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勝沼で大敗した甲陽鎮部撫隊(新撰組)は分裂する。残ったのは近藤、土方、斉藤の3人になってしまった。そこで新に200人の隊員を募集し、旧幕府の領地であった下総国の流山へ移動して、演習をしていた。
ところが、不審な軍隊が演習しているのを、新政府軍の分隊にとをとがめられ、責任者の近藤(このとき大久保大和に名をかえていた)に出頭命令が下る。近藤は切腹を覚悟したが、土方に「ここで死んでは、犬死だ、敵意が無いことがわかれば、無事ですみますよ」と、土方になだめれら、出頭する。4月3日。
土方はすぐに江戸に下り、近藤の助命嘆願を、勝海舟、大久保一翁に対しておこなう。これが4月4日。
一方、出頭した近藤はあくまでも、自分は大久保大和で近藤勇ではないと、つっぱねていたが、面通誌が行われ、近藤本人だと、ばれてしまう。そして、土佐藩の板垣退助や谷千城に激しい尋問を受ける。当時坂本龍馬を暗殺したのは新撰組だと言われていたので、その尋問の激しさがいかに、激しかったか、想像できよう。しかし、近藤は犯行を屈強に否認した。
結局、助命に傾く薩摩勢と極刑を臨む土佐藩が対立するのであるが、決着をつけたのは徳川家目付けの「近藤は当家とは関係が無く、罪は天下が周知するところなり」と言い放されてしまう。近藤はあれだけ尽くした徳川家に捨てられたのである。慶応4年(1868年)4月25日、板橋の刑場で断首、享年35歳であった。なお、土方も35歳で函館で戦死している。
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