しゅぷりったあえこお nano

ブログ版 シュプリッターエコー

イーストウッド「クライ・マッチョ」をめぐるメモ①

2022-02-01 01:02:00 | 映画
この映画に物語は微塵もない。それは途方もなく感動的なことです。

映画について話しているとき、ストーリーはどうでもいい、こう口にすると強い反発を招くことがあります。

しかし実際、映画についてその物語の「内容」の良し悪しを語るのはほとんど意味のないことです。

クリント・イーストウッド監督/主演のこの「クライ・マッチョ」という作品は、その物語の無さについてこそ語りたくなる作品です。


いまじはじめてウィキペディアをみましたが「批評家からは舞台背景や映画音楽については高い評価を得たものの、脚本については酷評された」とあります。

あり得ない。まったくあり得ません。

これは脚本こそがすばらしい。そしてそこにある非-物語的な理念をほとんど完全に現実化した奇蹟のような作品であるはずです。



門外漢の私が映画について何か書こうとするのは大変に気がひける思いです。

(とはいえ、これまであらゆる文章を、門外漢としてしか書いてこなかった身ではあるのですが。)

また、これについて一気にまとまった紹介を書ける自信もありません。

ですから、ここにこんなふうにメモを書き連ねていって、と考えた次第です。


うまくいかなければ、いっそのこと消してしまうのがいいでしょう。



「クライ・マッチョ」
監督 クリント・イーストウッド
脚本 ニック・シェンク/N・リチャード・ナッシュ
原作 N・リチャード・ナッシュ『クライ・マッチョ』
製作 アルバート・S・ラディ/ティム・ムーア/ジェシカ・マイヤー/クリント・イーストウッド
音楽 マーク・マンシーナ
撮影 ベン・デイヴィス
編集 ジョエル・コックス/デイヴィッド・コックス
製作会社 マルパソ・プロダクション
配給 ワーナー・ブラザース・ピクチャーズ
公開 2021年9月17日
上映時間 104分

KOBE CINEMA PORT フェス

2019-09-10 09:26:00 | 映画


私は暗闇を好まないが、映画館は別である。光の陰影がもたらすあの空間は、わざわざ出向く億劫さを補ってあまりある。

今月は「KOBE CINEMA PORT フェス」が開催される。神戸の元町から新開地にあるミニシアター4館と、周辺の飲食店などで使える6枚綴りのチケットを購入した。このチケットは、特に飲食店で使用するとお得感が増し増しなのだ。

今週末からは各ミニシアターでのメインフェスがスタートする。4館は徒歩で巡れる距離で存在するから、祝日にハシゴだってできてしまう。もらったプログラムに印を入れて計画をたてる。この店とあの店。それから、この作品とあの作品。

あれ?6枚じゃ足りない…。
キヌガワ


『まぼろしの市街戦』を

2019-04-24 02:15:00 | 映画
フィリップ・ド・ブロカ監督の「まぼろしの市街戦」を元町映画館でみました。

精神病院から彼らが街へ繰りだすあたりからもう、終わりまで慢性的に涙がにじみつづけていました。

音楽がまたすばらしく、ずっと流れているひとつのテーマが、ショットによって曲調を変えるのも楽しいです。戴冠式の話が出たときにはリュリっぽくなったり。

はじめはドン・キホーテ的な、狂気をめぐる喜劇性と悲哀にしみじみ感じいりながら、やがては、ただただ希望と幸福感のなかに浸っている自分をみいだします。

不思議といえば不思議な気持ちです。どういえばいいのか、もう自分の信じたものだけで生きていけるという、そういう力を与えてくれます。

「無敵」になったという感じではなく、むしろ他者との交わり/交戦を絶って、孤絶へと背中を押してくれる力というか。

ですが孤絶といってそれは、本当にこんなに美しい作品が世界にはあって、決して自分は孤独ではないと感じさせてくれる、そういう力なんだろうとも。


下宿に寝転がって、いまの奥さんと「テレビデオ」でみてたのがもう20年ぐらい前のこと。その人とまたスクリーンで同じ映画をみるというのは、別にたいして仲のいい2人ではないけれど、何か時間の輪がひとつ閉じるような、めぐり合わせみたいなものを感じたり。

バス停で別れ、僕は自転車で帰りながら、なんか荒井由美/ばんばひろふみの「『いちご白書』をもう一度」が浮かんできていいかげんな鼻歌を歌ってましたが、いや、あれは一緒にみて、あとで別れちゃって、って歌だった。

