木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

鮒味噌・いな饅頭

2008年09月21日 | 江戸の味
蟹江町、と言っても東海圏に住んでいない人には分かりにくい。
みや~ちさんのような存在の町である(分からない人は飛ばして下さい)。
名古屋市の西部に位置し、町全体がゼロメートル地帯で、土地の四分の一が河川であるという凄い町だ。
かつて、吉川英治がこの地を訪ねた際に、「東海の潮来である」と言ったらしい。潮来のイタロウがあるなら、蟹江はカニロウか。などと下らないことを考えてしまう。
ところで、この地には名古屋の人でも知らないような独自の郷土食がある。
そのうちの一つが「鮒味噌」である。
「鮒味噌」は、砂糖と酒を加えた豆味噌に砂糖と酒を加えて、煮込んだもので、見るからに甘そうな感じである。
これは冬季の食べ物で、冬には地元のスーパーでも売られている。確か、700円くらいだったと思うが、安すぎず、高すぎない価格だったと思う。
(私は蟹江の「ヤオキスーパー」にて購入。 愛知県海部郡蟹江町大字蟹江本町字クノ割1-2 電話0567-96-3333)

2013.1.15追記 本日、スーパーに確認すると、現在は置いているとのこと。価格は680円。冬の間だけなので、3月くらいには終わってしまうようだ。

食べてみると、それほど甘くなく、もちろん、鮒の生臭さもない。
たまに甘党の人が、饅頭を食べながら酒を飲むということを耳にするが、そういった甘党の人の酒のつまみにはうってつけではないだろうか。量を食べるものではないので、一匹買えば、何人かで取り分けられる。昔のスィーツと言ったものなのであろう。
個人的な感想は、際物といった食べ物ではなく、ごく普通の食べ物。特別においしいのではないが、何となく懐かしい味という感じだ。
郷土食でいうと、「いな饅頭」というものもある。
蟹江を車で走っていて「いな饅頭」の看板を見たときは、魚型をした饅頭だと思っていたのだが、蟹江の郷土資料館に行ってみて、驚いた。これは、れっきとした料理なのである。
「いな」は江戸っ子が好んで使った言葉「いなせ」の語源とも言われる出世魚ボラの幼名「鯔(いな)」である。
(いなせ=鯔背と言われている)
丁寧に内臓をとった鯔に、豆味噌を中心に、刻んだ椎茸、銀杏、柚子などと混ぜ合わせたものを詰めて、香ばしく焼き上げる。
この料理は、すでに一般的でなく、町内の一部の旅館等で食されるだけである。
蟹江は海水と河川の水が混じったいわゆる汽水であったが、伊勢湾台風以降に行った治水作業で、海水が入らなくなり、生態系が大きく変わってしまったと言う。


