にをいがけからはじめよう

おみちに引き寄せられて25年。
落ちこぼれようぼくだけど精いっぱいのにちにち。

駅前布教ふじみ野駅

2015年06月30日 18時38分47秒 | 東上線駅布教

6月最終日の今日、
東武東上線の駅前布教に行ってきました。
今日は、午後からのにをいがけになった。



いやーーーー、歩いたーーー。

 

たしか東口に降りて、戸別しながら歩いていたのに
帰りは反対の西口に戻ってきたんだもんなー。
ふじみ野駅の周りはすごーーく広いんだよ。


ありえないっつうの。

考えたら、どっと疲れる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 


急げ、信仰の確立

2015年06月30日 06時39分24秒 | にをいがけ・おたすけ

一週間ほど前に戸別訪問で出会いがあったの。
他宗教の方だけどある事情から『もう信仰をやめました』
というご婦人さんでした。

お道風でいうとこんな風です。
悩みもなかったけど、
近所の方に誘われて某宗教を信仰をするようになった。
その手引き親が大きな事情から出直した。
命まで持って行ってしまわなくてもいいのに、と
なんで?と、一生懸命に信仰をしてても
こんなになってしまうなら、こんなのいらない、と
自分のなかで何かが崩れた。
某宗教の上の方も引き止めなかった。
20年も前のことだという。
信仰をしてなくても何も悪いことは起きていないわ、と
おっしゃってました。人が出直すって大きいよね。

この方の話を聞いた私にも、
聞かなきゃならないものがあったのでしょうか。


お付き合いから始まった信仰は、自分のものになっていないまま、
年限が経ち確立していないうちに事情を見せられて、
そのことに対して丹精もされていない。

意外と宗教の世相では、ありがちなことなのかもしれません。
今もご婦人の胸の中には
今でも、『どうして?』という思いがたくさんある。
ありがちだけど、あっちゃいけないことだ。
何のための”にちにち”なんでしょうかね。

 

ついこの間、理の親が言っておられた信仰の確立って
こういうことをいうのだなって思わせていただいた。
何があっても変わらない、揺るがない、ぶれない信仰心を
つくりたいものだと思う。
なんかすごく重いものがずしりと胸の奥に置かれた。
ありがとうございました。