しゅぷりったあえこお nano

ブログ版 シュプリッターエコー

映画 アレクサンドリア―ひとつの知の終わり

2011-05-01 18:42:00 | 映画
 スペイン映画「アレクサンドリア」を見ました。
 古代エジプトの大都市アレクサンドリアの文化に大きな足跡を残した女性の大学者がいます。
 4世紀から5世紀にかけて活躍したヒュパティアです。
 映画は彼女の栄光と悲劇を描きます。

 数学、天文学、哲学に通じていたヒュパティアは、みずからの研究にまい進したばかりでなく、アカデミー(大学)の教授そして学長としてエジプトの若者たちの教育にも携わり、有能な人材を世に送り出していきました。
 しかし、当時の新興勢力であったキリスト教徒と対立を深めることになるのです。

 ヒュパティアは古代エジプトにはぐくまれたおだやかな知的雰囲気、あるいは古代ギリシャから引き継がれてきた合理的な考え方の上に立って、彼女の学問を進めます。
 それに対して、キリスト教徒のとりわけ過激な人々は、神への熱狂を押し立てて、エジプトのもとからの信仰や考え方を強く圧迫していきます。

 エジプトの歴史のなかではまだ新しいキリスト教を「正統」と位置づけて、反対にこれと方向を異にするエジプトの古い宗教や精神を「異端」と批判し、大々的に排斥しはじめたというわけです。

 排斥の運動はやがてヒュパティアの身辺にも露骨に迫ってきます。
 それというのも、アレキサンドリアの富裕階層や知識階層あるいは支配階層には彼女を信奉する人が多く、貧しい階層を主体とするキリスト教の人々にはますます恨(うら)みの存在になってきていたのです。

 そしてついに群衆が襲撃に踏み出します。
 「ヒュパティアは魔女だ」というのがその襲撃の理由でした。
 知性と美貌に恵まれた大学者はかくして暴徒に惨殺されることになるのです。

 映画はとりわけその惨殺の場面に苦心の演出をしていました。
 むごたらしくならないように細かい心くばりをしたのです。 
 ヒュパティアをひそかに愛している弟子のひとりが、暴徒に先回りして彼女に近づき、彼女の苦痛を最小限にとどめるために、彼の手で静かに扼殺(やくさつ)するのです。

 ぼくはかねてそのむごい死にかたを本で読んでいましたから、ああ、そうか、こういう演出ができるのか、ととても感心したのです。
 美しい終わり方を発見したといえるでしょう。

 でも考えれば、これはなかなか複雑な問題です。

 そういう結末を見て、現実にぼくは救われた気持ちになったのですが、同時にいろんなことを並行して考えることにもなりました。

 この改ざんは、21世紀におけるおくればせながらの人類の歴史への懺悔(ざんげ)だろうか。
 美しいヒュパティアへの愛情だろうか。
 観客の欲求への媚(こび)だろうか。
 映画の商業的な成功をめざすための甘いオブラートだろうか。
 
 ちなみに実際のヒュパティアの最期の模様は、歴史家ギボンによって次のように書かれています。

 聖なる四旬節の運命の日、ヒュパティアは馬車から引きずり下ろされ、衣服を剥がれた。
 そして教会内に連れ込まれ、読師(とくじ)ペトルスや野蛮で無慈悲な狂信者の一味によって惨殺されたのである。
 彼女の肉は、鋭利な牡蠣(かき)の殻で骨から削ぎ落とされ、まだぴくぴくと動いているその四肢は火炎に投ぜられた。(サイモン・シン著・青木薫訳「フェルマーの最終定理」から) 

スタートレック…時間の重奏

2009-06-05 02:31:00 | 映画
 三宮のミント神戸で「スタートレック」をみました。

 ざっと40年前にテレビで放映されたころには夜勤の多い職場でしたから見ることができませんでしたが、のちに深夜に再放送されることになって、まだ新婚気分だった妻と欠かさず見ていました。

 転送された異星の風景がいかにもセットまるだしで、しかし却ってそういう手作りの感覚に味があったものです。

 今回の映画作品はCGを駆使して、映像の洗練度には隔世の感があります。

 しかし随所に昔のテレビのストリーに結びつくなつかしいシーンが出てきて、そればかりか、そのころぼくたちが少ない月給を大事に使いながらどんな暮らしをしていたか、そのこじんまりとした生活のことまでもパパッとめくられる思いなのです。

 ストーリーでは、ぼくたちがテレビで見ていたカーク船長やスポック、ドクター・マッコイらがどのようないきさつであのような堅固なクルーを組むようになったか、その前史が語られます。

 エンタープライズの歴史にぼくたちの歴史が重なって重厚な時間が織られていく、そのような映画でした。

 新婚の妻と見ていたものを、今は30を超えた息子と見て、映画のあとで喫茶店で聴く彼の映画論に感服したりもしています。
 エンタープライズの歴史も変わり、ぼくらの歴史も変わりました。