鮒味噌。時季になると、普通にスーパーで売られている。ちょっとした高級品といった感じ。

いな饅頭。スーパーなどではお目にかからず、予約販売。価格も1匹1500円以上し、かなり高級品の部類に類してしまっている。

*いな饅頭が食べられるのは蟹江では3店舗。詳しくは蟹江観光協会のHPへ

いな饅頭と鮒味噌については名古屋市のHPでも詳しく紹介されています 掲載HPは下記。

いな饅頭

鮒味噌

↓ よろしかったら、クリックお願いします。励みになります。


江戸前寿司

2008年09月17日 | 江戸の味
寿司というのは、どうしてこうも高くなってしまったのだろう。
一方で、回転寿司という格安の店も存在し、完全な二極化を招いている。
現代では、回転寿司=庶民、寿司=高級品のイメージが定着しているかのような寿司であるが、江戸時代は、寿司は庶民の食べ物であった。
江戸時代、寿司は三大ファストフードと言われた。
蕎麦、天麩羅、寿司である。
先日、半田にある博物館「酢の里」に行って驚いたことがある。
「酢の里」はミツカン酢が運営している博物館であるが、そこには、江戸時代の寿司を再現した模造品がある。
それを見ると、江戸時代の握り寿司は、とにかく、巨大である。
今で言うおにぎりくらいの大きさがある。もちろん、ネタの方も大きいのだが、今の寿司の大きさに見慣れた目には異様に映る。あなごなど、大きすぎてグロテスクにさえ見えてしまう。
もっとも、寿司が現在のような大きさになったのは、第二次大戦後らしく、戦前の寿司も、江戸時代ほどでなかったが、今の寿司の1.5倍はあった。
江戸寿司であるが、当初は山吹酢という色の濃い酢を使用しており、シャリも色付きであったと言う。


分かりにくいかも知れないが、右端においてあるのが500円玉。大きさを比較して頂きたい。

江戸時代、寿司はこのような屋台で売られていた。この屋台は立派であるが、もっと簡素な店も多く、一説には江戸には三千以上の寿司屋があったという。天麩羅や蕎麦も屋台が多かったが、それは火事の危惧から店舗としては、なかなか認可されなかったという事情がある。

酢の里HP

↓ よろしかったら、クリックお願い致します。


刺身

2007年08月01日 | 江戸の味
先日は土用の丑だった。ウナギを口にした人も多いのでは。
この時期、メゴチもおいしくなる。この魚、天ぷらにするのが一般的だが、「うま煮にする方がおいしい」と言う人がいる。
明治27年に生まれ、昭和39年に入滅した魚谷常吉と言う人である。
この人は、神戸で「西魚善」という料亭を営み、昭和10年代には14冊の著作を著している。
同時期の北大路魯山人が脚光を浴びているのに対し、忘れかけられた存在であるが、実力者の蘊蓄は深い。
最近は、居酒屋でも刺身を綺麗に盛りつけるところが多くなった。
細かく砕いた氷にすのこを敷いて、見た目も涼しい刺身は、日本人独特の美学さえ感じる。
中身がどうあれ、見た目だけでも十分食指を動かされる。
さて、料理通の魚谷常吉は、好きな刺身についても述べている。
マグロでうまい部位は中トロと呼ばれ、適度に脂肪を持っているところで、紋付連中はトロを賞味しているが、あれは脂肪の塊りとでもいうべき濃厚なもので、マグロとしての本味ではない。これらは春先になると非常に味が落ち、赤身にようやくマグロの本味が残るくらいである。マグロが不味になると、カジキとキハダがそれに変わる。(略)マグロの代用品にギカジキ、シロカジキ、ビンナガなどが用いられるが、いずれも価格は低いが、味に格段の相違があるので、一流の店では絶対に使われない。
その後も産地を入れて、好みの刺身を述べている。
鎌倉海老、琵琶湖のコイ・フナ、紀州の平アジ、明石鯛、瀬戸内海多島海のサワラ、下関のフグ、日出の城下ガレイ、土佐の鰹、尾道の小エビと続く。
その中でも食べてみたくなったのが松江宍道湖のスズキである。
晩夏に湖より海に下る落ちスズキの味は格別である。
刺身にするには、300匁くらいの大きさのものが理想で、それも腹の真ん中あたりが最もうまい。これを一寸角、厚さ二分くらいに包丁し、軽く冷水で洗い、カットグラスかなにかに盛り、水郷の旗亭で頂くと環境と味が一つになり、一層その美味を感じるものである。

