今回は、障害者関係の記事ではありませんが、昨年の4月に東京・池袋で起きた暴走事故の事件、89歳で運転中に暴走し、死傷者を出した件で、自身は無罪を主張しているとのこと。これについて、思うところがあり投稿しました。
被告が「無罪」を主張するのは、あくまでも権利であり、それについては何も言いませんが、まずは事故については、どんな欠陥車であれ正常な車であれ、自分が使っていた道具が、自分の使用中に事件を起こしたことは、間違いなく事実です。そこは、絶対に認めないといけない。
物というものは、絶対がありません。100万分の1であれ、欠陥により異常行動が起きる可能性は0ではないとは思います。
そういう意味では、「車に欠陥が・・・」と主張するのは、問題ないと思いますが、それは主張する先が違うということですね。
「私が、正常なのに、車がこういう事件に・・・」というなら、車会社に訴えるものであり、今回の事件で自分は「無実」だと主張するのは、筋が違います。
確実な事実は、自分がどんな状況やその自身の管理下において使用していた物が、引き起こした事件は、絶対に否定出来ないからです。それを否定し、「無実」を訴えるのはおかしい。
そこは、まず自身の起こした事件であることを認めて、謝罪し、罰を受けることは、この世の中に生きている限り、ルールであると思います。
そのうえで、「今回の事件は私(被告)にも罪はありますが、私の使用していた”物”は欠陥品だったかもしれません・・・」と訴えるのは自由です。
いろいろ、世間では、家族がどうとか、本人が「上級国民」だとか、そんなある意味どうでもいい話がありますが、今までこの世の中で生きてきて、様々な恩恵もあり、様々な苦労もあったとは思いますが、それに対する感謝の念も何もないのが、不思議ですね。また、他人に迷惑をかけた意識は、必ず持ち合わせる必要があると思います。
それは、私も常に自分の子供にも、「人に迷惑をかけてはいけない」ことを言ってきました。知らないところで、迷惑をかけているときもあるかもしれませんが、自分が分かる範囲内なら、それは素直に謝罪します。
高齢者だから・・・というのは、理由になりません。
むしろ、高齢者ならば、こういった場面では、素直に世間に従い、人様に迷惑をかけたら、謝る・・・ということを諭す役割にあるのでは・・・と思います。
実は、私の車も数年前に暴走した事実があります。その際は、幸いにも、周りに人はいなくて、自分の車だけが壊れただけでした(突っ込んだのは、向かいの石の壁だったため、それはかすり傷もつかずに、自分の車の前が大破しました(そのまま廃車でした)。後から、自動車会社で、自車のエンジンのコンピュータ解析がありましたが、「暴走」「アクセルを踏んでいた」という記録しかなかったようです。
実は、これは友人宅での事件で、友人も観ていましたが、実際、車が異常状態で、自分が車から降りても、勝手にアクセルが上がり、エンジンが暴走していました。(もちろん、アクセルを踏んでいる人間は乗っていません)
そして、(そのときエンジンを切る・・・という選択肢はあったのですが)なんとかその状態の車を止めようと、乗ったとたん(サイドブレーキを解除)、私を乗せた状態で暴走、石の壁に突っ込みました。
その状況を友人も観ています。(私の判断ミスでした。すぐにエンジンを切ったらよかったと、後で後悔しました)
その後、自動車会社からは、高齢だから(その時点で58歳)、アクセルとブレーキを踏み間違えたのでは・・・?と言われました。乗ってないのに、異常にエンジンが高回転する車・・・?? 明らかに、この時点では欠陥車です。
もし、その際、突っ込んだ先に、不幸にも人がいて事故になれば、それは私の事故であると素直に認めます(それは確実に私の意思とは関係ない行動をした車でもありますが、私の管理下にあった事実は確かだからです)。
この冒頭の事件が起きた際、私は自身の車の件を思い出しました。
当然、この事件を起こした被告も、その場では相当のショックだったでしょうし、何も考え付かなかったと思います。
しかし、あの事件以来、1年以上が経過し、ある程度落ち着いた状況で、事件についての裁判・・・となれば、冷静に「あれは、自分がどんな状況であれ、運転していた車が起こしたもの」という認識を持つのが本当です。
この時点で、「無罪」を主張するのは、今までの自分の人生を全否定する意味もあると考えますが・・・
