文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

貞安上人。

2011年02月11日 21時30分42秒 | 日記

 貞安上人は、天正3(1575)、能登の西光寺に住 んでいたが、上杉謙信の穴水城攻めを逃れて、同4年に安土(近江)の円通寺へ移る。そこで、織田信長の帰依を受け、能登の西光寺にならって西光寺を建立し、浄土宗の布教で功績。天正7(1579)5月、織田信長の命をうけ、上人は浄土宗代表として安土浄厳院で行われた宗論に加わり、法華宗(日蓮宗)僧侶を論破したことで信長の信任を得ている。その時、信長から軍配団扇と朱印の感状を受けていて、それらの品々も展示されていた。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/daiun-in.htm から。


「林浄因」

2011年02月11日 21時24分10秒 | 日記

元(中国)の出身。浄因は孤高の詩人・林和靖(りんなせい)の末裔である。龍山和尚に帰依し、その日本帰国の際に、来日した。浄因の子孫は帰化し、禅僧や商人を輩出した。その曾孫・文林寿郁(ぶんりんじゅいく)は知足院を護持し、両足院を創建した。林家からは累代、両足院住持を輩出し、龍山徳見の遺志を守り続ける。さらに浄因は、日本に「饅頭」を伝え、その末裔が老舗「塩瀬」をおこすなど、食文化に重要な功績を残している

http://www.ryosokuin.com/cgi-bin/ryosokuin/siteup.cgi?category=1&page=2 から。


「本饅頭」

2011年02月11日 21時20分01秒 | 日記

 時代は下り、天正3(1575)年の長篠の合戦。鉄砲の連射を駆使した織田・徳川連合軍が、戦国一の騎馬軍団を擁する武田勝頼を撃退した戦いです。家康出陣の際、塩瀬の七代目林宗二が「本饅頭」を献上しました。「本饅頭」とは、大納言が入った小豆餡を薄い皮で包み、丁寧に蒸しあげた、林宗二考案の品です。家康は、本饅頭を兜に盛って軍神に供え、戦勝を祈願しました。この逸話から、本饅頭を「兜饅頭」とも呼びます。

http://www.shiose.co.jp/shiose_history.html から。


両足院からお饅頭へ。

2011年02月11日 21時14分52秒 | 日記

 塩瀬の始祖・林淨因は、主に寺院を対象に、奈良でお饅頭商いを始めました。
 淨因は、中国で肉を詰めて食べる「饅頭(マントゥ)」にヒントを得て、肉食が許されない僧侶のために、小豆を煮つめ、甘葛の甘味と塩味を加えて餡を作り、これを皮に包んで蒸し上げました。お饅頭の、ふわふわとした皮の柔らかさ、小豆餡のほのかな甘さが、寺院に集う上流階級に大評判となりました。
 当時、日本の甘味には柿や栗の干したもの、お餅に小豆の呉汁をつけるお汁粉の元祖のようなものしかありませんでしたので、画期的なお菓子の誕生ということになりました。
 日本人は昔から豆類を多く摂取し、小豆好きであったことから、餡饅頭は好評を博したのだと考えられます。
 淨因のお饅頭は、後村上天皇に献上されるまでになります。天皇はお饅頭を大変喜んで淨因を寵遇し、宮女を賜りました。当時、一商人が宮女を下賜されるということは、特別の栄誉でありました。結婚に際し、淨因は紅白饅頭を諸方に贈り、子孫繁栄を願って大きな石の下に埋めました。これが「饅頭塚」として、林淨因が祀られている林神社に残されています。今日、嫁入りや祝い事に紅白饅頭を配る習慣は、ここより出ているものです。
 それから幾代か経て、商いの場は京都に移ります。林淨因の子孫、紹絆は、中国で製菓を修得後日本に帰り、中国の宮廷菓子に学び、山芋をこねて作る「薯蕷饅頭」を売り出しました。この「薯蕷饅頭」が現代塩瀬に伝わるお饅頭の元となりました。


http://www.shiose.co.jp/shiose_history.html から。


妙覚寺、テイク2.