刺身を食べる時、つくづく日本人である幸せを感じる。

味覚作法 魚谷常吉 平野雅章編  中公文庫
スズキの洗い







初かつおと75日の延命

2007年06月29日 | 江戸の味
 前回に初鰹を食べると75日寿命が延びると書いた。
 これには、いわれがある。
 死刑囚は、処刑の前日に何でも望む物を食べることが許されたが、ある冬に季節はずれのものを所望した囚人がいた。その者は、初物が出回るまで処刑も延期されたという。
 このことと、初鰹がミックスされ、75日延命という話ができてきたのである。
 江戸中期の文化人太田南畝(蜀山人)は、安永十年に、「はつ鰹」という小咄集を表している。
 その冒頭に、
 「三浦三崎の初松魚(かつお)ふる背はいやよ、新計(ばかり)、道中急ぐ程谷(ほどがや)に、川さき品川打越て今日江戸入のはつ声は、まだ新しきはなしの親玉、アアつがもねえ」 
と書いている。
 (つがもねえ=たわいもない)
 三浦三崎は、言うまでもなく、神奈川県三浦三崎のことで、この辺りで獲れたかつおが良質とされた。特に初かつおともなると、早船でとり急ぎ江戸に入った。
 「はつ鰹」の序文で蜀山人が言いたかったのは、今までの小咄は新鮮さがない、俺の書くものは、初鰹のように新鮮だ、ということである。
 たいした自信だが、その内容はどうであろうか。
 その中にある「鰹」という小咄を引用してみる。
 ほととぎすの初音を聞いたの聞かぬの、咄の中へ出て
 「おらあ、きのふ鰹のはつねを聞いた」
 「とほおもねえ事をいふもんだ、何が鰹が鳴くもんだ」
 「それでも、きのふの初値が二〆(かん)五百」
 
 初音と初値を掛けた小咄である。
 いかがであろうか。
 江戸の小咄というのは、概してこのようなものである。
 鰹に関する小咄としては、同時期の安永八年に出版された「金財布」の中にある「精進日」という咄の方が面白い。
 精進日とは、先祖の命日で、この日には生ものは食べては行けないことになっていた。
 友達の所から初鰹をもらひ、ふっと思い出した処が精進日、喰わねエモごふ腹と、かのかつをを持って、持仏の障子を押し開き
 「もし親父様、この鰹を貰ひましたが折折おまへの御命日ゆへ、たべられませぬ、それともたべても大事ござりますせば、必ずご返事には及びませぬ」
 
 死人に口なし、仏にも口はない。
 うまく考えたものである。
 このように、江戸っ子から愛された鰹であるが、食べ方としては、今のように醤油をつけて食したわけではなかった。
 醤油は江戸中期から江戸にも広まっていくが、高価なもので、庶民としては、刺身には味噌をつけたり、酢辛子で食べたりした。ショウガや辛子、蓼(たで)といったものを薬味にして、辛子味噌などで食べたわけである。
 今ではあまり聞かない煎酒というものもある。
 これは酒に、鰹節、梅干し、塩などを加えて煮詰めたものである。
 関西では、鯵のたたきにニンニクをつけて食べるところがあるが、時、場所変われば、刺身の食べ方も千差万別である。
 なお、蛇足であるが、江戸小咄が出たついでに、少し落としておく。
 アムステルダムオリンピックの水泳、100m自由形で銅メダルを獲得した高石勝男選手は大人気で、彼が泳ぐ時は「かつおコール」が起きたという。これは、もちろん、高石選手の活躍にもよるが、「かつお」という意味がイタリア語で、男性器を意味しているからだった。ちなみに、いそのかつお、もイタリアへ行くとへんてこりんなことになってしまう・・・。
 
