しゅぷりったあえこお nano

ブログ版 シュプリッターエコー

柳田國男『海上の道』

2021-06-06 14:05:00 | 引用
柳田國男の「海上の道」の冒頭近く。柳田が「寄物」(よりもの)と呼ぶ漂着物をめぐる一節。
かつて海岸に打ち上げられる流木がいまよりも遙かに多く、小さな島ではむしろ流れ着いた材木で生活の用を足していたという話。


……我々は国内の山野が、かつて巨大の樹木をもって蔽われ、それが次々と自然の力によって、流れて海に出ていた時代を、想像してみることができなくなっている。以前は水上から供給するものが、今よりも遙かに豊かだったと思われる。多くの沖の小島では、各自昔からの神山を抱えながら、それには慎んで斧鉞(ふえつ)を入れず、家を建てるにも竃(かまど)の火を燃すにも、専ら大小の寄木(よりき)を当てにしていた時代が久しく続いた。

……唐木と呼ばるる珍奇なる南方の木材が寄ってきた場合には、これを家々の私用には供せず、必ず官符に届けよという法令が、奄美大島の北部などには、旧藩時代の頃に出ている。


柳田國男『海上の道』(岩波文庫 p.21)


「海上の道」はもともと1952年におこなわれた講演。

石牟礼道子『苦海浄土』から

2020-09-29 22:28:00 | 引用
あそこあたりが芦北の海。
あそこあたりが水俣の海。
あそこあたりから薩摩出水郡の空と、わしどもにゃ空の照り返しを受けて浮き上がっとる山々の形ですぐわかる。ひときわ美しゅう、かっかと照り映えとる夜空の下の山々のあいが水俣で、それが日窒の会社の燃やす火の色でござす。どうかした晩にゃ、方角違いの山の端のぼうとひろがって照りはえるときがあるが、それはきっとどこかに、遠か山火事の燃えよる夜空で……。

トウェイン『ハックルベリ・フィンの冒険』

2012-01-13 03:12:00 | 引用
オレたち(ハックと黒人奴隷のジム)は、洞穴の中に毛布を広げて、カーペットの代わりにした。そしてそこで、めしを食った。(…)そのうちに、あたりが暗くなって、雷が鳴り、稲妻が光りだした。(…)すぐに雨がふり出した。そして、それも大嵐のような雨だった。風がこんなに激しく吹くなんて、見たことがなかった。本物の夏の嵐だった。あたりがあんまり暗くなるんで、外は何もかもが濃い青色になって、きれいだった。(…)
「ジム、こいつは素敵だなあ」と、おいらは言った。「オレ、ここよりほかは、どこへも行きたくねぇな。魚をもうひと切れと、あったかいトウモロコシパンを少しとってくれ」
(大久保博 訳、角川文庫、p.105-106)


メルヴィル『白鯨』

2011-12-23 03:52:00 | 引用
「金箔の海」の章より。

神にまで、この至福の静寂が続けよかし。だが縺れた生のなおも縺れる織糸は、経糸(たていと)と緯糸(よこいと)とで織られる。凪は嵐と、嵐は凪と交わっているのだ。(田中西二郎訳、新潮文庫、下巻P.334)

ヴィトゲンシュタイン

2011-09-30 07:31:00 | 引用
重要なのは、ひとが「意味」という語によってこの語に〈対応する〉ものを指し示すのであれば、この語は語法に反して用いられている、ということを確認しておくことである。それは、名の意味と名の担い手とを混同することなのである。N・N氏が死ぬとき、その名の担い手が死ぬのであって、その名の意味が死ぬとは言わない。そして、そのように語るのがナンセンスになるのは、その名が意味をもつのをやめたのだとすると、「N・N氏は死んだ」と言うことが意義をもたなくなるだろうからである。(『哲学探究』藤本隆志訳、大修館書店、p48)

