しゅぷりったあえこお nano

ブログ版 シュプリッターエコー

ドゥルーズ/ガタリ

2009-02-01 01:44:29 | 引用
 ホフマンスタールは自分自身に向けて、「ドイツ、ドイツ!」という指令語を放つ。再領土化の欲求であり、「憂鬱の鏡」にさえとらわれている。しかし、この指令語の背後に、彼はもう一つの指令語を聞く。あたかもドイツ的な古めかしい「形象」は単なる定数に過ぎなかったのであり、今や自然や生との、可変的であるからこそ、より深い関係を表そうとして消えてしまったようだ。
 (「千のプラトー」 宇野邦一ら訳による)
          *
 平易にいえば次のようになるでしょう。

 ホフマンスタール(ウィーン生まれの詩人、作家 1874―1929)は、ドイツよ! お前はほんとうは何者なのか? と問いかけます。そこにはドイツをなにか固定的な文化圏としてとらえたいという欲求が働いていて、鏡の中に憂鬱な自画像を覗くような趣(おもむき)さえあります。しかし、そこにはまた別の声の響きも聞こえるのです。これがドイツだと考えられている古くからのイメージは、実は表面的な固定観念でしかなくて、ほんとうのドイツは自然や生との流動的な関係の中にこそ生き生きと生き続けているのだ、と。

 ぼくらも、日本よ! お前はほんとうは何者なのか? と問うてみるときに至っているのではないでしょうか。
 アジアの東の端に浮かぶ数千年の島としてではなく、人類という数十万年の海流の中に浮かぶ島として。

ドゥルーズ/ガタリ

2009-01-11 22:40:19 | 引用
 「これをしろ」、「あれをするな」といった父親から息子への指図は、息子が人格の一点に受ける小さな死刑宣告と切り離せない。(「千のプラトー」 宇野邦一ほか訳)

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 現代の親たちは、子供の「人間としての存在」にあまりにも鈍感ではないでしょうか。むしろ社会全体が人間の根源的な在り方に、粗雑ではないでしょうか。思考を深くする日本人になりたいものです。

ジョン・バロー

2008-11-18 23:04:21 | 引用
 われわれの住む宇宙を科学的にどのように理解するにせよ、そこに必ず含まれているはずのいくつかの構成要素を簡潔に提示すること、われわれが目指しているのはこれである。(「万物理論―究極の説明を求めて」 林一訳)

今昔物語

2008-10-14 07:55:05 | 引用
中学生の古文の問題を読んで大笑いをした。

「今は昔、筑前の前司 藤原章家(あきいえ)といふ人ありき」ではじまるエピソード。

頼方(よりかた)という「見目ことごとしくして(見るからにものものしくて)、鬢(びん)長く(左右の鬢の毛が長く)、きらきらしき気色ありて(堂々とした様子で)、兵だちしたためしたる侍(いかにも武人らしくふるまう侍)」がいた。

で、その頼方も加わって、主人の章家のそばで侍たちが食事をしていたときのこと、章家はもう満腹になったので残り物を侍たちに分けてやった。侍たちが主人の食器を順々に回し、そこから自分の器に移していく。

さて、頼方のところまで主人の食器が回ってきたが、そのとき頼方はうっかりして主人の食器から直接かき込んでしまう。驚くほかの侍たち。「おいおい、あの人、ご主人様の器から食べちゃったよ。」

あわてる頼方。

「まことにさぞかし。あやまちしてけり(ほんとだっ。しまった。)と思ひけるに、よく臆病しにければ(動転してしまって)、含みたりける飯をこそ、その御器にまた吐き入れたりけれ。ただその器ながら食ひつるをだに、侍どもも主もきたななり(きったねー)と見つるに、唾(つばき)加はりながら食ひたる飯を器に吐き入れたりければ、長き鬢にかかりなどしてありければ、のごひあつかひなどしけるこそ(ぬぐうのに困ってる姿は)、極めてにくくつたなかりけれ(かっこが悪かった)。異侍(ことさぶらひ)どもこれを見て、立ちて外にてぞわらひける(うひゃひゃひゃひゃ)。」

「女の人はこういう失敗しないよねぇ」と家の者(女性)が言った。

そう思う。

硬直した論理性。「食べちゃったから戻さないと!」。

〈食べるー吐く〉という図式(論理)、あるいは制度がその侍の中で先行しているのがわかる。その図式の上では逆戻り可能だったのだろう。

そういう論理が行動の原理になっちゃってる男性の不自由さ不自然さが、あわれで馬鹿馬鹿しくて笑えるんだろうね。

自分を笑うようでアレなんだが。

バラの神秘 6

2008-06-03 18:41:37 | 引用
 ギリシャのクレタ島にある紀元前1500年ごろに描かれたと考えられているフレスコ画には、色彩をほどこした薔薇が描かれ、絵画に描かれた最古の薔薇と言われている。
 この薔薇は、小アジアのダマスカス辺りからエーゲ海のロードス島を経てもたらされた。
 ロードス島とは、紀元前408年に成立したギリシャの古代都市だが、その語源はギリシャ語で薔薇を意味するロドンから名付けられた。
 それゆえここでも、薔薇が栽培されていたと考えられている。
    (蓬田勝之著「薔薇のパルファム」から)

ボッカチョ

2008-05-25 02:32:14 | 引用
 愛せよ、さればきみは愛されるであろう。
      (デカメロン、河島英昭訳)

 *そんなこと言われてもねえ、やっぱりまず向こうから愛されたいよねえ、と例のオンモトさんは述べていますが。

バラの神秘 5

2008-05-21 22:08:13 | 引用
 薔薇は、古代から壁画や絵画に描かれ、数々の文学作品に登場している。詩聖ホメロス(紀元前800年ころ)は「イーリアス」や「オデュッセイア」で薔薇の美しさをたたえ、若い人の美しさを“薔薇の頬”と表現した。女流詩人サッフォー(紀元前600年ころ)は薔薇を“花の女王”と歌っている。
    (蓬田勝之著「薔薇のパルファム」)

ボッカチョ

2008-05-20 21:42:20 | 引用
 くやしいったらない。いったい、よその女にうつつを抜かすほど、自分の家でするべきことがないとでも、思っているのかい? たいした伊達男だこと!
   (「デカメロン」 河島英昭訳)