しゅぷりったあえこお nano

ブログ版 シュプリッターエコー

永遠のみずみずしさ―F・ノボトニー&伊藤ルミ デュオ

2012-06-24 21:02:00 | 音楽
 チェコのヴァイオリニストのF・ノボトニーさんと神戸を拠点に演奏活動を続けている伊藤ルミさんのリサイタルが神戸新聞松方ホールでありました(2012年6月23日)。
 二つの「アヴェ・マリア」が弾かれました。
 一つ目はプログラムのトップに置かれたグノーの曲で、二つ目はアンコールで採り上げられたカッチーニの曲でした。
 ともに、とてもシンプルで、とても心に響く作品です。
 端正な音楽です。
 ノボトニーさんと伊藤さんがその二つをまことに端正に弾きました。

 二人の共演は23年目を迎えます。
 端正な音の中に23年の歳月が深い奥行きで見えました。

 不思議なビジョンでもありました。
 音楽の中では時間が過ぎ去ったり消え去ったりすることがないようです。
 この二つの「アヴェ・マリア」のように、いっさいの夾雑(きょうざつな)な音をそぎとった、純粋な音楽ではなお一層そうなのでしょう。
 弦の澄んだ震えの中に、そして鍵盤の繊細な響きの中に、ひとがその人生で最も純粋であったときどきが、あざやかに甦ってくるのです。
 少年のみずみずしさ、少女のやさしさ、青年のころの一徹さ、すでにかなたに去ったはずのそれらのものが、今そこにあるものとして起き上がってくるのです。

 聖母へのあこがれが高揚の極みに至るとき、ノボトニーさんはなんと少年であったことでしょう。
 伊藤さんはなんと少女であったことでしょう。
 世界で起きるすべてのことに濁りのない心で鋭敏に反応した、その輝きときらめきが音の奥からあふれ出してきたのです。

 と同時に、そこには少年期や少女期にはまだ全部が得られるわけではない音楽への理解そして高い技術が円熟した形で寄り添っているのです。
 人生への愛、知恵、敬意、驚き、そのような豊かな地層がゆったりと響き渡っているのです。

 「アヴェ・マリア」は、感傷的な旋律です。
 いえ、感傷的な、と的をつけて言うのは、正確ではありません。
 感傷そのものの旋律です。
 感傷の究極です。
 純粋な感傷です。
 つまり、心の流れそのものです。

 だからそこには奏者の心がそのまま投影されるのでしょう。
 音楽家のなかに純粋な心がいきいきと生きていること、それを聴くことができるというのは、わたしたちにとって、大きな、大きな幸福です。
 人間というものが、実はいつまでも内面に美しいものを持ち続けることができるということ、そのことのそれはゆるぎない証明です。
 そしてその美しさは、たぶん、人間がこの宇宙にあるかぎり永遠に生き続けるものでしょう。

 伊藤ルミさんは http://rumi-itoh-pianism.com/

上村未香さんのバレエ(執筆中)

2012-06-19 18:28:00 | 舞踊
 もう半年も前のこと、それどころかすでに去年の暮れのことなのに、おりにつけ鮮やかに思い出す舞台があります。
 バレリーナの上村未香(うえむら・みか)さんが出演した「くるみ割り人形」の舞台です。(2011年12月24日 神戸文化ホール)
 上村さんは神戸を拠点にしている貞松・浜田バレエ団のプリマです。
 ヒロインのクララを踊りました。

 踊りが透明だったのです。
 空気の精のようでした。
 生身のひとが踊っているとは、もうほとんど感じられませんでした。

 どのシーンを挙げるのがいいでしょう。
 むしろ、どんなつかの間のエピソードにも目をそそぐ値打ちがあるでしょう。
 ネズミの王様の大暴れにひやひやしているところでも、いきなり王子が現われてまだびっくりが続いているところでも、王子といっしょにお伽(とぎ)の国へ旅立っていくところでも。
 どのような細部でも、かの女はいつも瑞々(みずみず)しく、繊細で、軽やかです。
 まったく驚くべきことに、かの女の跳躍にはほとんど音が立ちません(ぼくは実際かの女のトウシューズの響きを一回も聴いたことがないのです)。
 舞台を横切っていく風なのです。
 微風です。