2011年02月11日 20時51分57秒 | 日記

妙覚寺は四条大宮に創建された後、室町中期の文明15年(1483)12世日寮上人のとき、9代将軍足利義尚(よしひさ)の命で、二条通衣棚(現烏丸御池の北西に上・下妙覚町の地名が残る)に移転した。その後、日蓮宗の信仰が公武の高官や武士・富商・町衆へ浸透して隆盛を誇るようになった。天文5年(1536)、日蓮教団の巨大化を恐れた天台宗(比叡山延暦寺)の僧兵ら約6万により、京都洛中洛外の日蓮宗寺院21本山は襲われる。かくして、勢力を誇っていた日蓮宗寺院はことごとく焼き払われ、妙覚寺は堺へ逃れる。途中の鳥羽街道で貫主は流れ矢により遷化(亡くなること)している。

6年後の天文11年(1542)、日蓮宗本山の帰洛が許され、妙覚寺は天文17年(1548)、19世日饒(にちじょう)上人が旧地二条通衣棚に復興している。この頃から、妙覚寺は本能寺と共に織田信長の上洛時の宿所とされた。これは日饒上人が斉藤道三の子であったこと、信長の妻・濃姫が道三の娘であったためと考えられている。
 

信長は妙覚寺で千利休を茶頭とした大茶会を何度か催したという。そして、天正10年(1582)6月の上洛時、信長の嫡子信忠は妙覚寺を宿に、信長は本能寺を宿にした。この時も妙覚寺では茶会が催された。その夜(翌日の未明)重臣明智光秀軍は、本能寺の信長を襲い自害させたあと、直ぐに信忠がいる妙覚寺へ。本能寺から妙覚寺の距離は約1キロ、信忠は妙覚寺から二条殿(現烏丸御池の北西角にあった)へ向かい誠仁親王を無事退去させ、追撃してきた光秀軍と戦うが、数に勝る光秀軍に信忠も自害した。この歴史に残る「本能寺の変」により妙覚寺は焼失した。
 

天正18年(1590)、権力を握った豊臣秀吉の都市改革令により洛中寺院の大半は強制的に市街地の北側の寺之内(てらのうち)または東側の寺町(てらまち)へ移転させられた。このとき妙覚寺は北の寺之内へ移建され現在に至るが、天明8年(1788)天明の大火で華芳塔堂と表門を残し堂宇を焼失。現在の建物は、その後のもの。妙覚寺の北にある墓地には、狩野元信・永徳ら一門の墓、日蓮・日朗・日像・日奥らの墓がある。http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/myoukaku-ji.htm から。


信長ゆかりの寺院を調べていて…。妙覚寺。

2011年02月11日 20時38分08秒 | 日記

妙覚寺の21世日奥(にちおく)上人と本国寺(山科の現本圀寺)の日上人は不受不施(ふじゅふせ)派の急先鋒。不受不施とは「僧は法華信徒で無い者からの布施を受けず(不受)、信徒も法華寺院以外の僧へ施さない(不施)」の意味である。

 文禄4年(1595)、秀吉から東山大仏殿落慶の大仏開眼千僧供養会を開くため、各宗に対して「供養会へ100人の僧を出仕せよ」の通達が出た。この通達に日蓮教団は受派と不受派に分裂・対立する。日奥上人・日上人は秀吉が法華信徒でないことを理由に供養会への出仕を拒否する。拒否すれば秀吉は何をするか分からないという受派寺院の対応でこの供養会は事なきを得た。しかし、これを機に日蓮教団内部で供養会への出仕当否をめぐって問題化する。

 秀吉が没し、徳川家康が実権を握っても千僧供養会は続けられており、受派は「日奥はいあまだ貴命に応じず」と家康へ訴える。慶応4年(1599)、家康は大阪城へ両者を呼び諸大名の面前で当否を対論させ、日は潮時と判断し出仕を約束した。日奥は「教えに背くことは例え国主であっても従えない」と主張。メンツを潰された家康は、日奥を対馬へ配流した。13年後、赦免された日奥は妙覚寺へ戻ることを許されたが・・・。受不施・不受不施をめぐる対立は教団全体を揺るがし、幕府は次第に不受不施派への警戒を強めた。寛永7年(1630)2月、幕府は再び両者を江戸城へ呼び対論させ、軍配を受不施派にあげると共に不受不施派を弾圧し、僧を流罪・追放している。このとき、日奥上人も再び流罪となったが、日奥はこの裁定の前に66歳の生涯を終えていた。幕府は見せしめのために、日奥の墓を掘り起こし、死体を対馬へ送ったとされている。以後、不受不施は禁教となり明治時代まで続いたという。 http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/myoukaku-ji.htm から。


