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報道の責任を明確にしない新聞は、再び同じ過ちを繰り返す

2025年02月25日 11時38分51秒 | 全般
朝日新聞に慰安婦記事を書きまくった清田治史教授が退職
2014-09-23
「朝日新聞に慰安婦記事を書きまくった清田治史教授が退職 - ほそかわ・かずひこの BLOGから。」
 朝日新聞に吉田清治証言を最初に書いたのは、植村隆元記者(現北星学園大学非常勤講師)ではなく、清田治史(きよた・はるひと)元記者だったことが明らかになっている。
8月5日付けの朝日新聞の慰安婦誤報検証記事の中では「大阪社会部の記者(66)」として匿名にされていたのが、この清田氏である。
清田氏は、昭和57年以後、吉田証言について何度も書き続けた。
平成4年1月宮沢首相訪韓の直前には、「慰安所への軍関与示す資料」という1面トップ記事で、「朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した」と解説した。平成9年3月には、「従軍慰安婦 消せない事実」という特集記事で、吉田証言を「真偽は確認できない」としつつ、訂正はしなかった。
清田氏は、この間、大阪社会部記者から東京本社外報部記者、マニラ支局長、外報部次長、ソウル支局長、外報部長、東京本社編集局次長、総合研究本部長、事業本部長を経て、最後は取締役(西部本社代表)にまで上り詰めた。
 
朝日新聞社を退社した後、最近は清田氏は帝塚山学院大学人間科学部の教授を務めていた。
中国・韓国との関係の深い国際理解研究所の所長も兼任していた。
9月11日朝日新聞社の木村伊量社長が記者会見で、吉田証言の記事について謝罪した。
その2日後、清田氏は13日付で同大学を本人の申し出で退職した。
あわせて同大学の国際理解研究所所長を辞任した。
朝日新聞の木村社長は、11日の記者会見で次のように言っていた。
「慰安婦の問題は長い時間が経過した過去の事案について、関係者の責任をどう問うのか、かなり難しい側面があるという風に私は認識しています。会社を退職した方もいるし、亡くなっている方もいるし、私個人としては誰かの具体的責任を取ってさかのぼって処罰するのは難しい問題と考えているが、これも含めて新たに設置をお願いしている第三者委員会の結果を踏まえて総合的に判断していこうと思っています」
このように答えた木村氏は、当然清田氏について知っていたはずである。
第三者委員会に検証を委ねるとのことだが、都合の良い人選をして適当にごまかす可能性が高い。
国会は、木村社長、清田元取締役、植村元記者を国会に参考人招致し、国民に対して事実を責任を明らかにすべきである。
 
「週刊文春」は、9月11日の木村社長会見の前に、清田氏への直撃取材を行っていた。週刊文春Webは、9月8日付で下記の記事を掲示した。

●週刊文春Web
http://shukan.bunshun.jp/articles/-/4339
「吉田証言」を最初に報じた朝日新聞元記者を直撃!
2014.09.08、週刊文春web
朝日新聞が8月5日の慰安婦検証記事でようやく虚偽だったと認めた、吉田清治氏(故人)の証言。自分が慰安婦を強制連行したと話してきた吉田氏について、朝日新聞は1982年以降、少なくとも16回記事で取り上げている。
32年前に最初の記事を報じたのが、現在、帝塚山学院大学で教授を務める清田治史氏だ。
1982年当時、大阪社会部記者だった清田氏は吉田氏の講演内容を記事にし、次のように報じている。
〈(昭和)十八年の初夏の一週間に(韓国の)済州島で二百人の若い朝鮮人女性を「狩り出した」〉
清田氏はその後、ソウル支局長や外報部長などを歴任し、2008年には取締役に就任している。
今回の検証記事作成の過程で、朝日新聞の取材チームは清田氏からも話を聞いているが、検証記事では清田氏について、こう触れたのみだった。
〈執筆した大阪社会部の記者(66)は「講演での話の内容は具体的かつ詳細で全く疑わなかった」と話す〉

週刊文春は清田氏を直撃し、話を聞いた。
「今回の検証記事は読みましたよ。思いはありますけど、会社の結論ですから異存はないというか。(82年の自分の記事について)削除とか一部誤報という結論を出しているわけですから、結果はそうだと受け止めているだけです」
自身の誤報について、清田氏から最後まで反省の言葉は聞かれなかった。