僕らはふだんペラペラと実(じつ)のないおしゃべりをしているくせに、それじゃコトバってどんな役割を果たしてるの? と聞かれると、そりゃ、その言っていることを指しているんだろうと、急に生真面目な答えを返すことになる。実際、日常の場面ではそう思っていなくちゃ他人との会話も「お話にならない」ものだけれど、言葉の意味ということを問題にしたとき、それは物であろうと行為であろうと、その名で呼ばれている具体的な対象を必ずしも指すのではなく、それとは別の、より抽象的な次元に触れているのだということ。上の引用にあるように、個々の名の担い手が死んでもその名の意味は死なない(だからこそ「名を残す」ことも可能になるのだろう)ように、その語を口にするたび何か永遠的な意味の領域というものが、ただその瞬間だけ呼び出され、その領域との関わりなしにはコトバは何も指示し得ないのだと、そんな目でみると、この世界にまた奥行きと立体感が生まれるようで、心も小躍りしようというもの。


(G. E. M. ANSCOMBEによる英訳。原文はドイツ語)
It is important to note that the word "meaning" is being used illicitly if it is used to signify the thing that 'corresponds' to the word. That is
to confound the meaning; of a name with the bearer of the name.
When Mr. N. N. dies, one says that the bearer of the name dies,
not that the meaning dies. And it would be nonsensical to say that,
for if the name ceased to have meaning it would make no sense to say "Mr. N. N. is dead."


カート・ヴォネガット

2011-09-27 02:13:00 | 引用
作家の大部分は、なにかしゃべるときには頭が機敏に回転しない。かつてどこかに書いたとおり、とりわけ小説家は腹に銃弾を撃ち込まれたクマたちのように、力なく世間をはいずり回っているのだ。優秀な作家ほどそんなものだ。(『パームサンデー』飛田茂雄訳、ハヤカワ文庫、p183-184)

内容も、なるほどそういうものかと感心させられるものだけれど、何より「腹に銃弾を撃ち込まれたクマたちのように、力なく世間をはいずり回っている」という、たまらなくcomicalな、そして、visual=目に見えるよう、という点では完璧な比喩。翻訳もすばらしい。


(原文と思われる文をwebでみつけたので)
“Novelists, in particular, drag themselves around in society like
gut-shot bears.”


バートランド・ラッセル

2010-04-18 13:49:00 | 引用
 誰もが満たされて、貧困や病気がこれ以上ないほど少なくなったとしても、よい社会にするためにすべきことはまだたくさん残っているだろう。
 今のこの世界においてすら、心に対する善は、身体に対する善と少なくとも同程度には重要である。
 (哲学入門」 高村夏輝訳 ちくま学芸文庫)

カール・セーガン

2010-01-14 17:45:00 | 引用
カール・セーガンといえば、小さい頃、彼が監修した「コスモス」というテレビシリーズが放映されていたのを一時期楽しみに見ていた。内容は宇宙や科学論の紹介という以上の具体的なことは何もおぼえていないが、美しい映像とドラマティックな構成は、逆説的なもの言いかもしれないけれど、神秘なる宇宙、神秘なる世界というイメージを強く印象に残すものだった。

先日、阪急電鉄 春日野道駅の南にある古書店、勉強堂でセーガンのエッセー集「人はなぜエセ科学に騙されるのか」(青木薫訳 新潮文庫 上下2冊)を300円で手に入れた。どうしても読みたくて、というわけではなかったけれど、そういうノスタルジーからのこと。原題は"The Demon-Haunted World: Science as a Candle in the Dark"。直訳すれば「悪霊に取り憑かれた世界:闇を照らすロウソクとしての科学」。ときどき拾い読みをしている。

科学的思考というものが先進的な文明や特定の信仰によってもたらされるものではなく、あまねく人に備わったものであることを説明する章におもしろい記述が。セーガン自身の研究や見解が示された箇所ではなく、むしろ引用の箇所なのだが、訳も軽妙で楽しい。アフリカのクン族が獣の足跡から狩りのための詳細な情報を引き出すという説明につづく一節。