「いちご白書」も激しく愛している映画です。あのラストショット。
そして僕が勝手に「いちご白書」の続編だと思っている「今夜はトーク・ハード」、これもずっと心の片隅でかかりつづけている映画です。あの作品のクリスチャン・スレーターはとてもよかったし、街からみえるアリゾナの山並みとか砂漠もよくって。

「いちご白書」の続編だというのは、たぶんクリスチャン・スレーター演じる主人公の両親は(勘違いかもだけど)かつて学生運動の闘士で、映画はその子供の世代の反抗/反乱の形、あるいは共闘の可能性を、そしてやはり、それがそうはたやすく実現しないという悲しみを描いてて、何かよく似た深い感動、あるいはショックを与えてくれます。

「青春映画」というのも決してありふれたものではなく、もしあるとしたら、こういう作品たちだろうと思います。


「まぼろしの市街戦」は、元町映画館は4/26まで。
これを逃すと関西はもう上映館はなさそうです、公式サイトをみるかぎり。http://king-of-hearts-film.com/#TOP
この4Kデジタル修復版も、DVDはそのうち出るんでしょうけれど。

あ、音楽はジョルジュ・ドルリューでしたか。気がついてませんでした。やっぱりいいですよね。トリュフォーの「アメリカの夜」のテーマはほんと好きです。

映画は美しく残酷、そう、つくづく。
世界が燃える日まで、あのコクリコ(ジュヌヴィエーヴ・ビュジョルド)の胸をしめつけるような永遠のチャーミングさを、フィルムに焼き付けて。
(takashi.y)


映画「クロワッサンで朝食を」

2018-11-22 00:52:00 | 映画
食い意地がはっているので、つい食べ物に関する言葉がついている映画にひかれてしまいます。恐らくそういう人が一定数いるおかげで、原題からかけ離れた邦題をつけられてしまう映画も割とあるように思います。

「クロワッサンで朝食を」原題は「パリのエストニア人」。

公式サイト

エストニアからパリに移民として入り、成功した老女フリーダ(ジャンヌ・モロー)は、辛辣で自由奔放な性格故に周囲の人から見離され孤独に暮らしています。
主人公であるエストニア人のアンヌは、中年の女性。フリーダの介護の為に雇われ、エストニアから初めてパリに行く事になります。アンヌにもまた理由があり、現状から逃げるように故郷を後にし、希望を抱いて憧れのパリへやって来ました。
アンヌの仕事はフリーダの朝食を用意することから始まります。寝室の白い大きな扉を叩いて老女を目覚めさせ、金の少しはげた重そうな紅茶ポットとカップ、クロワッサンをトレーに乗せてベッドに運ぶのですが…

食べ物がちょっとしたエッセンスになっている映画が好きなので、タイトルで大胆に教えて頂けるのは有難いのですが、ただこの映画に関して言えば、クロワッサンが魅力的には扱われていなかったので、それを目的に見ることはオススメしません。

もしパリを訪れた事があり、早朝のパン屋から漂う匂いに誘われた事のある人、そして焼き立てのクロワッサンを食べたことのある人なら何かよみがえるものがあるかもしれません。残念ながら私にその経験はありませんでした。

この映画ではクロワッサンの皮を噛んだ時のさくフワとした温かさと、口に広がるバターいっぱいの味を感じる事は出来ません。
むしろ最後まで、幾重にも折り重なった紙の塊を噛むような味を感じます。それは映画の背景にある、現実と憧れの差を噛み締めるような、私にはそんな印象のクロワッサンでした。

同郷であるから呼ばれたアンヌも、同郷であるが故に初めはフリーダに疎まれます。

心は悲しみに沈んだまま、アンヌは若い頃にこがれた憧憬を確かめにいくように、凱旋門やエッフェル塔を次々に訪れます。それは絵葉書で見たようなパリの街角の風景です。

終盤、フリーダはアンヌに向けて「私を貴女の母親がわりにしないで」と言い放ちます。
しかし、老いて娘の名を忘れながらそれでも生き方を否定してくる消えそうなアンヌの実母と違い、フリーダは老いてなお強く、追い詰められても実際は微塵も憐憫さを感じさせません。
まるでジャンヌモローその人かのように、プライドを貫き通す生き方をみせます。
後ろ姿でさえどこまでも力強いフリーダに、アンヌは全く別の光明を見つけたように感じます。フリーダもただ同郷の女性というだけでは、アンヌに心を寄せることはなかったでしょう。家族より信頼できる他人と出会える幸運に恵まれるか、またはそれを見極められるかどうかというのは、自由に生きてきた人であればあるほど、重要な事なのかもしれないと思いました。
(さな)


