文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

今夜のテレビから。…備忘録に、後で清書します。

2011年02月07日 23時58分40秒 | 日記

この間からTBSのニュース23が明らかに変わってきたと思う…他社とは違う特集を毎回のように入れ出した。と同時に、TBSのジャーナリスト魂は死んではいないとも感じている。…例えば今夜の北方領土の特集は実に有益なものだった。それとサッカーの長友が大学時代にあった転機についても、これぞ報道というものだった。…彼は最初サイドバックが嫌だった…これは他のどの局もこれまで伝えてはいなかった事だと思う。

北方領土に住むロシア人たちは、ここに何の希望も、極端に言えば生きる意味を見出していない…メドベージェフが訪問したという家庭に入ったインタビューでの家長の本音は子供たちは此処から出さなければならない…何もないから。現地ロシア人医師が淡々として語った事…いずれ此処からロシア人はいなくなる…

その場しのぎの発言ばかりして、その場では勇ましい事を言う前に、こういう現地の実態をどうして把握しようとしないのか。テレビ局に出来る事が政治家に出来ないのでは、どうししょうもなかろう。僕はマスコミばかりを、テレビばかりを意識してきた政治家なる者の実態が露わになっているのが、今なのだと思う。いな、やっと露わになったというべきだろう。本物の政治家、為政者とはそんなものではないのだ、ということを全国民に知らしめた功績は大だというべきだろう。

実態を=現実=真実を知って、そこから策を組上げて行く、それが政治と言うものだろう。相手が乗ってくる案は、そこには必ずあるはずだと芥川は思う。


千姫の生涯…テイク2。

2011年02月07日 20時47分43秒 | 日記

黒字は芥川。

穏和な性格の持ち主と伝えられるが、実際には豊臣秀頼と側室の間に生まれた娘・奈阿姫が処刑される所を体を張った必死の助命嘆願を行い、その結果、奈阿姫は助けられたとされる。奈阿姫は後に「縁切り寺」として有名な東慶寺の住職となる。

千姫は祖母・市の聡明さと美貌を受け継いだ、たいへん美しい姫君であったという。また、初めの夫・秀頼とも夫婦仲睦まじかった。千姫が16歳のとき、秀頼が女性の黒髪を揃える儀式「鬢削」を千姫にしていたのを侍女が目撃している。

千姫が亡くなった際、娘・勝姫の子である奈阿姫(上記の秀頼の娘とは別人)は祖母の菩提を弔うために「浄土三部経(全4巻)」を書き写した。奈阿姫の書いた「浄土三部経(紺紙金泥阿弥陀経)」は現在、茨城県常総市指定文化財となっている。

千姫は祖父・家康や父・秀忠からたいへん可愛がられたという。また、弟家光とも姉弟仲は良好だったらしい


千姫の生涯。

2011年02月07日 20時36分06秒 | 日記

しかし、芥川殿、ウィキペディアというのは素晴らしいものじゃのぉ。 御意。家康殿、これは、その性格からして全文を掲載しても良いかとは思うのじゃが、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%A7%AB その中から、抽出してみましょう。 うむ。 黒字は芥川

千姫(せんひめ、慶長2年4月11日(1597年5月26日) - 寛文6年2月6日(1666年3月11日))は、安土桃山時代から江戸時代の女性で、豊臣秀頼・本多忠刻の正室である。父は徳川秀忠、母は継室の江。号は天樹院。

慶長2年(1597年)5月26日、秀忠と江の長女として、山城国伏見城内の徳川屋敷で産まれる。
慶長8年(1603年)に7歳で秀頼と結婚し、乳母の刑部卿局とともに大坂城に入る。秀頼とは従兄妹にあたるが、たいへん夫婦仲睦まじかったという。慶長20年(1615年)19歳の時、大坂夏の陣では、祖父である徳川家康の命により落城する大坂城から救出される。その後、秀頼と側室の間の娘奈阿姫(天秀尼)が処刑されそうになった時に千姫は彼女を自らの養女にして命を助ける。
元和2年(1616年)、桑名藩主本多忠政の嫡男・本多忠刻と結婚。この時、津和野藩主坂崎直盛が輿入れの行列を襲って千姫を強奪する計画を立てていることが発覚し、直盛は自害(もしくは家臣により殺害)、坂崎氏は改易処分となった(千姫事件)。一説には大坂城落城の際、千姫を救出した者と千姫を結婚させるとの家康の言葉を受けた直盛が、顔に火傷を負いながらも千姫を救出したが、直盛の器量が悪いことから千姫が結婚を嫌がり、結局美男の本多忠刻と結婚することになったという。直盛の襲撃計画はこのことを恨んでのものとされ、長く信じられていたが、現在ではそもそも大坂城で直盛が千姫を救出した話自体が疑わしいとされている。…中略。

