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関ヶ原の戦いでは光秀と意見が合わず、戦いらしい戦いはしないで敗走した行長は伊吹山の山中をにげ、て岐阜山中の河合集落にたどり着き,川合神社の床下に匿われた。その時行長は私を匿えば集落の南にそびえて、日当たりを邪魔する大山を削る約束をしている。
関ヶ原の勝者の家康は三成,行長,宇喜多秀家の隠れ家を知らせたものは大判小判のつかみ取りをさせると、おふれをだした。
このおふれにより、中山集落の林蔵と要之介が密告して行長はとらえられる。
このとき行長はこの集落を三年に一度焦土にしてやるとさけんだそうです。それ以後中山集落ではたびたび大火があった。享保18年の火災では集落は焦土とかした。またこの地方では行長が逃げるとき笹を踏みつぶしながら逃げたので笹の葉が片側しかついてないそうです。恐ろしー
これらを恐れた村人は行長の小刀を埋めて墓地を作り、供養したそうです。
その後天正12年に小西神社を作り神として祀る。神社には幹回り6メートルの大杉が茂っていたが、昭和39年の台風で倒壊した。
この手の話はどこでもあります。歴史ロマンです。
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