映画について、ものを言うこと

2018-01-21 23:55:00 | 映画
この右横の欄に、自分のツイッターのアカウントからの記事が出るようにしています。

主に映画に関するツイートが多いかと思います。ちょっとした感想だったり、「みにいった」というだけの話だったり。

映画、好きですが、しかし映画がなくちゃ生きていけない、という体質でもなく、実際たいした本数をみにいくわけではないので、僕の小さなツイッター交遊圏であっても、並みいるシネフィルの皆さんの目に触れる場で映画について何か言うというのは、気が引けるものです。

だったら、よく映画を知っている人の言葉に、耳だけ傾けて黙っていればいいのでしょうが、それでも「いま」というものに、映画について何か言うことで触れたいという思いがあります──もちろん、ものを言うために映画をみるわけではない、それはそうなのですが。

技術、民衆、社会的マイノリティー、あるいは世界史的マイノリティー……いくつもの観点、問題の系がもっとも現代的な形で交錯する、もっとも現代的な芸術的事象で、映画があるとするなら。

そして、「いま」というのは、カレンダーの日付のように、みればそこにあるようなものではありません。また、僕自身20世紀に生まれ育った人間であり、垣間みたいと臨んでいるのは、21世紀というよりは、20世紀的というべき「いま」の像なんだろうと思っています(いったい、いつ20世紀が終わったというのでしょう?)。

20世紀……20世紀……やはり映画なんだろうなぁ、と。

金本さんにどこか似ている007

2016-01-24 18:09:00 | 映画
 家内と007スペクターを見てきました。
 何作目からでしたでしょうか、007シリーズだけは夫婦で欠かさず見てきてるんです。
 やはり初代のショーン・コネリーの魅力が忘れられないふたりですが。

 でもダニエル・クレイグのボンドもなかなか悪くないですね。
 ショーン・コネリーのソフトで粋で包容力の大きな感覚とは対照的に、ハードで直線的で鋭い感覚、それが独自の存在感になっていて。
 ショーン・コネリーの影を追っていた時代からきっぱりと決別して、ゼロから新しいボンド像を作りなおした、それが成功しているようにみえました。
 これ、われら老夫婦共通の感想です。

 ところで、このクレイグさん、どういうわけか、とても金本新監督の雰囲気に似てる気がして。
 上映中に何度も金本さんと重なりました。
 筋肉質の体といい、背丈と腰まわりのバランスといい、身ごなしのすばやさといい…。
 とくにサングラス姿になると、もう見分けがつかないくらい。

 007の切れ味をもらって、金本タイガースも疾走する?
 そんな夢もふくらみました。
 正夢になるでしょうか。

映画「ハンナ・アーレント」

2014-07-09 02:43:00 | 映画
T: 先日、神戸・湊川の名画座パルシネマで「ハンナ・アーレント」をみたあと、Yさんが、1961年当時アイヒマン裁判のニュース映像に触れたときに心をよぎったいうひとつの疑念が、映画をみるなかでよみがえってきたと言っていました。その話が印象に残ってるんです。
 マルガレーテ・フォン・トロッタ監督の「ハンナ・アーレント」(2012)は、ナチスの幹部だったアイヒマンが潜伏先のアルゼンチンでモサドに拘束される場面ではじまり、そのころすでに『全体主義の起源』を出していたユダヤ系の政治哲学者アーレントが「ザ・ニューヨーカー」誌の特派員として裁判の傍聴に行くことになる。そして中盤以降は、特に有名になった「悪の凡庸さ」も論じられているアーレントの『イェルサレムのアイヒマン』をめぐって、とりわけユダヤ人社会から彼女に向けられた批判や敵意との闘いが割合に淡々と描かれます。

Y: エルサレムでアイヒマンの裁判が始まったのは、ぼくが高校の三年にあがったその春のことでした。悪魔のような男が出てくるものと、そう想像していたものですから、地方役場の小役人のような、えらく貧相なアイヒマンが現われたのには、やっぱりぼくも驚きました。

T: 61年というのは僕の方は生まれてもいませんが、そうですね、アーレントの言う「悪の凡庸さ」とは、ナチスのような現代の巨悪は、極悪人の怪物的な意志によってではなく、いかにも小役人風情のアイヒマンにみられるような凡庸さ、思考や判断の欠如によって担われるという考えですね。