同年9月26日に桑名城に着いた。この時に10万石の化粧料を与えられたといわれる。翌年の元和3年(1617年)、本多家が播磨姫路に移封になった時には8月28日に桑名を発って姫路城に移って播磨姫君と呼ばれるようになる。夫・忠刻とも夫婦仲睦まじく、翌元和4年(1618年)には長女・勝姫、元和5年(1619年)には長男・幸千代が生まれるが、元和7年(1621年)に幸千代が3歳で没したのを始め、その後は流産を繰り返すなど子宝に恵まれず(これは秀頼の祟りだと言われた)、寛永3年(1626年)には夫・忠刻、姑・熊姫、実母・江が次々と没するなど不幸が続き、本多家を娘・勝姫と共に出て江戸城に入り、出家して天樹院と号す。出家後は娘と二人で竹橋の邸で暮らす。寛永5年(1628年)に勝姫は池田光政の元へ嫁ぎ、一人暮らしとなる。池田家に嫁いだ一人娘のことを心配し、「天樹院書状」を送っている。


秀頼の妻であったことは覚えておったのじゃな、それで一緒に非業の死を遂げたものだとばかり…。

2011年02月07日 20時25分56秒 | 日記

秀頼殿の件を除けば、殆どは幸せと言って良い人生だったのではござらぬか。 うむ。 秀吉殿と結婚した時のねね殿も年齢13歳にも(そういう時代だったとは知ってはいても)驚いたが、千姫が秀頼殿と結婚したのが7歳!の時。これには驚きましたぞ。家康殿。 うむ。


時に芥川殿、知恩院に行ったのは何時じゃったかのぉ。…千姫のこと。

2011年02月07日 18時52分16秒 | 日記

12月26日じゃった。 うむ。 なるほどのぉ。 わしとお主の間には、やっぱり深い縁があったのじゃのぉ。その時は、知恩院が、我が一族が三河時代から帰依しておった寺だとは全く知らなんだわけじゃしのぉ。 御意。 家康殿、ここでわしが先ず感じた事は京都きってのアスレチック寺院じゃ、と。 うむ。 道順に沿って行った訳じゃが最後の戸を開けた場所が、お墓そのものでのぉ、何故、ここに千姫の墓があるのかも、しかとは知らず、そう言えば千姫は非業の死を遂げたのじゃったかな、等と思っていたぐらいでのぉ。 ありゃ、まぁ。 そもそも、わしはそういうことにはあんまり興味がなかったのじゃ。 うむ。 ところがじゃ、あの日に限って、何故か、その正に墓場に…だから大半の観光客も、流石に、ここでは殆ど見かけなかったのじゃが…足を向けたのじゃ。 うむ。

思えばあれが何かの始まりじゃったのだが、お決まり事のように、仕方なくという感じで、千姫の墓に向かった時に、この冬、わしの恋人になっていた万両というか、南天と言うか、を大きな墓の四隅に一杯飾っていた、佐々木氏の墓が目に留まったのじゃ。うむ。 おおっ、芥川と同じように、生前、こよなく万両を愛した人じゃったのじゃな、と。 そして形ばかり千姫の墓の前に立ったのじゃ。 うむ。

そやから、ついさっきまで知らなんだのじゃよ、千姫の事は。あの日の延長で非業の死を遂げたとばかり思っておってのぉ、おまけに、わしはお主の娘で、結果的に、お主が死なせた人だと思っておったのじゃよ。 ありゃまぁ。これはまた。お主と言う人は、ほんに、呆れた人じゃのぉ。

それでじゃ、さっきの地下鉄の中で、今度、知恩院に行った時に、突然、号泣したりすることはないじゃろうな、という家康殿の心配に対して、なに、例え、そうなったとしても、あそこはとんでもない処に在るから、人目にもつかぬから、それはそれで。 と、わしが言ったら、そんな処だとは千姫が不憫じゃなどと言って、お主の方が泣き出すものだから、わしはなだめたじゃろう。 うむ。

お主に、ここで泣かれるようでは、わしは自信がないぞ、人目もはばからず号泣してしまうかもしれん。 もし、その姿を、以前に書いた商社マンである、親友二人に見られたら、ありゃ、「きじるしきーちゃん」が、ほんまにきじるしになってしまったか、とはやしたてられるかな、等といったじゃろう。 うむ。

