鎌倉幕府の5代執権 北条時頼(1227-1263)は1246年に執権になり、1256年には執権職を長時に譲り出家しました。36歳で亡くなっていますが、引付衆をおいて裁判の迅速化を図る一方、宮騒動(1246年)で名越氏、宝治合戦(1247年)で三浦氏と千葉氏を滅ぼすなど、北条氏による支配を強めました。また朝廷に対する影響力も増し、1252年には藤原(摂家)将軍に変え後嵯峨上皇の皇子 宗尊親王を将軍職に迎え、1253年には蘭渓道隆の開山により建長寺を創建しています。
3代執権 北条泰時とともに鎌倉幕府の基盤強化を図った時頼ですが、彼に関するエピソードが幾つか『徒然草』に紹介されています。一つは、第百八十四段で時頼の母 松下禅尼について。破れた障子を自ら貼って修理したという話を伝え聞き、辛口評論家の兼好法師をして「世を治る道、倹約を本とす。女性なれども、聖人の心に通へり。天下を保つほどの人を子にして持たれける、まことに、ただ人にはあらざりけるとぞ。」 第二百十五段には平宣時朝臣(大仏宣時)の素焼きの小皿に少しついた味噌を舐めて喜んで酒を酌み交わしたという話。第二百十六段には足利左馬入道(足利義氏)とのエピソード。いずれも時頼の倹約を旨とする質実剛健さが語られています。
この時頼は祖父である3代執権 泰時を非常に慕い尊敬していました。出家してからは政治的な影響力を保持しつつも、蘭渓道隆のもたらした南宋の厳しい禅風に関心を抱き、泰時が創建した常楽寺に蘭渓道隆を招請しています。さらに時頼の子である8代執権 北条時宗が日本中世史上最大な国難「蒙古襲来」に対応することになる訳です。
最後に余談ですが、兼好法師は「世を治る道、倹約を本とする」 と語っています。どこかの知事のように自分のお金ならまだしも、公費を無駄に使うなんてことは以ての外。そんなことをしていては人の心は離れていきます。20歳そこそこで執権になった時頼は天下を保つ知恵を知っていたと思います。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます