ホフマンスタールは自分自身に向けて、「ドイツ、ドイツ!」という指令語を放つ。再領土化の欲求であり、「憂鬱の鏡」にさえとらわれている。しかし、この指令語の背後に、彼はもう一つの指令語を聞く。あたかもドイツ的な古めかしい「形象」は単なる定数に過ぎなかったのであり、今や自然や生との、可変的であるからこそ、より深い関係を表そうとして消えてしまったようだ。
(「千のプラトー」 宇野邦一ら訳による)
*
平易にいえば次のようになるでしょう。
ホフマンスタール(ウィーン生まれの詩人、作家 1874―1929)は、ドイツよ! お前はほんとうは何者なのか? と問いかけます。そこにはドイツをなにか固定的な文化圏としてとらえたいという欲求が働いていて、鏡の中に憂鬱な自画像を覗くような趣(おもむき)さえあります。しかし、そこにはまた別の声の響きも聞こえるのです。これがドイツだと考えられている古くからのイメージは、実は表面的な固定観念でしかなくて、ほんとうのドイツは自然や生との流動的な関係の中にこそ生き生きと生き続けているのだ、と。
ぼくらも、日本よ! お前はほんとうは何者なのか? と問うてみるときに至っているのではないでしょうか。
アジアの東の端に浮かぶ数千年の島としてではなく、人類という数十万年の海流の中に浮かぶ島として。
(「千のプラトー」 宇野邦一ら訳による)
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平易にいえば次のようになるでしょう。
ホフマンスタール(ウィーン生まれの詩人、作家 1874―1929)は、ドイツよ! お前はほんとうは何者なのか? と問いかけます。そこにはドイツをなにか固定的な文化圏としてとらえたいという欲求が働いていて、鏡の中に憂鬱な自画像を覗くような趣(おもむき)さえあります。しかし、そこにはまた別の声の響きも聞こえるのです。これがドイツだと考えられている古くからのイメージは、実は表面的な固定観念でしかなくて、ほんとうのドイツは自然や生との流動的な関係の中にこそ生き生きと生き続けているのだ、と。
ぼくらも、日本よ! お前はほんとうは何者なのか? と問うてみるときに至っているのではないでしょうか。
アジアの東の端に浮かぶ数千年の島としてではなく、人類という数十万年の海流の中に浮かぶ島として。