人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る ーー 聖福寺跡 ーー

2016-06-19 10:43:30 | 日記

鎌倉市稲村ガ崎5丁目に正福寺公園があり、その公園の東側入口に「聖福寺跡」の鎌倉青年団が建てた石碑があります。その碑文には、「聖福寺は建長六年四月関東の長久並びに北条時頼の息 時輔(幼名 聖寿丸) 時宗(幼名 福寿丸)の息災延命の為建立せんものにして其の寺号は両息の名字に因みしものと伝わるるも、廃寺の年代詳ならず」と書かれています。通りがかりにいつも思うのですが、なんでこんな場所にお寺があったのか不思議でなりませんでした。また別の資料をみますと、1333年の新田義貞の鎌倉攻めで聖福寺に陣を張ったとありますが、場所がここであったかは定かではありません。

もう一つの資料として『極楽寺境内絵図』を手元においてみていますが、この絵図のなかに今でも名前が一致する場所がいくつかあり、それを手掛かりにしても「聖福寺」という寺院は見つかりませんでした。絵図の南にある「白山権現」、東にある「熊野新宮」は現存し、熊野新宮は今も極楽寺の鎮守となっています。西北の山中に「熊野那智神社」が描かれていますが、この神社も極楽寺から稲村ケ崎小学校を超え月影地蔵のお堂を左に折れ、稲村ケ崎5丁目に抜ける途中に熊野神社と書かれたお社がありますので、確かでしょう。さらに「山神宮」とありますが、このお社はたぶん鎌倉山の尾根伝い鎌倉山2丁目にある「鎌倉山神社」だと思います。『鎌倉の神社 小辞典』によると、もとは通称「山の神」と呼ばれていたとあります。こうして絵図上で位置を特定していきますと、「山神宮」の周辺、稲村ケ崎5丁目から七里ヶ浜、鎌倉山にかけてあるのは、「庄厳院」、「修?福院」、「興正寺」などですが、それが「聖(正)福寺」と関係あるのかは謎です。

この『極楽寺境内絵図』は江戸期に昔の資料などをもとに作成されたものらしいですが、最盛期の極楽寺は現在の極楽寺1丁目から極楽寺4丁目までの全域位の大きさがあったと思われます。

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