寿福寺と建仁寺を開山し、日本に臨済宗をもたらした栄西は彼の著作と言われている『興禅護国論』の「未来記」のなかで 「予が世を去るの後五十年、此宗最も興るべし。即ち栄西自ら記す」と語っています。 栄西が亡くなったのが1215年。それから50年後は1265年ということになります。蘭渓道隆により建長寺が開山したのが1253年ですから、栄西の予言通り臨済宗は幕府の保護により大いに盛んになりました。
では蘭渓道隆とはいかなる人物だったのでしょうか。このあたりのことは五味文彦監修の『武家の古都・鎌倉の文化財』に詳しく書かれています。南宋の禅僧である蘭渓道隆は1246年に商船に乗って博多に来着。博多の円覚寺に1年、京都の泉涌寺に1年いた後、鎌倉に下りました。当初は東国を遊山して中国に帰国する考えのようでしたが、実際は栄西が開山した寿福寺を目指したようです。蘭渓道隆が寿福寺に来たことによって、寿福寺は宋風の清新さが吹き込まれ、鎌倉にある他の寺院とは異なった存在となりました。
さてここでもう一人のキーマンである北条時頼が登場します。すでに述べたように、若くして執権となり、「天下を保つ」立場となった時頼は母松下禅尼の教えもあり、質素な暮らしでもって自らを律し、人に範を垂れることで政権を運営したと思われます。寿福寺における蘭渓道隆の評判を聞くにつれ、時頼は南宋禅の禅風に惹かれていきます。その後1248年に寿福寺から常楽寺に招請しています。常楽寺は北条泰時が、夫人の母の冥福を祈るために開創した「粟船御堂」が前身で、時頼にとっても特別な思いがこもった浄刹です。さらにこの段階で時頼の頭には大禅刹建立の考えがあり、その開山第一世に蘭渓道隆を登用する決意があったと思われます。そして1253年に建長寺が創建され、中国風の禅だけを修行する道場としての禅寺が誕生します。
栄西のまいた種が結実し、建長寺という禅道場ができ、さらにそれが無学祖元による円覚寺開山につながっていき、この宋との結びつきが元寇という難局を乗り切るうえで大きな意味を持ったと、私は推察しています。
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