それでじゃ、帰宅してすぐにウィキペディアで千姫と叩いて見たのじゃが、なんとまぁ!   およよ。


もうひとつあるぞ、芥川殿。 知恩院が…。

2011年02月07日 17時45分23秒 | 日記

知恩院の写真もアップしておらぬのぉ。 およよ、家康殿は気がついてごじゃったか。 うむ。実は、この時にも全く思いもしていなかった事が起きたのじゃよ。醍醐寺の事とは全く別なことなのじゃが、これも、ここには書けん性質のものなのじゃ。 うむ。

しかしじゃ家康殿、知恩院については、別な意味で、完成したいと思っているのじゃよ。 うむ。 そこで近々に再訪しようと思っておるのじゃ。 その時は、…確か家康殿は用事があって来られぬじゃろぉ。 うむ。 その時に、ここにアップできる形で写真も撮って来ようと思っているのじゃ。うむ。 それまで待っていて下され。 御意。


芥川と家康殿の会話。

2011年02月07日 16時55分42秒 | 日記

時に芥川殿、1月29日、30日と連日で訪れた醍醐寺の写真はいまだにアップしていない様じゃが、どうしてじゃ? うむ。 実はのぉ、家康殿、あの日、わしにはとても重要な事が起きてのぉ。 うむ。知っておるぞ。わしはインビジブル・マンとしてお主の側におったからのぉ。

あの日の事は、あまりにも芥川の魂に関わることで、このブログでは書けんのじゃよ。 うむむ。わしは芥川殿の魂は読んでくれている日本中の人に伝わっておると思うがのぉ。

いや、それはわしの魂の10分の1なのじゃよ。 およよ。これで10分の1とは! 実はそうなのじゃ。それでなければ21世紀の空海も名乗らず、信長殿、秀吉殿、貴殿たちと一生の契りを交わし、ピアニストの家に生まれていたならば、日本のボブ・ディラン、ジョン・レノンになって、日本の音楽シーンを世界の最先端としていたなどと、若い時から周囲の人たちに言う事は有り得んのじゃから。

そこでじゃ、もう、本として何の遠慮もなく書きたいのじゃよ。 うむ、それは分かる。わしもお主が何の躊躇いも遠慮もなしに、芥川殿のものでしかない言葉が炸裂した文章を読んでみたいと思うぞ。 それにはどうしたら良いのじゃ。 それがじゃ家康殿、わしが、所謂、先生と呼ばれる身分じゃったら、或いはテレビ等で顔を売った有名人じゃったら、訳もなく、向こうから、大出版社を始めとして、オファーが舞い込むじゃろうが…。 うむ。

去年、登場して程なく、或る1社、大出版社ではないが、気骨の有る経営者だったのじゃが、京大の女学生と言うのに、わしが長い事考えていたペンネーム…わしは自分の名前は本当は気に行っていたのじゃが、何故なら、わしのgiven nameは、イタリア語では、その響きは、何処へ?…あなたはこれから何処へ行くんですか、と言う意味になるのじゃ。 うむ。

その愛していた響きを捨てた理由も此処では書きたくないんじゃよ。 うむ。

長年、考えていたのじゃが、或る日、芥川龍之介と宮沢賢治が合体して、芥川賢治だ!と、突然、閃いたのじゃったが、それがウン臭いとツィッターに呟かれてのぉ。 それを見た、この経営者は心配に成ったのじゃと。 うむ。 リスクを取ろうとした訳じゃからのぉ。それで、共同出版と言う形にしてくれんかと。 うむ。 まぁ、無名の人間としては致し方ないかと思ったのじゃが、最初の5,000部を出すのに約500万円かかるのじゃと。 うむ。 20年前のわしなら何の問題もなかったのじゃが、長い事、苦労をしたから、本当の余裕は、まだないのじゃよ。 うむ。 ちょっと痛いのじゃな。 それもあって、ふんぎりが着いておらんのじゃ。 

じゃが、芥川殿、お主の一番の気持ちは、お主の言葉、お主の文章、お主の思索に対する絶対的な確信が、所謂、自費出版の様な形を取ることを嫌がるのじゃろう。 うむ。正に21世紀の空海なればこそじゃろう。 御意。 ならば芥川殿、ここに貴殿のアドレスを、もう一度書いておいたらどうじゃ。 うむ。 篤意の人が読んでくれるかも知らんがゃ。 うむ。それでは、そうしようか。 そうせい。 うむ。 sunsetrubdown21_2010あっとまーくmail.goo.ne.jpじゃったろう。 うむ。 書いておけ。書かぬよりましじゃろう。