信長公記にみる黄金の樋…ネットの労作から。

2011年02月11日 19時03分01秒 | 日記

信長公記にみる黄金の樋

http://www.asahi-net.or.jp/~uw8y-kym/densetsu/densetsu_ougonnotoi.html から。

「信長公記(しんちょうこうき)」は、織田信長の家臣で、後に豊臣秀吉に仕えた太田和泉守牛一が信長の傍にあって、体験をつぶさに書き記した大書として有名で、その信頼度もすこぶる高い信長の伝記です。その信長公記には、石清水八幡宮の造営について次のようなことが書かれています。

天正7年(1579)12月10日、信長公は山崎に御座をお移しになり、翌11、12の2日間は雨天のため京都山崎の宝積寺にご滞在になった。そのとき、石清水八幡宮の内殿と外殿との間には昔から木製の樋が架かっていたが、それが朽ち腐って雨が漏り、損壊寸前であり難儀していることを信長公がお聞きになると、さっそく造営することをお決めになった。そこで、代官武田佐吉のほか、林高兵衛、長坂助一の3人を石清水八幡宮の造営奉行に任命し、「こんどは後世にまで残るように」と、「唐金(青銅)の鋳物に直し、長さ六間のところを5つの鋳物で継ぎ合わせるように」と仰せつけられた。また、「必要な費用以外に無駄な支出がないようにし、一刻も早く完成するよう念を入れて申しつける」と、命じられた。

 造営にあたって信長公は、かふじ・番匠・大のこびき・葺き師・鋳物師・かわら焼きたちを召し寄せるとともに、大和の国の三輪山から材木を取り寄せ、斧始め(起工式)を天正7年(1579)12月16日午前9時ごろとした。
天正8年(1580)3月、仮遷宮があって、ほどなく社頭・神殿の屋根をふき終え、築地・楼門の工事もすみ、金ぱくでもって飾りたて、また、意奉拝の社壇には、七宝をちりばめたことから、神前は光明を増し、堂々と荘厳をきわめた。そして、5月26日に正遷宮が行われた。このことから「神は人の敬いによって威を増す」と言った。

信長は正遷宮に訪れ、武運長久と家門繁栄を祈った。また、参詣の人びとが群れ集まり、信長への尊敬の念を増した。そして、8月中旬までかかって9か月で、造営をすべて終えた。


「松花堂弁当」

2011年02月11日 18時53分49秒 | 日記

今では全国的に有名で弁当の代名詞とも言える「松花堂弁当」。 さて、この松花堂弁当の起源ですが、もとはと言えば、石清水八幡宮(京都府八幡市)の社僧であった松花堂昭乗の使っていた物入れ(箱)でありました。
昭乗は近在の農家が作物の種入れなどに使っていた、田の字の形に仕切った物入れ(箱)をヒントに、絵の具箱、茶会のたばこ盆などとして、色々な用途に利用していたと伝えられています。

時代は下って昭和の初め、料亭吉兆の創始者が八幡を訪れた際、昭乗遺愛(松花堂好み)の四つ切箱を見て、試行錯誤のうえ懐石料理を盛り付け、弁当として世に広めたのが「松花堂弁当」の始まりです。
http://www.yawata-bunka.jp/syokado/bentou/index.htm


天明の大火…。

2011年02月11日 18時31分08秒 | 日記

ウィキペディアより。

天明の大火(てんめいの たいか)とは、天明8年1月30日(1788年3月7日)に京都で発生した火災。出火場所の名をとって団栗焼け(どんぐりやけ)、また干支から申年の大火(さるどしの たいか)とも呼ばれた。

京都で発生した史上最大規模の火災で、御所・二条城・京都所司代などの要所を軒並み焼失したほか、当時の京都市街の8割以上が灰燼に帰した。被害は京都を焼け野原にした応仁の乱の戦火による焼亡をさらに上回るものとなり、その後の京都の経済にも深刻な打撃を与えた。このため、単に京都大火(きょうとたいか)あるいは都焼け(みやこやけ)と言うと、通常はこの天明大火(てんめいたいか)のことを指す。

