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しゅぷりったあえこお nano

ブログ版 シュプリッターエコー

アインシュタイン

2007-11-24 14:48:08 | 引用
「私がときどき自問するのは、どうして私は相対性理論を展開することになったのかということである。私が思うに、その理由は、普通の大人は空間と時間の問題をじっくり考えることなどしないからだ。これは子供のころに考えてしまったことなのである。しかし、私は知的発達が遅れたために、大人になってようやく空間と時間について不思議がる羽目になったのである」
 (ジョン・D・バロー著「万物理論」=林一訳から)

フロイト つぶやく理性

2007-05-25 02:29:14 | 引用
「知性が欲動生活に較べて無力だということをいくら強調しようと、またそれがいかに正しいことであろうと――この知性の弱さは一種独特のものなのだ。なるほど、知性の声は弱々しい。けれども、この知性の声は、聞き入れられるまではつぶやきを止めないのであり、しかも、何度か黙殺された後、結局は聞き入れられるのである。」(『ある幻想の未来』、『フロイト著作集3』所収、人文書院、p.402)[柄谷行人「死とナショナリズム 第1部 フロイト」(「批評空間」Ⅱ-15、太田出版、p.38)より孫引き]

批評と劇場運営2

2007-02-13 06:07:38 | 引用
パブリックシアターにおいて内容の正当性を開示するには専門家の知見と芸術的批評による。舞台芸術創造の選定は芸術監督やプロデューサーなどの専門家の役割であり、そしてそれを評価する批評の場の形成がなによりも大切になるのである。専門家の目を通して事業の枠組みを決定し、批評というフィルターを通してその作業を評価するのである。これが現在の公立文化施設にはほとんどない。(抄出)

批評と劇場運営

2007-02-13 02:44:11 | 引用
「創造成果にはっきり優劣があり、その優劣は抽選のような偶然ではなく、『批評』によって価値が認識される芸術行為は現状の常識としての公の施設には決してなじまないのである。」(清水裕之『21世紀の地域劇場』、1999年、鹿島出版会)
批評が劇場など施設運営にもっとインパクトを与えるように表現者側も施設側もならなければ。そのためにも批評には意味があると思う。

シェークスピア

2006-12-08 12:52:39 | 引用
 「人は皆、泣きながらこの世にやって来たのだ、そうであろうが、人が始めてこの世の大気に触れる時、皆、必ず泣き喚(わめ)く。一つお前に教えて遣わそう、よく聴け!…生れ落ちるや、誰も大声挙げて泣き叫ぶ、阿呆ばかりの大きな舞台に突出されたのが悲しゅうてな」(リア王。福田恒存訳)

柄谷行人「自主憲法について」

2006-11-10 08:34:31 | 引用
「憲法九条は、アメリカの占領軍によって強制された。この場合、日本の軍事的復活を抑えるという目的だけでなく、そこにカント以来の[恒久平和の]理念が入っていたことを否定できません。草案を作った人たち(すべてではないとしても)が自国の憲法にそう書き込みたかったものを、日本の憲法に書き込んだのです。(…)日本人は
そのような憲法が発布されるとは夢にも思わなかった。日本人が「自発的」に憲法を作っていたなら、九条がないのみならず、多くの点で、明治憲法とあまり変わらないものとなったでしょう。(…)しかし、まさに当時の日本の権力にとって「強制」でしかなかったこの条項は、その後、日本が独立し、簡単に変えることができたにも
かかわらず、変えられませんでした。それは、大多数の国民の間にあの戦争体験が生きていたからです。しかし、死者たちは語りません。この条項が語るのです。それは死者や生き残った日本人の「意志」を超えています。もしそうでなければ(…)こんな条項はとうに廃棄されているはずです。」(柄谷行人『<戦前>の思考』講談社学術
文庫、2001、p.205-206)

ヴァルター・ベンヤミン「モスクワ」

2006-11-04 03:35:08 | 引用
「こうした飲食店に足を踏み入れるときに、熱いお茶を飲むときに、ぴりりと辛い前菜(ザクースカ)をつまむときに客を襲う、暖かさの陶酔こそが、モスクワの冬の最もひそやかな快楽である。だから、雪に埋もれたモスクワを知らぬ者は、この都市を知っているとはいえない。というのも、どの地域を旅するにしろ、そこの気候が極
端な状態になる季節を訪れるべきだから。その地域は、何よりもそうした極端な状態に順応しているわけだし、この順応の仕方を見ることではじめて、その地域が理解できるのだ。モスクワでは、冬には生活が一次元分、より豊かになる。」(浅井健二郎・久保哲司訳『ベンヤミン・コレクション3』ちくま学芸文庫、1997、p.220-221)