しかしじゃ家康殿…。

2011年02月07日 14時45分35秒 | 日記

お主には分からぬかも知れぬが・・・およよ、何を仰る芥川殿、わしは猿楽の名手とも歌われていたのじゃぞ、それにじゃ、わしらの時代には仏教、禅にたいする理解、認識のみならず、芸術に於いても深い造詣を持つことが天下人としての必須の能力、資質じゃったのじゃ。今の時代の己の権力欲、出世欲だけの雑兵たちとは天と地ほど違うのじゃよ。・・・御意。 大いに失礼つかまつった。許して下され。

それで芥川殿は何が言いたかったのじゃ。 うむ。 この、「渡り鳥」、という歌を聴くとじゃよ。 うむ。 わしは慟哭しそうになるのじゃよ。 御意。 お主がそれほど感応するとは、余程の深さを持った歌手なのじゃろうな。 御意。


今朝目を覚ましてから、ずーっと脳裏に流れていたのは…。

2011年02月07日 14時14分12秒 | 日記

彼女の作詞作曲である曲…昨夜のライブでも歌った…「渡り鳥」…或る処から繰り返される彼女ならではの素晴らしく深い音調に続いて、彼女の真骨頂でもある力強く低い声で響き渡る…♪ 消えて ♪  

今朝、僕は忘れていた事を思い出した…稀代の歌い手でもある芥川が(笑)…大体の曲は一度聴いたら分かる=歌えるのだが…オーティス・レディングの曲だけは、どうしても=ピアノ無し、或いは本人と一緒でなければ=本人と一緒なら芥川は驚くべき響きの塊と成るという意味(笑)=絶対に歌えない。

彼女も全く同様のところが在る…つまり、彼女はオーティス・レディング級の、稀代のソウル歌手である、と芥川は定義する。

 


歌手について…。

2011年02月07日 13時56分39秒 | 日記

歌うということは、ピアノを奏でる、バイオリンを弾く等と同様に…「音楽は響き」の中にあるもの…だから、優れた作曲家たちの作った曲を歌うオペラ歌手は声の響きが良いだけでも名歌手となれる。…が、超一流となるのは、マリア・カラスがそうだったように、オペラ歌手としては当然な響きだけではなしに、歌の中に魂が在るかどうかに依るのだと芥川は思う。

今、世界をリードしているカナダ、米国、英国のバンド達には21世紀の響きが在るのだと芥川は以前に書いた。

昨日、僕が聴いた歌手は、端倪すべからざる精神と眼差しを持った歌手で、その歌声に込められた魂の深さを僕は戦後日本の最高と考えている。…奇しくも彼女も田舎育ちで、一時、大レーベルに所属し東京に住んではいたが今は故郷で思索を深め響きを深めている。

僕は彼女の武運長久を(笑)醍醐寺の弁財天に代わって祈る。


テレビの、テレビによる、テレビのための政治の終焉。

2011年02月07日 12時56分44秒 | 日記

今回の名古屋での圧勝とは、言わば、人民の、人民による、人民のための政治が、やっと始まったことを告げたのだと芥川は思う。

これまでの、マスコミ、特にテレビ(以下、「テレビ」という)が為して来た政治…テレビの、テレビによる、テレビのための政治…その特徴は、テレビ映りが良い、センテンスが短い、等の、テレビ受けする者たちを選んできた政治と言えばいいだろう…とは、全く正反対に、テレビ映りは良くない、センテンスは短くない両名が圧勝したことが、そのことを象徴している。


彼らは21世紀人間であることが、その存在基盤であり、存在理由なのであって

2011年02月07日 12時55分14秒 | 日記

ただし、これは科学や医学の最前線でPCを駆使して目覚ましい事の数々を成し遂げている人たちとは無縁の話である事は論をまたない。

何故か? 彼らは21世紀人間であることが、その存在基盤であり、存在理由なのであって、王政復古等という為さんでも良かった事を為した愚か者の系譜の中で、今なお、時の政権者の奥方を称賛したりするような道鏡まがいの様な事とは全く無縁の世界それこそ釈尊が広大無辺な宇宙の哲理を開いた厳しい無私無欲の修業、座禅に依って、その悟りを開いたように、日夜、ただ解明のために、寸暇も惜しんで四六時中、ただ、その事だけを考える、その様な者たちに与えられたPCは、21世紀に於ける座禅であり密教に於ける厳しい修業そのものであるからだ。