にをいがけからはじめよう

おみちに引き寄せられて25年。
落ちこぼれようぼくだけど精いっぱいのにちにち。

私がこの家で初めての人だった。

2022年12月12日 17時44分54秒 | 祭典日
昨日は上級の納めの祭典日。
参拝に行かせていただいた。祭儀式が始まる前から
拝殿に入れるのはいつぶりでしょうか。
今月は所属教会への神饌ものが大根ではないので
早めにお供えできたから、晴れ晴れとした気持ちで

早い時間に行かせていただけた。


会長様の御挨拶で最後のほうにとても印象的な
お話しを聞かせていただけた。”お道の日記”を急いで
開いて書き留めた。忘れてなるものか!!
今の私の心に響きました。


「石は、けられてけずられていつか丸くなって
人間に拾ってもらえる石になります」
会長様は袂から丸くて白くてかわいい石を出してみせて下さった。
日常的なことをお道のお話にのせて下さるので
とてもぐっときました。

また、「生きていれば色んなことがある。
そこに神様の思召しがあるとすれば必ず受け入れられるはず」
生きていれば色んなことがある。
私は耳の身上でいまだに苦しいときがある。
傷つくときがある。けど傷ついてなんかいないと思えば
平気になってくる。それが普通のことだから。





29年ほど前の一番最初の修養科のとき、
教養掛の先生が私に言って下さった言葉があった。

『あんたは素直だから耳のご守護をいただけるね。』

この言葉をそのまま受け止めて、3ヶ月通ってみたけど
聞こえるようにはならなかった。その修養科のときは
補聴器を持っていない頃だったので、聞こえないことが
多かったはず。けど、いまよりも難聴度が低かった気がする。
聞こえにくくって困ってはいたけど、今と比べたら聞こえていたはず。

授業はよく聞こえていなかった。
(つなぎのないまま)なんとか3ヶ月を伏せこませていただいていた。


教養掛の先生はどういう意味で言って下さったのだろう。
そのことを教会の拝殿で理をいただいた記憶もなく、
そのままになっていた。

教養係りの先生は、聞こえにくいのが解消されると
言った訳ではなくって、その言葉の意味をこれから始まる
お道の信仰のなかに自分でみつけてくれたら、とか
想って下さっていたのでしょうか。
年限と共にそういうことを考えました。





明日もあさっても平気なふりして、よく分からなくても、
神様の御用をさせていただき生きていく。(家の中でも主人の前でも)
聞こえる声を拾って受け入れて理解する努力をして生きていく。

聞こえるとか聞こえないとかそこに視点を置かないように
教友の中で立ち振る舞う毎日。




にをいがけのときは、耳がどうのこうのって
あまり気にしないでいられます。聞こにくくて残念に
思うことはしょっちゅうだけど、苦しんだりしない。
悩むことはあるけど、仕方がないと諦めちゃう癖がついた。
切り替えが早いってやつです。
外にいるときのほうがラクに通れます。



今日は初めての家の方と語らいました。
私よりは上のご婦人。70代はじめの人懐こそうなおばさま。
お断りされたあとの会話。
「天理教の人は回ってきますか?」
『天理教?この辺は来ないんじゃない?』
「良かったーー」
『良かった?!』
「はい。天理教来ないんじゃ私が初めてってことですよね。
珍しいんですよね!天理教。」
『そうね。』
この家にとって私は初めての天理教の人間ってことでわくわくしてきた。
「陽気ぐらしなんです。」
『え?!』

「生きていたらいやなこともあるけど、どんな中も喜ぶ心で
切り替えて切り替えて通りましょう。」

こんな雑な説明では分かりにくいだろうな。でも勢いです。
聞いてくれていた奥さんはそろそろ早く
話を終わらせてほしいだろう。なので、
「陽気ぐらし、覚えてといてくださいね」と仕切った。
うんうんと受け入れてくれっぽかった。お互い何度も

頭を下げ、お礼をいいながら、家を後にした。

今日は気持ちのいい天気で冷気が耳元をすり抜ける。
気持ちが良かった。声もとてもよく通っていたし
話がラクにできました。ありがとうございました。
時間で仕切ったので大して出来ていない。昔この道、

この家に来たことあるな、と思う場所を今日出来た。
ありがとうございました。