 「江戸小咄集」  東洋文庫  宮尾しげを編
 「大江戸風俗往来」 実業之日本社 久染健夫監修


初物

2007年06月26日 | 江戸の味
 江戸っ子の初物好きは高名である。
 「目に青葉 山ほとどきす初かつお」
 の句で初鰹が有名だが、江戸っ子は、鰹にとどまらず、いろいろな初物に高値をつけて、見栄を張った。
 たとえば、江戸の初期である慶長十九年(1614年)には、三浦浄心という人に言わせると、初鮭なども、「三十両、いや五十両に値する」と大げさなことを言っている。
 1668年には、幕府も商人の暴利を防ぐ意味と、庶民が奢侈に流れないようにする意味で、魚、野菜などの初売りの時期を定めた。
 「さけ八月より、あんこう十一月より、生たら十一月より、まて十一月より、しらうを十二月より」
 最初はある程度の効果を得ていたようだが、次第に守られなくなり、形骸化していった。
 江戸時代は封建社会で独裁者による恐怖政治が行われていたかのように思っている人も多いが、幕府の命も、意外なくらい人々は守っていなかったようなきらいがある。このような禁止令というのは、いろいろな形で庶民に「あれはするな、これもするな」と命令しているのであり、しばしば制定されたが、その効果は薄かったのが現実である。この件に関しては、寛政の改革に触れるにあたって、また述べることにする。
 さて、初鰹。
 江戸っ子が初鰹を好んだのは、鰹に「勝魚」という当て字をはめ込んだのと、初鰹を食べると寿命が七十五日延びるという迷信があったからである。

江戸食の履歴書 平野雅章 (小学館文庫)
 
 

注文の多い客

2007年05月14日 | 江戸の味
 時折、朝から米をがんと食べたくなる時がある。
 そんな時は駅前の「松屋」に行って納豆定食を食べる。
 家でも同じようなものが食べられるのだが、「外食をする」という儀式によって、無意識のうちに生活に変化をつけようとしているのかもしれない。
 今朝も、その「時折」の日だった。
 少し早めに家を出て、「松屋」に向かう。
 大阪にいた頃は、毎日ベンツで「吉野家」に乗り付けるおじさんとか面白い人がいたのだが、こちらではあまり見ないな、と思っていた。
 それが今朝のこと。
 僕が納豆定食を食べていると、かなり年輩の男性が入ってきた。
 年の頃で70は越えている。
 ダークグレーのスーツに、紺のネクタイ。顔には黒縁の眼鏡を掛けている。
 パシッ、という感じでもないが、よれてもいない。
 どこかのお偉いさんとも、隠居してやることの少なくなったおじさんとも判断つきかねる。
 への字に結ばれた口のせいで、頑固そうに見えることは確かだ。
 その老人は、食券を買わずに椅子に腰掛けた。
 「お客さん、食券をお願いします」
 若い店員から、お約束通りの声が掛かる。
 「いや、販売機ではあかんのや」
 それに対し、関西弁が返った。
 「???」
 考え込む店員に対し、
 「とろろ二つ、生卵、ごはんに、みそ汁つけて」
 と老人は慣れた口調でそう言うと、千円札を手渡した。
 「はあ」
 とよく飲み込めない店員に、
 「とろろはその容器じゃない。そっちの大きいやつに。海苔はいらん」
 と言ったかと思うと、
 「ごはんはもう少し入れて」
 と、自宅のように老人は注文をつけた。
 その間にも客は入り、店員はかなり困窮していた。
 やっと、注文の多い客をさばききったかに見えた店員だが、
 「お釣り、はようくれんか」
 老人の一言に奥に応援を求めに行ってしまった。
 
 僕も一回、こういった注文をしてみたいのだが、なにか恥ずかしいやら、めんどくさいやらで未だしたことがない。
 「ご飯とみそ汁、漬け物ね」
 なんともJAPANESE LIKEじゃないですか。
 みなさんも、一回チャレンジしてはいかがですか?
 

米の消費量~江戸時代

2006年07月13日 | 江戸の味

先日、農家の人と話をしていたら、日本人の米の一人当たりの年間消費量は60kg(1俵)を割ったそうである。そんなに少ないものかと、自分の場合を計算してみたら、確かに少なかった。 年間60kgということは、一日に換算して170g。一合強の計算となる。 現代人の米の消費量は驚くほど少なくなっている。

それでは、江戸時代はどうだっただろう?

