人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る ーー 極楽寺 ーー

2016-06-18 19:14:24 | 日記

鎌倉では東の六浦、南の小坪、西の稲村ケ崎、北の山ノ内が四境とされ、市街地の境界になっていました。今の極楽寺があるところは、鎌倉時代初期には地獄谷と呼ばれ、社会でも恵まれない人々が暮らすような所だったようです。鎌倉幕府の実権を握った北条氏にとってもこうした場所の整備が喫緊の課題だったのでしょう。

この極楽寺は寺の縁起をみますと、もとは深沢の地にあった極楽寺を北条重時が忍性と相談して1259年にこの場所に移したとされます。北条重時(1198~1261)は北条義時の子で北条泰時の弟。33歳のとき六波羅探題として上洛。三浦氏が滅亡した宝治合戦(1247)を機に北条時頼を補佐するために鎌倉に下向しました。重時と忍性の関係については、重時が京都にいた時に真言律宗の叡尊(奈良 西大寺)の菩薩行に関心を持ったと思われます。叡尊は仏教を盛んにし、民衆を救済する「興法利生」という教えで、重い病気になった人々の救済などに力を尽くした人です。承久の乱後の京都の荒廃した様子を直接見てきた重時にとって、真言律宗の力により鎌倉の貧しい人々を救済する必要がありました。

重時は1261年に亡くなりますが、その意思は子供である六代執権長時と業時兄弟に引き継がれます。文永四(1267)年に極楽寺の開山に忍性を迎え、大寺院として整備されていきます。多くの堂塔のほか、福祉関係の施設としては施薬院、非田院、薬湯堂、病棟などがあり、馬病屋というのも「極楽寺境内絵図」には描かれています。そして鎌倉幕府は和賀江嶋や六浦津の港湾管理の権利を極楽寺に与え、関銭や関米を徴収し、これら福祉事業の費用に充てたようです。今はもうありませんが、霊鷲山にあった仏法寺、和賀江嶋の万(満)福寺、六浦津の浄願寺は何れも極楽寺の末寺で港が見下ろせる山上にあり、入港してきた船を見張っていたと思われます。また波で崩れやすい和賀江嶋の維持などの公共事業にも極楽寺に保護されていた人たちが駆り出されたのでしょう。

今でこそ静かな佇まいお寺ですが、極楽寺のことを勉強していくにつれ、鎌倉幕府の中心にいた北条氏の「天下を保つ」ための施策が柔軟で実利的なのに感心しました。「経世済民(けいせいさいみん)」という語がありますが、それを実践する政治を目指していたようです。

 

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