Y: 新聞がそれまで載せていたナチ時代の肖像写真。それがもう頭にこびりついていたのですが、こいつがみごとにハードボイルドだったんです。細おもてのおそろしくハンサムな将校で、そのうえナチスの軍服というのは、ほめたくはないんですけど、デザインが最高にシャープでしょう。いかにも冷徹な親衛隊中佐のイメージ。ああ、この顔なら、なんの憐憫の情もなくユダヤの人びとを地獄の収容所に送ったろうと、じゅうぶん納得してしまう、そういう雰囲気というか、説得力というか、むしろ同調(チューニング)力のようなものがあったんです。
 ところが、いま法廷に引き出された初老の男は、頭もなかば禿げあがって、むしろしょぼっと立っている。豪胆に信念を語るのかと思ったら、まったく逆に、「あれはすべて上からの命令だった。私はただ命令に従ったに過ぎない」と、始めから終わりまで逃げの一手。それまでのイメージとは、あまりの落差なんですね。
 こんなみすぼらしい男だったのか、と…。

T: そういう「みすぼらしさ」、主体性の無さをアーレントは、アイヒマンという個人のたまたまの性質ではなく、彼の悪の行使と結び付いた本質的なものとみなしたと、そういうことですね。(続)

危険なメソッド(執筆中)

2012-12-06 19:03:00 | 映画
 デヴィッド・クローネンバーグ監督の「危険なメソッド」をシネリーブル神戸でみてきました(20012年11月29日)。
 精神分析の開拓者・フロイトと、フロイトに学びながらやがて袂(たもと)を分かつことになるユング、その精神医学の二巨頭のからみを軸にして作られた映画です。
 精神分析への知識をしっかり押さえて制作された作品にみえました。
 そうだったのか、と新しく教えられたこともありました。

 物語はユングとユングの患者であった女性との愛を主調音にして進んでいきます。
 精神科医は患者と個人的な感情で結ばれることをとりわけ警戒しなければなりませんが、女性がきわめて積極的に接近してきたこともあって、ユングはこの禁を破ってしまうのです。

 しかしこの危険な愛情関係は、精神の闇から治癒した女性が非常に知的に、理性的にふるまうことで、泥沼に沈む一歩手前で乗り越えられます。
 危機を抜けることによって、双方の精神がいっそう深いものになったともいえるでしょう。

 さて、なかで興味深かったのは、やはりユングとフロイトの交錯でした。
 フロイトはあくまで性の力(リビドー)を人間の土台に据えて考えますが、ユングはその重要さは認めながらも、精神独自の力もあると強く主張するのです。
 フロイトは超心理の現象などはいっさい否定しますが、ユングはそれをむしろ積極的に肯定します。(続)

  

ソクーロフ監督 ファウスト

2012-07-20 03:39:00 | 映画
ソクーロフ監督の映画「ファウスト」をみた。ゲーテからの翻案作品。

映画作品における「象徴」の技法について考えさせられる。

象徴というのは、作品の中の事象が作品外の何かを1対1対応で示唆する技法であって、その意味では作品の自立を阻むものといえる。
「比喩」が、言いたいことをいっそう正確に伝えるための手段なら、「象徴」には言っていること、見えていることとは別のことを示そうという意図がある。
「比喩」が伝達性の向上を旨とするかぎり一般的な言い回し、慣用表現に深く浸透されているのは必然であり、対して「象徴」には占星術や夢解釈におけるそれなど、その道のエキスパートにしか判読できない、個別の、閉ざされた体系を作り上げる傾向がある。

ソクーロフの「ファウスト」はそんな象徴を散りばめた──というより、そんな象徴で散らかった作品だった。
悪魔、神、魂の自由、あるいは現代(の拝金主義)社会、といった大きなテーマを扱っていたであろうこの作品が、言い回しや小道具、プロット等、さまざまな水準でどんな象徴的表現であふれかえっていたか、いちいちここで挙げることはしない。
ただ、そこにあったのは、事象とそれが象徴するものの整然とした対応関係、というよりは、むしろ作り手と観客の混乱。
この混乱が奥深さ、深遠さと取り違えられるというのはいかにもありそうなことと思われる。