「狩猟採集民は、動物の足跡ばかりでなく、人の足跡のことも実によく知っている。彼ら[クン族]は「バンド」と呼ばれる集団をつくって暮らしているのだが、バンドのメンバー全員の足跡を見分けることができるそうである。彼らにとって人の足跡は、顔と同じくらいなじみのある目印なのだ。ローレンス・ヴァン・デル・ポストは次のように述べている。

 ヌホウと私は仲間と別れ、キャンプからかなり遠くはなれたところで、傷ついたシカを追っていた。すると突然、別の人間と動物の足跡がわれわれの足跡とぶつかったのだ。ヌホウはすぐさま満足そうな唸り声をあげ、これはつい今しがたバウハウのつけた足跡だと言った。そして、バウハウは全速力で走っているから、やがて獲物をつかまえたバウハウに出会うことになるだろうと自信たっぷりに言い切ったのだ。ヌホウと私は、目の前の砂丘を登りつめた。すると、なんとそこにはバウハウがいて、獲物の皮を剥いでいるではないか。

 また、同じクン族のなかに入って調査を行ったリチャード・リーによれば、あるハンターは、足跡をざっと調べただけで「おい、見ろよ。トゥヌが義弟と一緒にいるぞ。でも、あいつの息子はどこだろう」と言ったそうである。」(下巻p.179-180)



これより少し前の箇所で、惑星天文学者がクレーターを調べる仕方とクン族のハンターが獣の足跡を調べる仕方が本質的に同じ手法であると述べられているのも胸をときめかせる。そういうさまざまのスケール、次元を結びつける語り口は、テレビシリーズ「コスモス」でもそうだったと思うが、セーガンのほとんど名人芸と言ってよく、それは科学を身近に感じさせるというよりは、世界の姿を少し、世界の見え方を少し変えてくれる。そしてそのことが僕らの生を活気づける。この世界で生きていく希望が少し与えられるというのか。


昨年「コスモス」をモチーフにした美しいミュージックビデオがweb上で発表されている。→http://www.symphonyofscience.com/
茶色の髪をした角張った顔の男がセーガン博士。上に引用した"The Demon-Haunted World: Science as a Candle in the Dark"が出版されたのが1995年。セーガンは翌年の96年に病没している。






サイモン・シン

2009-05-10 00:34:00 | 引用
 17世紀以前、確率法則とはすなわちギャンブラーの直感と経験のことだった。
 しかしパスカルは、もっと正確に確率法則を記述できる数学規則はないものかと考えて、フェルマーとの文通をはじめたのだった。
 それから3世紀後、バートランド・ラッセルはこの明らかな形容矛盾についてこうコメントしている。
 「“確率の法則”とはよく言ったものである。確率とはあらゆる法則のアンチテーゼではなかろうか」
    (「フェルマーの最終定理」 青木薫訳)

悪魔の正体―理趣経

2009-02-26 20:52:28 | 引用
 …釈尊は大地に手を触れて、大地の神に本当のことをいっているという誓いをたてます。
 インドでは、真実を語ることが悪魔を除く力があると古くから信じられてきました。
 ですから、釈尊のいっていることはみなウソであると悪魔がせめたて、悟りへの道を邪魔して自分たち悪魔を安泰にしようとするかけ引きがあります。
 「私のいっていることは本当だ」といっても「それなら証拠を見せろ」といって悟りを妨害します。
 そこで釈尊は大地に手を触れて大地の神に誓いをたてます。
 大地の神は絶対ですから悪魔は退散してしまう。
            (松長有慶著「理趣経」)

               *

 「理趣経」はとりわけ真言密教で重要視されている経典ですが、仏教の経典では珍しくセックスを宇宙の重要かつ清浄(しょうじょう)な営みと位置付けて、きわめて積極的に肯定しています。