ワルキューレを見ました

2009-04-21 19:04:00 | 映画
 トム・クルーズ主演の「ワルキューレ」を三宮駅前のミント神戸で見ました。
 ワルキューレは、ワーグナーのあの大悪魔みたいな巨大な楽劇「ニーベルンクの指環」に出てくる美しく且つ清冽(せいれつ)な戦いの女神たちのこと。
 このタイトルにひかれました。

 映画のスジは、ヒトラー体制下のナチス・ドイツで起こった実際の事件を土台にしています。
 ドイツ軍の中にもヒトラーに批判的な軍人たちがいて、一部の高級将校がヒトラーの暗殺計画を進めるのです。
 ヒトラーが作戦会議を開くその部屋に時限爆弾を仕掛けようというのです。
 その中心人物がトム・クルーズというわけです。

 一般的な歴史の本ではほとんど触れられることのないナチス・ドイツのエピソードです。
 爆発から奇跡的に助かったヒトラーが、神は私に味方している、と豪語してますますドイツを破滅へ向かわせたという、そういう皮肉な側面もある事件で、けっきょく大勢には影響がなかったという判断から小さく扱われてきたのでしょう。

 けれど、けっこう広がりのあるくわだてだったことを、映画で教えられました。
 ベルリン防衛の部隊や警察まで味方に引き入れ、一時はナチ親衛隊の拘束(こうそく)にまで進みますし、失敗が明らかになってからは、かなりの多くの高官が連座のカドで処刑されています。

 ヒトラー一色に見えるドイツ軍のなかにも、ヒトラーに反抗する気概(きがい)の軍人たちがいた。
 それがこの映画のメッセージです。

 悪の帝国のドイツと善の象徴としての連合国の対立―、そういう型どおりの図式への一石ともいえるでしょう。
 監督がユダヤ系だというのも、考えさせられる要素です。

映画「マリー・アントワネット」

2007-01-30 05:01:43 | 映画
ファッション・ブランドのコマーシャル・フィルムないしはポップスのプロモーション・ビデオのような映画。じっさい押し寄せる音楽の波、波、波。ちょっと使用過多でゲンナリもする。

映像のインスピレーションありき、といった作品で、美しい、というよりはかわいらしいシーンが続く。たとえば整地されていない湿った草はらを、現代っ子が服が汚れるのを気にするように、ちょっと困りながら歩く大仰なドレスの女性たちとか、徹夜で騒いで、連れだって水のほとりに朝日が昇るのをみにいくとか、まあ、18歳前後の「等身大の」マリー・アントワネットとその周囲を描くという意図だろうが、要するに、宮廷風俗でそのまま十代の女の子たちの青春グラフティをやれば面白いんじゃないかという監督のその感性がかわいらしい。

ストーリーらしいストーリーといえば世継ぎ問題の一点だけ。その一点で無理なぐらいに引っ張る。夫のルイ16世とのあいだになかなか子供ができないで苦しむのだが、え、まだその話つづくの? という。錠前マニアで狩り遊びが大好きというルイ16世役の役者の内向演技もちょっとやりすぎ。

ただ、さわやかなのは終始その二人の仲が良く、国家の真ん中で、与えられたものを疑いなく享受しながら、セックスレスだけど好き合っている若い二人という、本当に二人はそれだけなのに、という一貫した観点はいい(この政略結婚自体、二人には与えられたものだし、妃のささやかな浮気や別邸や、ほどよい距離で描かれているのもまたいい)。これが頭の悪い男の監督だと、どうしても歴史映画の桎梏から逃れることができない。女性的感性でしか撮れない作品というのは確かにある。でたらめではなく、これだけ自由にやるのは、そうは言ってもなかなか難しいことだろう。

そして風俗描写(必ずしも18世紀当時のというわけではなく、この映画では大きく現代のそれなのだが)という点で、これはソフィア・コッポラのようなセレブリティにしか撮れない映画だろう。贅沢を描くというのは贅沢をして生きてきた人間でなければほとんど不可能なことで、お勉強でどうにかなるものでもない。

全体を通してリアリズムというよりは寓意的な手法をとるが、寓意であるにしても、その時代、その人物を描きたいという必然性が弱いと、どうも焦点がぼやけるよう。大詰めのベルサイユに押し寄せる民衆の撮り方が失笑を買うまでに紋切り型なのもそこに要因があるのだろう。

それも蜂起した民衆を描く必然性が監督の中にないからそうならざるを得ないわけで、それまで宮廷人の視点で描いていたところにいきなり民衆の視点、というより完全にどっちつかずの、ありもしない「第三者」の視点を介入させたことでシーンは笑うべきものとなった。さすがセレブ・コッポラ、大衆を撮るのがヘタ…なんて言い方こそ紋切り型で、言ってみただけ。彼女の資産状況なんて知らないもの。

いや、コッポラとしてはマリー・アントワネットの生涯にしても、できればギロチンで首を切られることなんてなく、贅沢な生活を送ってそのまま死んでほしかったろうに。つまり究極的には彼女でなくともよかったわけで。