牢獄の例を見てみる。

囚人ひとりにつき玄米搗五合で、白米にすると一割減の四合五勺であった。これを朝夕の二度に分け、一回に二合二勺五才、盛立ての目方正味八十五匁あたりであった。(中略)副食は味噌汁と糠漬の大根であった。*②より

とある。

囚人でさえこんなに食べていた。

余談となるが、囚人のご飯は大きな丼に盛られ、モッソウ飯と呼ばれた。これが「臭い飯」の語源である。

白石一郎の小説に「元禄武士道」という一風変わった短編小説がある。

そこに大食いの武士が登場する。小説ではあるが、古事を調べた上での内容だと思う。

本人はそれを(大食)を恥じて、人前では決して暴食をしなかったが、一度に七升の飯を喰うという噂であった。真実は、一日に三升の飯を何度にも分けて喰う程度だったが、なまじ本人が隠すので、大食の噂は、かえって誇張されてしまったのである。

三升だって信じられないくらいの量である。主人公星野小五郎は、ばかばかしいとも思える藩同士の意地の張り合いに巻き込まれ、藩命を受けて、一尺あまりの堂々たる鯛27匹、15杯の椀、二升の酒を飲む。*③より

本当にこんなに食べられるものなのだろうか?

振り返って、現代を見てみると、小林尊という人物がいる。

フードファイターと呼ばれる「大食い」の第一人者である。

彼は先日、アメリカで行われたホットドッグ早食い大会で5度目の優勝を自己新記録で達成している。

アメリカの早食いはあくまでも早食いで大食い競争ではないのだが、彼は12分間で53.5本のホットドッグを食べている。回転寿司でもごくわずかな時間に50皿もぺろっと平らげてしまう。時間があったら一体、どれくらい食べられるのか想像もつかない。それでいて、痩躯だから不思議だ。人間は可能性の動物だとつくづく思う。

話がまたまたずれたが、一般の人は米をどれだけ食べていただろう。

1840年の長州藩のものであるが、主食だけで1664キロカロリー摂っていたと記録されている。明治3年の飛騨地区の記録も残っているが似たようなものだ。*①より

カロリーから計算してみると、一日の米の消費量は、三合弱。

囚人は米しか食べられなかったので四合半の米を食べていたことを考えると、米以外のものも口にしていた一般人の場合、きわめて納得できる数字である。

ここ100年で日本人の米の消費量は3分の1になったわけであるが、肥満、糖尿病の人のパーセンテージは激増した。満腹度の割りにはローカロリーな米のことを考えると、当然の結論のような気もしている。

(米の覚書)

精米一合は約150グラム

  精米一升は約1.5キログラム

  米一合は330グラムのご飯になります。  (=590カロリー)

  米一升は3.3キログラムのご飯になります。

  米はご飯にすると重量で2.2倍、目方(容積)で2.5倍になります。

  弁当では少なめでご飯150グラム(生米68グラム)多めでご飯250グラム(米114グラム)

http://www.okishoku.co.jp/siryo.html上記は、沖縄食料HPより

①人口から読む日本の歴史 講談社学術文庫 亀頭宏

②江戸町奉行所辞典 柏書房 笹間良彦(名著です!)

③幽霊船 新潮文庫 白石一郎

よろしかったら、クリックお願いします! → 人気ブログランキングへ <iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=tadious-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4760124942&ref=qf_sp_asin_til&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>

黄身返し②

2006年07月03日 | 江戸の味
奇術家の書いた本であるせいかどうか分からないが、「大江戸奇術考」が本棚からエスケープしてどこに行ったか分からない。
非常に面白い記述があったので、また引用しようと思ったのだが、それはまた今度にします。
さて、前回の黄身返し、結論から言うと失敗でした。
下にある写真(左上の小さいサイズ)のように、黄身がはみ出したできそこないような茹で玉子が出来上がっただけでした。
そこで、今度は縦方向にクリリップを刺してみることに。
しかし・・・。
結果は、またもやできそこないの茹で玉子の数を増やすことになっただけでした。
「大江戸奇術考」の泡坂氏もまだ完全な黄身返しはできていないそうで、伊藤家の食卓では、かなりの数の玉子を使ったんだろうなあ、と負け惜しみのように思うのみです。
どなたかの吉報を待ちたいのですが・・・。