この文春の記事の後、11日に木村社長の記者会見が行われた。
その2日後の13日に、清田氏は帝塚山学院大学教授及び国際理解研究所所長を退職したという展開である。
清田氏について、かつて朝日新聞社でその部下だったという元同紙論説委員・長岡昇氏は、清次のように書いている。
●情報屋台
2014年09月06日
慰安婦報道、一番の責任者は誰か
http://www.johoyatai.com/?m=pc&a=page_fh_diary&target_c_diary_id=1136
古巣の朝日新聞の慰安婦報道については「もう書くまい」と思っていました。虚報と誤報の数のすさまじさ、お粗末さにげんなりしてしまうからです。
書くことで、今も取材の一線で頑張っている後輩の記者たちの力になれるのなら書く意味もありますが、それもないだろうと考えていました。
ただ、それにしても、過ちを認めるのになぜ32年もかかってしまったのかという疑問は残りました。
なぜお詫びをしないのかも不思議でした。
そして、それを調べていくうちに、一連の報道で一番責任を負うべき人間が責任逃れに終始し、今も逃げようとしていることを知りました。
それが自分の身近にいた人間だと知った時の激しい脱力感――外報部時代の直属の上司で、その後、朝日新聞の取締役(西部本社代表)になった清田治史氏だったのです。
一連の慰安婦報道で、もっともひどいのは「私が朝鮮半島から慰安婦を強制連行した」という吉田清治(せいじ)の証言を扱った記事です。
1982年9月2日の大阪本社発行の朝日新聞朝刊社会面に最初の記事が掲載されました。
大阪市内で講演する彼の写真とともに「済州島で200人の朝鮮人女性を狩り出した」「当時、朝鮮民族に対する罪の意識を持っていなかった」といった講演内容が紹介されています。
この記事の筆者は、今回8月5日の朝日新聞の検証記事では「大阪社会部の記者(66)」とされています。
その後も、大阪発行の朝日新聞には慰安婦の強制連行を語る吉田清治についての記事がたびたび掲載され、翌年(1983年)11月10日には、ついに全国の朝日新聞3面「ひと」欄に「でもね、美談なんかではないんです」という言葉とともに吉田が登場したのです。
「ひと」欄は署名記事で、その筆者が清田治史記者でした。
朝日の関係者に聞くと、なんのことはない、上記の第一報を書いた「大阪社会部の記者(66)」もまた清田記者だったと言うのです。
だとしたら、彼こそ、いわゆる従軍慰安婦報道の口火を切り、その後の報道のレールを敷いた一番の責任者と言うべきでしょう。
この頃の記事そのものに、すでに多くの疑問を抱かせる内容が含まれています。
勤労動員だった女子挺身隊と慰安婦との混同、軍人でもないのに軍法会議にかけられたという不合理、経歴のあやしさなどなど。
講演を聞いてすぐに書いた第一報の段階ではともかく、1年後に「ひと」欄を書くまでには、裏付け取材をする時間は十分にあったはずです。
が、朝日新聞の虚報がお墨付きを与えた形になり、吉田清治はその後、講演行脚と著書の販売に精を出しました。
そして、清田記者の愛弟子とも言うべき植村隆記者による「元慰安婦の強制連行証言」報道(1991年8月11日)へとつながっていったのです。
この頃には歴史的な掘り起こしもまだ十分に進んでおらず、自力で裏付け取材をするのが難しい面もあったのかもしれません。
けれども、韓国紙には「吉田証言を裏付ける人は見つからない」という記事が出ていました。
現代史の研究者、秦郁彦・日大教授も済州島に検証に赴き、吉田証言に疑問を呈していました。
証言を疑い、その裏付けを試みるきっかけは与えられていたのです。
きちんと取材すれば、「吉田清治はでたらめな話を並べたてるペテン師だ」と見抜くのは、それほど難しい仕事ではなかったはずです。
なのに、なぜそれが行われなかったのか。
清田記者は「大阪社会部のエース」として遇され、その後、東京本社の外報部記者、マニラ支局長、外報部次長、ソウル支局長、外報部長、東京本社編集局次長と順調に出世の階段を上っていきました。
1997年、慰安婦報道への批判の高まりを受けて、朝日新聞が1回目の検証に乗り出したその時、彼は外報部長として「過ちを率直に認めて謝罪する道」を自ら閉ざした、と今にして思うのです。
悲しいことに、社内事情に疎い私は、外報部次長として彼の下で働きながらこうしたことに全く気付きませんでした。
当時、社内には「従軍慰安婦問題は大阪社会部と外報部の朝鮮半島担当の問題」と、距離を置くような雰囲気がありました。
そうしたことも、この時に十分な検証ができなかった理由の一つかもしれません。
彼を高く評価し、引き立ててきた幹部たちが彼を守るために動いたこともあったでしょう。
東京本社編集局次長の後、彼は総合研究本部長、事業本部長と地歩を固め、ついには西部本社代表(取締役)にまで上り詰めました。
慰安婦をめぐる虚報・誤報の一番の責任者が取締役会に名を連ねるグロテスクさ。
歴代の朝日新聞社長、重役たちの責任もまた重いと言わなければなりません。こうした経緯を知りつつ、今回、慰安婦報道の検証に踏み切った木村伊量社長の決断は、その意味では評価されてしかるべきです。

清田氏は2010年に朝日新聞を去り、九州朝日放送の監査役を経て、現在は大阪の帝塚山(てづかやま)学院大学で人間科学部の教授をしています。
専門は「ジャーナリズム論」と「文章表現」です。
振り返って、一連の慰安婦報道をどう総括しているのか。
朝日新聞の苦境をどう受けとめているのか。
肉声を聞こうと電話しましたが、不在でした。
「戦争責任を明確にしない民族は、再び同じ過ちを繰り返すのではないでしょうか」。
彼は、吉田清治の言葉をそのまま引用して「ひと」欄の記事の結びとしました。
ペテン師の言葉とはいえ、重い言葉です。
そして、それは「報道の責任を明確にしない新聞は、再び同じ過ちを繰り返す」という言葉となって返ってくるのです。
今からでも遅くはない。
過ちは過ちとして率直に認め、自らの責任を果たすべきではないか。





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