人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る ーー源実朝と鴨長明ーー

2021-05-09 14:55:30 | 日記

今日、いつものように広町緑地を散歩していたらカルガモの夫婦に出会いました。折角なので鴨を題材にした鎌倉らしいブログを書きたいと思いついたのが源実朝と鴨長明の出会い。鴨長明は誰でも知っている『方丈記』の作者。あの「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。・・・。」の文章は暗記させられました。そして鎌倉の歴史を勉強した人なら『吾妻鏡』建暦元年(1211)十月十三日の条を覚えているはずです。

鴨社の氏人菊太夫長明入道雅経(飛鳥井)朝臣の挙によって、この間下向す。将軍家(実朝)に謁したてまつること度々に及ぶと云々。しかうして今日幕下将軍(頼朝)の御忌日に当る。かの法華堂に参りて念誦読経の間、懐旧の涙しきりに相催し、一首の和歌を堂の柱に註す。「草も木も靡きし秋の霜消えて空しき苔を拂う山風」

そこでこの源実朝と鴨長明の出会いの顛末が気になるところですが、太宰治が『右大臣実朝』(新潮文庫『惜別』に収録)で描く鴨長明の評価はあまり芳しくありません。

わざわざ故右大将さまの御堂にお参りして涙を流され和歌などおしるしになって、・・当将軍家への、あてつけのようで、・・あまり快いことではございませんでした。あのひねくれ切ったようなご老人から見ると、当将軍家のお心があまりにお若く無邪気すぎるように思われ、・・・。それから二、三カ月経つか経たぬかのうちに「方丈記」とかいう天下の名文をお書きになったそうで、・・・。まことに油断のならぬ世捨人で、あのように浅間しく、いやしげな風態をしていながら、どこにそれ程の力がひそんでいたのでございましょうか、・・・。

そこまで書くかと言った文章です。さてこの鴨長明が鎌倉に下向した時期ですが、五味文彦先生の『源実朝』を見ますと、良く調べてみれば建暦二年(1212)十月ではないかと推測しています。鴨長明が『方丈記』を書き上げたのは建暦二年三月。『方丈記』を書き上げてから鎌倉に下ったとしています。実朝の和歌にも鴨長明に倣った歌がありますので、実際は実朝自身、鴨長明をリスペクトし、その影響を受けたと思われます。もしそれが事実だとすれば太宰治の評価は全く違っていたかもしれません。

もともと『吾妻鏡』は年号の間違いが多いのですが、太宰の文章を鵜呑みにして鴨長明像を作り上げた人が多いとすれば、鴨長明にとってはとんだ濡れ衣でしょうね。すこし気の毒な気がします。

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