 くるみ割りの王子とドロッセルマイヤーが不思議な空気で対峙(たいじ)するラストの場面。
 少女クララは、王子の腕の中からまるで投げ出されるようにして、ドロッセルマイヤーの腕の中へ返されます。
 未香さんのクララは、なんと軽々と空中に浮かんだことでしょう。
 重力が消えてしまったようでした。(続) 

命の根源へ下りていく―犬童徹展

2012-06-03 20:22:00 | 美術
 犬童徹(いんどう・とおる)さんの展覧会を神戸・王子動物園前の原田の森ギャラリーで見てきました。
 70歳を迎えたのを機に50年に及ぶこれまでの画業を振り返る自選展です。
 100号を超える大作がいくつも並ぶ分厚い展覧会になりました。

 犬童さんは一貫して馬をモチーフに描いてきた作家です。
 馬の力強さ、優しさ、繊細さ、ときには痛々しさが重厚なタッチで描かれます。
 そしてそれは、たんに馬そのものの豊かな様態にとどまらず、世界の深部の表現へ、さらには宇宙の奥の表現へと進みます。
 幾つかはこれまでの個展ですでに見ていたものでしたが、初めて出合った絵の中では「月の道」という作品に心を惹(ひ)かれました。
 40代に制作したもの、ということでした。

 何頭もの馬が二列に分かれて、右と左から向き合う格好で並んでいます。
 二列の馬の間が、ひとすじの道のように開いています。
 そのひとすじの道の向こうに、ぽっかりと満月が出ています。
 とても静かな絵なのです。
 馬たちは物思いにふけっている表情です。

 思い出したのは、宮沢賢治の「なめとこ山の熊」の最後の場面のことでした。
 熊たちが月の下で輪になって座っていて、その輪の中心には、ひとつの遺体がありました。
 たくさんの熊を殺してそしてついに自分が熊に殺されることになった、そういう老いた猟師の遺体です。
 熊たちは物思いにふけっているふぜいです。 
 でもそれは、復讐を遂げた感慨ではありません。
 そこにあるのは、たぶん深い共感です。

 死んだ猟師の顔も熊と同じように穏やかです。

 「月の道」と「なめとこ山の熊」に共通しているのは、その静けさと穏やかさと物思いの深さです。 
 それから、核心の部分はついに言葉にはできないだろうと、そのように直観しているこのぼくらの、むしろ安らかな絶望です。
 おそらくそれは、言葉にしてはならないものが言葉にされずに守られた、その美しい作法への安堵(あんど)です。

 現代の生命科学の世界では、命は粘土から生まれてきたいうのが、かなり有力な仮説だそうです。
 粘土の小さな結晶が、さまざまな炭素の化合物を吸収し、貯め込んで、その炭素化合物の助けを借りながら、粘土の結晶の増殖そして再生を始めたというのが、命の最初の形だったというのです。

 するとまもなく、炭素同士が粘土をとばして自分たちで結び付き、増殖と再生に乗り出して、現在の生命の原型をつくりあげたというわけです。
 炭素が粘土を乗っ取って、今見るような命の形が出来上がってきたという仮説です。
 
 ここでとても心を打たれるのは、ぼくたちの生命の原型が、どうやら粘土の上に描かれた炭素化合物と炭素化合物との見えない関係(ネットワーク)、もう少し突っ込んで言うならば炭素化合物たちの間に張り渡されることになった不可視の関係(ネットワーク)、つまり無機物と無機物との間に生まれた「抽象的な関係」がもとになっているらしいという、そのことです。
 まるであぶり出しに現われる絵のように、「生命」と呼ばれることになる「抽象的な関係」が無機物というモノの上に浮き上がってきたわけです。

 なぜ急にこんな生命起源の話に移ったかといいますと、犬童さんの馬のビジョンも宮沢賢治の熊と人のビジョンも、その「抽象的な関係」と深くつながっているように思えるからです。
 モノとモノの具体的な関係に還元できてしまうなら、話はずっと簡単です。
 けれど、ここに現われるのは、モノとモノの隙間にできる、余りのような世界です。

 しかし、実はその余りの部分に、生きているというこのことの基盤があるのではないか、とそんなふうには思えませんか。
 鼓動しているものは、実はみえないところに基盤がある、と。

 そうだとすると、現代のぼくたちは世界を逆立ちした形で見ているのではないか。
 そんなふうに考えさせられた絵なのでした。