結んだ焦点のその先に強く作家という人が意識される作品ではないけれど、音楽と色彩、フェティッシュの快楽、強すぎてこちらを疲れさせることのない、適度な快楽を与えてくれる映画。18世紀フランスの宮廷風俗について、へー、こんな感じだったのかと。点数をつけるなど恐れ多い作品がある一方で、70点の点数をつけたくなる作品(いや、80点でもいいのだけど)。見に行くべき映画。 


硫黄島からの手紙

2007-01-11 16:28:55 | 映画
ある者は自ら死にに行くのにが死なない。

またある者は何度も死に直面しながら死なない。

クリント・イーストウッド監督『硫黄島からの手紙』は
全く戦記物でもなければ、家族の絆を描いた作品でもない。


人生の「不条理」である。


米軍の海上から大船団が迫ってくるシーンは
一瞬、本作品で製作を務めるスティーヴン・スピルバーグの
『プライベート・ライアン』を想起させる。
しかし『硫黄島からの手紙』には『プライベート・ライアン』で
20分余りも繰り広げられた兵隊の上陸シーンはない。
それどころか米軍の大船団は
日本兵が洞窟や望遠鏡でほんの少し覗くに過ぎない。
大船団は遙か向こうに「ある」かのように見える。

米軍の大船団は「模型」だ。

戦争末期の硫黄島の日本軍にとっての
米軍は「無感覚なもの」、
せいぜい「来訪者」、
「形式的」な存在に過ぎない。
それより食糧も水も援軍もない中で
ある者はどうやって最期を迎えるか、
ある者はどうやって生き延びるか、
真っ暗な迷路のような洞窟で
自己の迷路的思考を働かせている。

だから『戦場としての「硫黄島」』には
戦闘・対戦は存在しない。
日本側の視点から描いたこの作品では
死が確実な、戦争末期の、”戦場”の硫黄島で、
日本人という人間が
どう生きていっているかを
観客をタイムスリップさせて、
現在進行形的に描いているのだ。

「手紙」はその媒介、
うがった見方をすれば、
興行のためのヒューマニズムのために
使われているに過ぎないとさえ見える。
少なくとも私にとっては手紙は大した意味を持たなかった。

上映時間の都合だろうが、
編集にかなり無理があり、
必ずしも「いい作品」とは言い切れない。
特に渡辺謙演じる栗林中将の描き方など。
しかし素材としてはいいものがかなりある。
ディレクターズ・カット版を望みたい。




『無防備都市』

2006-11-30 06:18:52 | 映画
「ロッセリーニの名作『無防備都市』、すごいもんな、あの残酷さ、怖さ。」(淀川長治・蓮實重彦・山田宏一の鼎談『映画千夜一夜』1988、中央公論社、p.743、淀川長治の発言)


ナチスに捕えられたレジスタンスの男が、生爪を剥がされバーナーの火を押し付けられる。


それをみて、何て恐ろしい! とここで上がる叫びを信用することはできない。


それは単に無知だったというだけのこと。


とはいえ、何てことない、よくあるシーンさ、映画にも、歴史にも、などと言う人とは決別するほかない。


それは裏切り者の言葉だ。


『無防備都市』は怖い。


苦痛に叫びながらも、みな淡々と死んでいく。レジスタンスも、男に惚れた女も、脱走兵も…。


なぜって、誰もはじめから腹は決まっているから。


怖い。


自分はそのように死ねるだろうか。 

心の奥行き

2006-10-17 14:58:35 | 映画
例えば
食堂を経営しているとする


毎日準備万端、あとはお客さんが来るのを待つだけ


だのに
待つだけ待って、結局


ひとりのお客さんも来ない


そんなとき
あなたはどうしますか


まあ大抵の経営者が考えることといったら
悪あがきのようなアイデアばかり



だけど
じっと待つということがどれだけ大変で大切なことかを知っている人ならわかるはず

こんなときほど焦りは禁物だと


そういえば
例えお客さんが来なくてもいつも通り準備万端で
清潔で明るい食堂がどこかにあったような…


そう、あれは映画「かもめ食堂」


主演の小林聡美が演じる女性は
単身フィンランドに渡りヘルシンキで日本食の食堂を営む

ヘルシンキで日本食
そうそうお客は来ない
道行く地元の人たちも珍しそうに眺めるだけ

そんな毎日が続く

だけどせっせと準備する
毎日、毎日



そして夜、
彼女が寝る前に欠かさずすることがある
合気道の基本動作、つまり「カタ」


夜更けの静けさの中
毎夜毎夜ただたんたんと「カタ」を繰り返す

その様は
心の乱れや焦りを自らの内に受け止める儀式のようでもある

静寂の豊かさ


そしてある日
彼女を取り巻く全てのことが少しずつ動き始める




葛藤する心を鎮める奥行き

いつか、わたしの中にも出来るのだろうか