なんか、「高齢者」とひとくくりされるのは、他の高齢者も嫌な感じですね。今回の事件はあくまでも、その当事者自身の性格や生き方、考え方の問題ですね。
被告が「無罪」を主張するのは、あくまでも権利であり、それについては何も言いませんが、まずは事故については、どんな欠陥車であれ正常な車であれ、自分が使っていた道具が、自分の使用中に事件を起こしたことは、間違いなく事実です。そこは、絶対に認めないといけない。
物というものは、絶対がありません。100万分の1であれ、欠陥により異常行動が起きる可能性は0ではないとは思います。
そういう意味では、「車に欠陥が・・・」と主張するのは、問題ないと思いますが、それは主張する先が違うということですね。
「私が、正常なのに、車がこういう事件に・・・」というなら、車会社に訴えるものであり、今回の事件で自分は「無実」だと主張するのは、筋が違います。
確実な事実は、自分がどんな状況やその自身の管理下において使用していた物が、引き起こした事件は、絶対に否定出来ないからです。それを否定し、「無実」を訴えるのはおかしい。
そこは、まず自身の起こした事件であることを認めて、謝罪し、罰を受けることは、この世の中に生きている限り、ルールであると思います。
そのうえで、「今回の事件は私(被告)にも罪はありますが、私の使用していた”物”は欠陥品だったかもしれません・・・」と訴えるのは自由です。
いろいろ、世間では、家族がどうとか、本人が「上級国民」だとか、そんなある意味どうでもいい話がありますが、今までこの世の中で生きてきて、様々な恩恵もあり、様々な苦労もあったとは思いますが、それに対する感謝の念も何もないのが、不思議ですね。また、他人に迷惑をかけた意識は、必ず持ち合わせる必要があると思います。
それは、私も常に自分の子供にも、「人に迷惑をかけてはいけない」ことを言ってきました。知らないところで、迷惑をかけているときもあるかもしれませんが、自分が分かる範囲内なら、それは素直に謝罪します。
高齢者だから・・・というのは、理由になりません。
むしろ、高齢者ならば、こういった場面では、素直に世間に従い、人様に迷惑をかけたら、謝る・・・ということを諭す役割にあるのでは・・・と思います。
実は、私の車も数年前に暴走した事実があります。その際は、幸いにも、周りに人はいなくて、自分の車だけが壊れただけでした(突っ込んだのは、向かいの石の壁だったため、それはかすり傷もつかずに、自分の車の前が大破しました(そのまま廃車でした)。後から、自動車会社で、自車のエンジンのコンピュータ解析がありましたが、「暴走」「アクセルを踏んでいた」という記録しかなかったようです。
実は、これは友人宅での事件で、友人も観ていましたが、実際、車が異常状態で、自分が車から降りても、勝手にアクセルが上がり、エンジンが暴走していました。(もちろん、アクセルを踏んでいる人間は乗っていません)
そして、(そのときエンジンを切る・・・という選択肢はあったのですが)なんとかその状態の車を止めようと、乗ったとたん(サイドブレーキを解除)、私を乗せた状態で暴走、石の壁に突っ込みました。
その状況を友人も観ています。(私の判断ミスでした。すぐにエンジンを切ったらよかったと、後で後悔しました)
その後、自動車会社からは、高齢だから(その時点で58歳)、アクセルとブレーキを踏み間違えたのでは・・・?と言われました。乗ってないのに、異常にエンジンが高回転する車・・・?? 明らかに、この時点では欠陥車です。
もし、その際、突っ込んだ先に、不幸にも人がいて事故になれば、それは私の事故であると素直に認めます(それは確実に私の意思とは関係ない行動をした車でもありますが、私の管理下にあった事実は確かだからです)。
この冒頭の事件が起きた際、私は自身の車の件を思い出しました。
当然、この事件を起こした被告も、その場では相当のショックだったでしょうし、何も考え付かなかったと思います。
しかし、あの事件以来、1年以上が経過し、ある程度落ち着いた状況で、事件についての裁判・・・となれば、冷静に「あれは、自分がどんな状況であれ、運転していた車が起こしたもの」という認識を持つのが本当です。
この時点で、「無罪」を主張するのは、今までの自分の人生を全否定する意味もあると考えますが・・・
なんか、「高齢者」とひとくくりされるのは、他の高齢者も嫌な感じですね。今回の事件はあくまでも、その当事者自身の性格や生き方、考え方の問題ですね。