によってこの語に〈対応する〉ものを指し示すのであれば、この語は語法に反して用いられている、ということを確認しておくことである。それは、名の意味と名の担い手とを混同することなのである。N・N氏が死ぬとき、その名の担い手が死ぬのであって、その名の意味が死ぬとは言わない。そして、そのように語るのがナンセンスになるのは、その名が意味をもつのをやめたのだとすると、「N・N氏は死んだ」と言うことが意義をもたなくなるだろうからである。(『哲学探究』藤本隆志訳、大修館書店、p48)
僕らはふだんペラペラと実(じつ)のないおしゃべりをしているくせに、それじゃコトバってどんな役割を果たしてるの? と聞かれると、そりゃ、その言っていることを指しているんだろうと、急に生真面目な答えを返すことになる。実際、日常の場面ではそう思っていなくちゃ他人との会話も「お話にならない」ものだけれど、言葉の意味ということを問題にしたとき、それは物であろうと行為であろうと、その名で呼ばれている具体的な対象を必ずしも指すのではなく、それとは別の、より抽象的な次元に触れているのだということ。上の引用にあるように、個々の名の担い手が死んでもその名の意味は死なない(だからこそ「名を残す」ことも可能になるのだろう)ように、その語を口にするたび何か永遠的な意味の領域というものが、ただその瞬間だけ呼び出され、その領域との関わりなしにはコトバは何も指示し得ないのだと、そんな目でみると、この世界にまた奥行きと立体感が生まれるようで、心も小躍りしようというもの。
(G. E. M. ANSCOMBEによる英訳。原文はドイツ語)
It is important to note that the word "meaning" is being used illicitly if it is used to signify the thing that 'corresponds' to the word. That is
to confound the meaning; of a name with the bearer of the name.
When Mr. N. N. dies, one says that the bearer of the name dies,
not that the meaning dies. And it would be nonsensical to say that,
for if the name ceased to have meaning it would make no sense to say "Mr. N. N. is dead."
僕らはふだんペラペラと実(じつ)のないおしゃべりをしているくせに、それじゃコトバってどんな役割を果たしてるの? と聞かれると、そりゃ、その言っていることを指しているんだろうと、急に生真面目な答えを返すことになる。実際、日常の場面ではそう思っていなくちゃ他人との会話も「お話にならない」ものだけれど、言葉の意味ということを問題にしたとき、それは物であろうと行為であろうと、その名で呼ばれている具体的な対象を必ずしも指すのではなく、それとは別の、より抽象的な次元に触れているのだということ。上の引用にあるように、個々の名の担い手が死んでもその名の意味は死なない(だからこそ「名を残す」ことも可能になるのだろう)ように、その語を口にするたび何か永遠的な意味の領域というものが、ただその瞬間だけ呼び出され、その領域との関わりなしにはコトバは何も指示し得ないのだと、そんな目でみると、この世界にまた奥行きと立体感が生まれるようで、心も小躍りしようというもの。
(G. E. M. ANSCOMBEによる英訳。原文はドイツ語)
It is important to note that the word "meaning" is being used illicitly if it is used to signify the thing that 'corresponds' to the word. That is
to confound the meaning; of a name with the bearer of the name.
When Mr. N. N. dies, one says that the bearer of the name dies,
not that the meaning dies. And it would be nonsensical to say that,
for if the name ceased to have meaning it would make no sense to say "Mr. N. N. is dead."