 概要 旧暦1月30日(正月晦日)の未明、鴨川東側の宮川町団栗辻子(現在の京都市東山区宮川筋付近)の町家から出火。空き家への放火だったという。折からの強風に煽られて瞬く間に南は五条通にまで達し、更に火の粉が鴨川対岸の寺町通に燃え移って洛中に延焼した。その日の夕方には二条城本丸が炎上し、続いて洛中北部の御所にも燃え移った。最終的な鎮火は発生から2日後の2月2日早朝のことだった。

この火災で東は河原町・木屋町・大和大路まで、北は上御霊神社・鞍馬口通・今宮御旅所まで、西は智恵光院通・大宮通・千本通まで、南は東本願寺・西本願寺・六条通まで達し、御所・二条城のみならず、仙洞御所・京都所司代屋敷・東西両奉行所・摂関家の邸宅も焼失した。幕府公式の「罹災記録」(京都町代を務めた古久保家の記録)によれば、京都市中1967町のうち焼失した町は1424、焼失家屋は3万6797、焼失世帯6万5340、焼失寺院201、焼失神社37、死者150だったという。ただし死者に関しては公式記録の値引きが疑われ、実際の死者は1800はあったとする説もある。

この大火に江戸幕府も衝撃を受け、急遽老中松平定信を京都に派遣して朝廷と善後策を協議した。また、この直後に裏松固禅の『大内裏図考證』が完成し、その研究に基づいて古式に則った御所が再建されることになるが、これは財政難と天明の大飢饉における民衆の苦しみを理由にかつてのような壮麗な御所は建てられないとする松平定信の反対論を押し切ったものであり、憤慨した定信は京都所司代や京都町奉行に対して朝廷の新規の要求には応じてはならないと指示している(東京大学史料編纂所所蔵「御所々御入用筋書抜」四及び松平定信『宇下人言』)[1]。また朝廷の動向が世間の注目を集めるようになり、尊号一件などの紛争の遠因となった。


信長殿の刀…。

2011年02月11日 18時21分01秒 | 日記

ウィキペディアより。…黒字は芥川。

宗三左文字(そうざさもんじ)は、刀剣の名。その所持主の移り変わりから、「義元左文字」と称される事もある。
元々は戦国時代、畿内の三好宗三から甲斐・武田信玄の父武田信虎に贈られた刀である。その後、武田信虎が今川氏と和睦を示すものとして娘・定恵院を嫁がせる際に一緒に持たせた。その婿・今川義元は、この刀を自分の愛刀として大切にしたという。

その後、1560年の桶狭間の戦いにおいて義元を敗死させた織田信長は、戦利品としてこの刀を取得。信長は、「禄三年五月十九日義元討補刻彼所持持刀織田尾張守信長」と刻印し、自分の愛刀とした。これは本能寺の変まで信長の手元にあった。

本能寺の変の後は、豊臣秀吉の手に渡った。秀吉死去後は、その子の豊臣秀頼の手に渡り、さらに、秀頼から徳川家康の手に渡った。これ以降、徳川将軍家に代々受け継がれていった。この刀は、常に天下を取るもの、狙う者の手にある運命にあると歴史ファンが言うのも無理からぬことではある。
その後、天明の大火に遭うものの再刃された。
明治維新後、明治天皇が信長に建勲(たけいさお)の神号を贈り、建勲神社が創建された。その際に徳川家から「義元左文字」が建勲神社に奉納された。現在では重要文化財である。


京都に於ける信長ゆかりの場所を検索してみれば…。

2011年02月11日 18時12分05秒 | 日記

ウィキペディアより…黒字は芥川。

明治2年(1869年)11月8日、戦国時代を天下統一、朝儀復興などを進めた織田信長を賛えるための健織田社(たけしおりたのやしろ)の創建が明治天皇により決定された。翌明治3年(1870年)10月17日、織田信長の子孫で天童藩知事・織田信敏の邸内(東京)と織田家旧領地の山形県天童市に建勲社が造営された(天童市に造営された建勲社については建勲神社
(天童市)を参照のこと)。明治8年(1875年)4月24日に別格官幣社に列格した。

