柳田國男の「海上の道」の冒頭近く。柳田が「寄物」(よりもの)と呼ぶ漂着物をめぐる一節。
かつて海岸に打ち上げられる流木がいまよりも遙かに多く、小さな島ではむしろ流れ着いた材木で生活の用を足していたという話。
「……我々は国内の山野が、かつて巨大の樹木をもって蔽われ、それが次々と自然の力によって、流れて海に出ていた時代を、想像してみることができなくなっている。以前は水上から供給するものが、今よりも遙かに豊かだったと思われる。多くの沖の小島では、各自昔からの神山を抱えながら、それには慎んで斧鉞(ふえつ)を入れず、家を建てるにも竃(かまど)の火を燃すにも、専ら大小の寄木(よりき)を当てにしていた時代が久しく続いた。
……唐木と呼ばるる珍奇なる南方の木材が寄ってきた場合には、これを家々の私用には供せず、必ず官符に届けよという法令が、奄美大島の北部などには、旧藩時代の頃に出ている。」
「海上の道」はもともと1952年におこなわれた講演。
かつて海岸に打ち上げられる流木がいまよりも遙かに多く、小さな島ではむしろ流れ着いた材木で生活の用を足していたという話。
「……我々は国内の山野が、かつて巨大の樹木をもって蔽われ、それが次々と自然の力によって、流れて海に出ていた時代を、想像してみることができなくなっている。以前は水上から供給するものが、今よりも遙かに豊かだったと思われる。多くの沖の小島では、各自昔からの神山を抱えながら、それには慎んで斧鉞(ふえつ)を入れず、家を建てるにも竃(かまど)の火を燃すにも、専ら大小の寄木(よりき)を当てにしていた時代が久しく続いた。
……唐木と呼ばるる珍奇なる南方の木材が寄ってきた場合には、これを家々の私用には供せず、必ず官符に届けよという法令が、奄美大島の北部などには、旧藩時代の頃に出ている。」
柳田國男『海上の道』(岩波文庫 p.21)
「海上の道」はもともと1952年におこなわれた講演。