↓ よろしかったら、クリックお願いします
人気ブログランキングへ




黄身返し①

2006年06月29日 | 江戸の味
ちょっと固い話が続いたので、今回は柔らかい話。

先日、「大江戸奇術考」という本を読んだが、なかなか興味深かった。
元禄時代には初めての奇術書である「神仙戯術」が発刊された(1690年)が、現代でも行われている手品が既にこの頃から発明されていたという記述を読んでびっくりした。
寛保二年(1742年)には、「神仙秘事睫(まつげ)」が、安永八年(1779年)には、「天狗通」などの本が次々と発刊されいく。
この頃になると、現在、市販されている入門用手品セットに入っている内容はほとんど網羅されている。
コインマジックや、手の中で豆(現代ではスポンジかな)が増えたりする手品、カードもの、チャイニーズリングと呼ばれる鉄製の輪がつながったり、外れたりする手品などである。中には、箱抜けの大がかりな舞台マジックも紹介されており、原理的には今日のものと変わらない。
ただ玉石混合で、化け物を作る法などは、愛嬌である。

化け物を作る法・・・・二枚の銅貨に紐を通し、めがねのようにかける。そして、口にはツゲ櫛をくわえて、白い着物を頭からかぶって、奥座敷にじっと座っておく。
暗いところでは怖かったのだろうが、いくら当時の人だって、表題のおどろおどろしさと、子供だましな内容を読んで、にやっとしたに違いない。

さて、今回のテーマである、「黄身返し」。
原典は江戸中期に発行された「万宝珍書」である。
原文が、「大江戸奇術考」に載せられているので引用する。

なまたまこを、ぬかみそへ半ときつけておき、のちゆでるなり。かわをとりてもちゆべし、いれかはることめうなり

ある手順で普通の玉子を茹でると、白身が中で、黄身が外という驚くべき玉子ができあがるという。
この本の作者の泡坂氏は、この記述を読んでさっさく試したというが、

どきどきしながら殻を剥いたのだが、なんのことはない。ただ、少ししょっぱい茹で玉子ができあがっただけであった

と、がっかりしている。
氏の苦労はその後も記されている。
氏は仲間から、事前に玉子に細い釘をさしておかないとだめと言われて再挑戦するが、NG。
昔の玉子は有精卵だったから、こんなことができたと言われ、諦める。
その後、TV「伊藤家の食卓」で偶然この黄身返しをやっていたのを見て、またまたチャレンジしている。

私も、実際にチャレンジしてみることにした。
手順としては、画鋲などで玉子に穴を開け、適当に伸ばしたゼムクリップをその穴に差し込み、中身を攪拌する。
あとは普通に茹でるだけで、黄身返しができると言う。
下記写真がその経過である。
果たして、これで夢の黄身返しができたのでしょうか?

