少し前、『朝を呼ぶ口笛』という、吉永小百合、映画初出演、という作品を見た。
50年近く前の映画だ。小百合は主役ではない。
主役は、職人の父親がケガで思うように働けなくなり、朝の新聞配達をしながら家計を助ける少年だ。
小百合は、この配達少年を励ます役だ。
高校への進学を目指してがんばっていたところ、今度は母親が、病気で入院してしまう。
進学のために貯めていたお金を、母の入院費に回すことを決意した少年は、高校進学を断念して、工場で働くことに決める。
それを知った、仲間達が少しづつお金を出し合い、少年は再び高校進学をめざすことに。
「貧しさの中の連帯」、50年代、60年代はこういう傾向の映画がたくさん、というか、大部分を占めていた。
私の小学生時代、『にあんちゃん』という、九州の三池炭鉱地帯に暮らす、在日朝鮮人の少女、安本末子の手記がベストセラー本になった。
映画、ラジオドラマにもなり、映画も見たし、ドラマも熱心に聞いた。
エネルギー政策の転換で、炭鉱は不況。大量解雇の嵐の中、安本一家をはじめ、炭鉱労働者たちは、その日の食事にも事欠くことも。
そんな時、同じ炭鉱住宅の長屋暮らし、お互いの生活状況は手に取るようにわかる。
隣のおばちゃんが、夕食に呼んでくれる。遠慮しながらもその日の食にありつくことはできた。
貧しいけれど、食べるものがなくて餓死する人はいなかった。
ところが今、世の中全体には物も食べ物もあふれているのに、「おにぎり、食いたい」と、メモを残して死んでいく人がいる。
資本主義が高度に発達して、豊かな消費社会になればなるほど、人は分け合うことは忘れ、連帯を忘れ、バラバラに切り離されていく。
長屋暮らしにプライバシーというようなものはない。だから、人々は鉄のトビラをピシャッと閉めれば、自分達だけの干渉されない空間になる、団地生活にあこがれた。
そして、隣の住人が、今まさに餓死せんとしている状況にも気がつかなくなってしまった。
「貧しくても、お互いに助け合って」とか「貧しくても愛さえあれば」というようなことを言いたいのではない。
だけど、どんなに豊かになっても、そこに矛盾はある。だからお互い助け合うことは忘れてはいけないのだ、と思う。
政治学者の山口二郎は、「政治とは富の再配分」だと言っている。
どんなに才覚のあるがんばりやも、一人で仕事や事業を成し遂げることはできない。
自分が得た利益を社会に還元する精神を持たねば、だが、掛け声だけで、そうする人は、おそらく少ないだろうから、制度として、それを確立する。それが「政治」ということだろう。
小泉元総理の秘書官だった、飯島勲氏は、長野県は駒ヶ根の出身。
小泉氏の秘書は退いたが、その息子、信次郎を後継ぎにするべく暗躍し始めている。
世襲議員が占領する日本の国会。封建時代に戻ったようだ。
3世議員の小泉純一郎、麻生太郎、安陪晋三、この中の誰一人として、まともな人間とは私には思えない。
4世となったら、さらに「化け物だ。人間じゃない」。
それなのに、飯島氏は信次郎を持ち上げ、「若いけど、私は彼に人間として負けた」と、こんなみえすいたことを、テレビで全国に発信する輩は、鉄の心臓を持った、これまた、まともな人間じゃない。
神奈川のこの選挙区の選挙民の覚醒を期待したい。
地域で人を区別するのは、間違っているとは思うが、それでも言いたい。
「飯島勲は、長野県の恥」。