もちろん映画には、いま問題にしている「象徴」のような「図式」「理論」──こういってよければ「文学性」──に回収できない、映像や音響の美しさ、迫力という魅力がある。
だけどそういうなら、鼻孔を広げ欲情するマルガレーテ(イゾルデ・ディシャウク)の表情とか、絡まりながら水に落下する二人とか、確かに美しいが、ああ、これが撮りたかったんだなと──はしたない言葉だけれど──「まるわかり」な場面ばかりが目につくようで、これでは、それ以外のシーンに完全に作り手のインスピレーションが欠けていたのか、そういう印象的なシーンを印象的にすべく物語の結構の中に収める努力を怠ったのか、という話になる。

たぶん映画で象徴をやろうというときにはよほど注意しなければならない。(映画というのが特に象徴的表現と相性が悪いジャンルなのだとしたら、その理由についてまたよく考えなければならない)
映画が象徴というものとどう付き合ってきたか、また付き合ってこなかったか、その点に慎重になるなら、ソクーロフが陥ったようないくつかの罠──散漫さ、予定調和…──は避けられるものではないか。

ここまで、相当に荒っぽい議論だとは承知しているけれど、しかし「象徴」という言葉を「それ自身とは別の何かを暗示しようと意図すること」と、いちばん厳格な意味でとっていただいて構わない。
横行する「心理主義」と並んで、これを「芸術的表現」の核心と考え、またそうした作品を有り難がっている現状は退行といわざるをえない。

「ファウスト」が映画祭でグランプリを受賞したのでなければこういう形で書こうとは思わないものだろうし、賞というのはそれこそ作品外のさまざまな要因が作用する、そんなものだといえばそうだろう。
ゲーテの原作自体、とりわけ第二部には硬直した、場合によっては陳腐とさえいえる象徴性が少なからず見受けられ、そう考えると作り手のしくじりとばかりはいえないだろう、とも思う。


グロテスクな白鳥の湖―ブラック・スワン

2011-05-29 18:39:00 | 映画
 映画「ブラック・スワン」(黒鳥)を見ました。
 あとでインターネットで検索すると、スリラー映画という区分けで紹介されていました。
 それなら、まあ、ひとまず納得なのですが、その方向にはドシロウトで、クラシック・バレエの世界がどのように表現されているか、そこの興味から映画館に行ったものですから、過剰な血にいささかヘキエキしました。

 バレエ「白鳥の湖」では、白鳥(オデット)と黒鳥(オディール)の二役をプリマ・バレリーナがどう踊り分けるか、それが大きな見どころになります。
 白鳥は純粋な魂の犠牲者です。
 黒鳥は暗黒の魂の誘惑者です。
 映画「ブラック・スワン」の主人公は、白鳥は完璧に踊れるのですが、黒鳥の暗黒面の表現がどうもうまくできません。
 それをどうクリアするか、それが映画の骨格になっています。

 ひとつは「女」としての経験を深めること。
 もうひとつは女として母親からの自立を遂げること。
 映画で展開されるプログラムはこの二つです。

 娘に夢を託している干渉過剰な母親からぐいぐいと自立を遂げていく、そこの描きかたはなかなかのものでした。
 いっぽう、「女」として深まっていくそこの構図は安易でした。
 振り付け師が、体の魔性を目覚めさせようとしてのことでしょう、自慰を命じるところなどは、どうも、ちょっと浅薄です。
 
 実際のところ、現実のバレエ表現で重要なのは、98パーセントまで技術です。
 黒鳥の誘惑も、舞踊の技術を最高度に高めることによって、完璧な誘惑となるのです。
 そこに「女」を売り物にするような生臭さが混入すれば、もっとも肝要な舞台の高貴さがかえって失われてしまいます。
 少なくとも現代のクラシック・バレエの舞台では、この高貴さが最重要な柱です。
 それが現代のクラシック・ファンの好みです。

 ダンサー自身の「女」性と舞台上の「女」との間には、むしろ距離が必要です。

 とくに日本の舞台芸術では、この微妙な距離をないがしろにはできません。
 「役になりきる」ということをよく言いますが、それはひるがえっていえば自分を無にするということです。
 歌舞伎でも能でも狂言でも、すぐれた役者は決して自分が「女」になろうなどとは思いません。
 「女」ではなく「女の型」を完璧に、むしろクールに演じること、そこに全力をかけるのです。 

 映画「ブラック・スワン」の苦さ、それはたぶん、せいぜい2%くらいにしか過ぎないものを98%にまで引き延ばした、その過剰な転倒のせいだったように思えます。
 過剰な転倒はしばしばグロテスクなものに変わります。
 ただ、これがスリラー映画だとすれば、そのグロテスクさの深さにおいて映画は成功をおさめているわけで、アロノフスキー監督へのこれはほめ言葉になるのでしょう。