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西郷は奄美大島に2年弱、徳之島、沖永良部島に1年半の合計4年間島流しにあっている。最初の流罪は月照と心中事件を起こしたが生き残つた西郷を。幕府の目から欺くための流罪であった。そのため本人の墓も用意して、改名させ、家族には下賜金が与えられ、島での暮らしも自由であった。このときは大久保らの計らいで文久元年には薩摩へ召還されるが、二度目の島流しは薩摩の島津久光との確執である。公然と久光を批判する西郷にたいして、文久2年久光は徳之島から沖永良部島への流罪処分をおこなった。
2度目の流罪は本人ばかりでなく、西郷家の知行、家財道具没収、弟の謹慎処分といった激しいものであった。しかし、元治元年、薩摩藩の勤王派の嘆願により西郷は復活する。
あれほど嫌っていた西郷を久光はなぜ許したのか、それは西郷ご赦免なければ、同志一同割腹自殺するとおどされたからである。
このとき、悔しさのあまり久光がくわえていた銀のキセルには歯形が残っているそうです。
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