現在地の船岡山は平安京の四神相応の玄武に位置し、豊臣秀吉によって信長の廟所と定められた地である。その船岡山に神社を移すことになり、明治13年(1880年)9月、社殿が竣工して東京より遷座した。なお、この時は現在表参道を少し登ったところにある「大平和敬神」の石碑が建っている場所に本殿があった。明治14年(1881年)に織田信忠が合祀された。明治43年(1910年)に社殿が現在の山頂部分に移建された。
祭神・織田信長の業績にちなみ、国家安泰・難局突破・大願成就の神社とされる。高台にある境内からは特に大文字山・比叡山方面の眺望が良い。

建勲神社の案内板重要文化財
  刀 無銘(義元左文字)
  紺糸威胴丸
  信長公記 太田牛一自筆本


家康殿、終に、戦国一の美人の顔を見つけましたぞ!

2011年02月11日 17時42分40秒 | 日記

信長殿ゆかりの寺があれば、と思って、ネットを叩いて見れば、http://katosatoru.boo-log.com/e78668.html 今日残されている信長像の中で最も信長の真影に近い像として有名。とあったので、400%に拡大して見た…なるほどなぁ、と思った。

信長殿の妹である、お市の方が、戦国一の美人と称されているのも、むべなるかな、と思った。当然ながら、信長殿、ただものにはあらずなのじゃが、この面だちに近い表情をお市の方として想像してみればじゃ、家康殿!見えましたぞ。戦国一の美女…お主の時代の絶世の美女、お市の方の顔がくっきりと。 うむ。 ついに、現代の色男、芥川殿に見られてしまったか。 わしらだけの宝物としてしまっておきたかったんじゃがのぉ。 うむ。

わっはっはっ。あっはっはっ。


どう感謝したらいいか…。

2011年02月11日 17時39分23秒 | 日記

人には親切にしないと…昨夜は、既述のように寝不足だったので、これもまた日本企業の世界に誇る優秀さの現れであるパナソニックが極めた製品(笑)リアルプロでマッサージをしながら眠ろうかと思ったら本当に眠ってしまった…熟睡したせいで目を覚ました時に昼夜が分からなかった、アレッ昨夜3時過ぎに寝たのに2時間も寝ていないのか、と。着けっ放しだったテレビから大きな音が、先ほどまでやっていた「ハーフ・バンパイア」の続きかと思ってみればヒュー・ジャクソンが出ている、うむ、何時の間に話が展開したのじゃと思ったが、別の映画で「ウルヴァリンXメン…」Xメン好きな人には堪えられないだろうが芥川は、この手の映画は好きじゃない、そのまま流していたら、彼が裸で納屋に入って行くのを目撃した所有者の老夫婦が食事を御馳走した場面での会話が…表題と始まり。

或る面ですっとぼけた会話だと思うが、芥川の文章もすっとぼけた物になったか(笑)


秋山駿氏の名著「信長」から。

2011年02月11日 14時52分07秒 | 日記

流石、秋山氏、序章に於いて、既に信長を正法眼蔵している。 黒字は芥川。

 なぜ、信長が、新しい思考を展開し、新しい倫理を索めようとしていたのだ、と考えないのであろうか。
 父子兄弟の倫理、既に絶えし人也。なるほど、そう見える。では、なぜ「絶えし人」なのか?どうして白石はそれを問わぬ?

*白石とは、新井白石のこと。

芥川の読者の中で慧眼をお持ちの方は、この点に於いて、芥川と信長は同一であると気付かれたはず。 うむ。 と家康殿は唸った(笑)

普通の人では父子兄弟の縁は切れぬ。 と


うむむ。村木嵐さんは、嬉しいというか、有難い事を言うてくれるのぉ。芥川殿。 御意。

2011年02月11日 13時51分52秒 | 日記
わしゃ、涙が出てきたぞ。泣くぞ。わぁーん。 ありゃ、まぁ。こんな別嬪さんに、400年経っても好かれて、余程嬉しかったんじゃのぉ。 うむ。「しみじみ日本、徳川家康」、じゃぞーっ。井上ひさひ氏! お、またまた、出ましたか。