『イギリス労働者階級の状態』。100年以上前の、カール・マルクスの著作だ。
ずいぶん前に読んだだけで、その後読み返していないのだが、そこに書かれたイギリスの労働者の実態は、現代の「ワーキングプアー」の状態とほぼ同じだ。
産業革命で、資本の奴隷となった下層民の生活は「働けど、働けど、我が暮らし楽にならざりき」である。
野放しの、弱肉強食の競争社会は、その後の社会主義運動や、労働組合の設立などで改善されたはずが、油断していると、すぐ産業革命時代の「イギリス労働者階級の状態」に戻ってしまう。
官僚主義の蔓延で崩壊してしまったソ連邦や、中国・北朝鮮の人権無視の実態は、社会主義・共産主義が掲げた理想が、所詮夢でしかなかったという、幻滅を人々に与えるに充分ではあるが。
だが、しかし、理想のすべてを捨て去ってよいものだろうか。
確かに『共産党宣言』を読むと、共産主義社会が実現した社会のあり方が、あまりに理想的に書かれすぎている、とは思う。
マルクスは楽天家だ。資本の蓄積の仕組みと、そこに組み入れられる労働者の実態を解明し、労働者は何をなすべきか、方向を示した時点で、マルクスの頭の中での「理想の社会」は実現するはずのものになった?
理想の社会は、理想の人間を作る、マルクスはそう信じて、その後の事態については後世にゆだねたように、私には思える。
マルクスもまた人の子であり、時代の子だ。その理論を古臭いと捨てるのではなく、その理論の中から、生かせるものを拾い上げるべきなのだ。
NHK「クローズアップ現代」は、いわゆる就職氷河期に正社員になれなかった20代後半から30代の青年達が、キャリアアップをするために中国にわたって、がんばっている姿を追っていた。
それも一つの道だろうが、「普通の人が、普通に働いて、そこそこの生活ができる」社会がいい。
私は自分自身が、負けず嫌いでもなく、エネルギッシュでもないので、ついそういう風に考える。
団塊の世代と言われる人たちを含めた上の世代の大多数の人は、そんな風にして、「普通の生活」を手に入れてきたのではないだろうか。
若い世代をこんなに苦しめては、ほんとにバチがあたる。
今、一番求められているのは、現在、偉そうに上に立っている人間(政治家、上場企業の経営者や役員など)が、総退場して、次の世代に場を明け渡すことではないだろうか。
「大丈夫、あなたがいなくても、うまくいきます」。
私はいまだに持っていないが、若い人にとっては、「携帯」は手放せない道具の最上位のようだ。
私と同世代の人でも、「ついのぞいてしまう。中毒症状」という人もいる。
そして、この携帯上で連載される「携帯小説」が、これまた若い人達の心をひきつけている。
パソコン上での小説、というのも以前からあるが、携帯小説は、さらに画面が小さいから、ほぼ短い会話文だけで進行する。
従って、携帯小説、パソコン小説、紙の上の本の形式になっている小説、と、三つのジャンルが存在することになる。
私は小説ではないが、2つのブログを定期的に書いている。
そして、冊子という形で紙の上の文章も書いている。
ブログと、紙に起こす文章は、自然に違ってくる。
紙の上の文章は、文章としての体裁や形式を意識する。
ブログはこの「木洩れ日通信」は、自分では少し硬めの内容を書いているつもりなので、あまりくだけた、奔放な文にはならないが、もう一つの映画や韓国ドラマについて感想をあれこれ書いているブログ(d.hatena.ne.jp/kawarie/)は、気楽に書き飛ばしている。
それぞれはジャンルとして、時に交差しながら、並走していくのだろうと思う。