無理に引っ張るつもりはなかったのですが、レイアウト上、その結果は、次回のお楽しみってことで。

大江戸奇術考  泡坂妻夫 平凡社新書




↓ よろしかったら、クリックお願いします
人気ブログランキングへ



酒のはなし

2006年05月17日 | 江戸の味
「下らない」という言葉がある。
江戸時代は京都が首都であったから、関東から関西へ行くのが上りで、関西から関東へ行くのが下りであった。
この時、江戸は大消費地にはなってはいたが、高級品はまだ関東では作れず、関西から来る「下りもの」は高級品であった。
関西から送られてこないものは、当然「下りもの」ではなく、「下らないもの」であった。
これが「下らない」の語源である。
下るもの、下らないもの、と二分化され特にブランドイメージが強力だったもののひとつに酒(日本酒)がある。
江戸時代は貧しかったようなイメージがあるが、実際のところ元禄時代(17世紀末~18世紀初)には、江戸の人々は年間ひとりあたり54リットルの酒を飲んでいたという。今の日本人の年間消費量は70リットルだそうで、現代は飲んでいるお酒がビールあり、ウイスキーありと、お酒の度数が違うので単純比較はできないが、元禄の江戸庶民は現代人と比較しても遜色ない量のアルコールを飲んでいたことになる。
話が横道にそれたが、高級酒の製造元は関西に独占されていた。
関西でも初期の生産の中心地は摂津の伊丹や池田であったが、のちには灘五郷と呼ばれる兵庫県西宮から神戸へかけての地区へ移行していく。
この背景には阪神タイガース応援歌で有名になった六甲おろしと呼ばれる寒気と、夙川を中心とした川の流れを利用した24時間利用可能な水力による搗米のイノベーションがあった。
ところで、当時のお酒はいくらくらいだったのだろう?
淡野史良氏は著書の中で志賀理斎の「三省録」を引用して、慶安期(1648~1652)の酒の価格を表している。
それによると、各1升で、

関東並酒    二十文(600円)
関東上酒    四二文(1260円)
大坂上酒    六四文(1920円)
西宮上酒    七二文(2160円)
伊丹西宮上酒 八十文(2400円)
池田極上酒  百文 (3000円)


となっている。

醤油が銚子物で六十文(1800円)、そばが十六文(480円)としている。
淡野史良氏は一文=30円としてレート換算している。
この手の物価計算の整合性としてはよくかけそば一杯の価格が引き合いに出されるが、今風に言うとラーメンの価格と言った方が通りがいいかも知れない。
すなわち、この例でいうと、ラーメン一杯=480円が妥当かどうかである。
私は妥当だと思う。
すると、潤沢な消費量を前にして、米文化であった江戸時代の日本酒は意外なほど安かったのかも知れない。
1.8L 600円とはどんな酒かと思うけれど。それにしても酒のなかでも下り物とそうでない酒の価格差は凄い。
それだけ、ブランド品は儲かったということにもなるのだろう。実際、灘の造り酒屋は今でも大金持ちである。

現代では、どうか。
インターネットで調べてみると、売れ筋の久保田が万寿で9380円、千寿が2880円。関西だと灘の黒松白鹿特別本醸造が2380円、剣菱で3055円。価格差はないようにも見えるが、実際には楽天の売れ筋ランキングベスト30位内にかつてのブランド灘の酒の名前は一つも入っていない。白鹿の中にも高価格のものは存在するが、価格的には逆転してしまったと見るのが妥当だろう。

かつてはブランド品であった関西の日本酒メーカーが、新潟あたりの日本酒にブランド力を奪われ、今は大衆酒を中心に造っており、そのブランド品である関西以外の酒米に兵庫県産の山田錦が多く使われているというのはアイロニーには違いない。

最後に、時代劇の間違い指摘をひとつ。
よく居酒屋などで客が現代の徳利を使って酒を飲んでいるが、あれは間違い。
このころは、ちろり、という錫でできた酒器を使っていた。
今でもおでんの屋台などに行くとたまに見かける容器である。
縄暖簾(居酒屋)では、惣菜が酒一合の値段より安かった。現代でも生ビールは料理より高いケースが多いのでそれは同じかもしれない。
その点でも江戸時代は、非常に現代と近似している気がしてならない。


大江戸番付づくし 石川英輔 実業之日本社
町屋と町人の暮らし 平井聖 学研
数字で読むおもしろ日本史 淡野史良 日本文芸社
日本酒造組合中央会 http://www.japansake.or.jp/sake/
ちろり http://allabout.co.jp/gourmet/sake/closeup/CU20041210A/↓ よろしかったら、クリックお願いします
人気ブログランキングへ