木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

印を結ぶ

2011年04月06日 | 戦国時代
マンガなどを見ていると、忍者がなにやら手の指で形を作って呪文を唱えると分身の術が使えたり、火遁の術が使えたり、さまざまな術が駆使できるようになる場面をよく見かける。この手の指でさまざまな形を作ることを「印(いん)を結ぶ」と言う。
マンガなどでは、印を結べれば、さまざまな術が使えるような表現になっていることが多いが、印を結ぶことと、術には相関関係はない。
では、忍者がなぜ印を結ぶかと言えば、非常時に陥った場合の精神を沈めるためであった。イチロー選手が、打席に入る際、いつも同じルーティンワークをすることはよく知られているが、原理としては似ている。日頃印を結ぶ練習をするのは、指先を動かし脳の活性化に役立ったであろうし、火急の場合には意識を集中させ、気を落ちつかせる効果があった。
手元の「戦国武家辞典」に分かりやすい説明が出ている。

忍者が呪文を唱え、印を結ぶのは精神統一のためにほかならない。殊に敵中で窮地に追いつめられ、進退きわまったとき呪文をとなえ印を結ぶことによって心眼を開き、活路を見出すにある。

印を結ぶのは、九字護身法とも呼ばれ、もとは真言秘密法に由来し、九字を切るということばも忍者独自のものではない。

真言宗では、身、口、意の三密を具足することを教え、この三者が一致したとき即身成仏できるとしたが、忍道ではその身を印、口を呪文、意を諦観に結びつけ、その三者の一致によって新しい活路を見出そうとした。よってその精神に相通ずるものがあるのでこの法となった。

印を結ぶには、九字に沿って、九種類の型がある。
九字とは、「臨(りん)兵(ぴょう)闘(とう)者(しゃ)皆(かい)陣(じん)列(れつ)在(ざい)前(ぜん)」である。
印を結んで、人差し指と中指を立て、残りの指は握りこんだ「刀印」の型をとって「悪魔剛伏、御敵退散、七難連滅、七復連生秘」と唱え、息を吹き入れ、指を使って刀で左右に切り払う形をとる。

九つの型は単純なものと複雑なものが混じっており、動揺した精神状態の中でも素早く印が結べるような工夫がされている。
印を結ぶことは、決して魔法の杖を振るようなものではないのだけれど、いざとなった際に、印を結べさえすれば、常時の精神状態に戻れるのだと、自己暗示をかけておくのはとても有効だと思う。
自分も含めて、人は思わぬ事態に遭遇したとき、後になって考えれば、「なぜ、あんなことを」と思うような行動を取ってしまうことがある。印は結べなくても、そんな非常時に自分が冷静になれるような呪文なり、所作を定めておくのは極めていい方法だ。
香港映画「君さえいれば」の中では、閉所恐怖症の主人公がエレベーターに閉じ込められたとき、恋人が早口言葉を言わせて、気を紛らわさせる場面があった。呪文でもいいし、お経でもいいし、早口言葉でもいい。印でなくても、指まわし体操でもいい。
私自身は、印の九種類のうち結ぶのが難しい三種類を除いて、あとの六種類でとりあえずは挑戦している。

戦国武家辞典 稲垣史生 青蛙社

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秀吉の兜

2009年03月29日 | 戦国時代
昨日に引き続き、名古屋市中村公園内にある「秀吉清正記念館」からの話題。

この記念館で、何ともパンクな兜を発見。
名付けて「馬藺後立兜」《ばりんうしろだてかぶと》と言う。
秀吉が被り、1587年(天正15年)九州攻めの際に蒲生氏郷の家臣、西村重就《しげなり》に与えたものと伝えられる。

敵に発見されにくいように迷彩色を着る現代とは違って、日本といい、西洋といい、昔は戦場でも派手なものが好まれたようだ。
しかし、この兜など、かなり趣味の部分が大きいので、貰ったほうも当惑したのでは。

秀吉「このカッコいい兜をそなたに進ぜよう」
重就「カッコいい!?・・・・・・ありがたき幸せでございます」(と言って下を向く)

などという会話があったかどうかは知らないが、かなり微妙なデザインである。
馬藺というのはアヤメの一種だそうだが、どうにも孔雀の羽のようにしか見えない。

驚いたことに、この兜のレプリカを試着できる所がある。
大坂の天守閣である。
天守閣の解説では、この兜を「現在にも通じる気品の高さを持つ兜」と解説しているが、いかにも、派手好みの大阪らしい。

ちなみに、「秀吉清正記念館」は、入場無料。
くわしくは、ここをクリック



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母衣

2009年03月28日 | 戦国時代
母衣。
難しい漢字だ。
これで、「ほろ」と読む。

小型の辞書にも載っていた。
『昔、よろいの上からかぶって矢を防いだ、布製の袋のようなもの』
(岩波国語辞典 第三版)

これを名古屋市の中村公園内にある「秀吉清正記念館」にて発見。
その説明は下記である。

『赤母衣・・・母衣はもとは、武者が合戦のときに背負って、飛んでくる矢を防ぐための道具だった。戦国時代には中に竹かごのような骨組を入れ、いつでも風でふくらんでいるような形になった。実用よりも戦場で目立ち、自分の手柄を主君に認めさせるためのアイテムと化したのである。安土~桃山時代』

とある。
織田信長は、身辺に赤母衣隊と黒母衣隊という精鋭部隊を置いたといい、イメージはなかなかにカッコがいい。
説明だけだと、よく分からないのだが、西洋のマントのようなものかと想像する。
しかし、実物を見て、びっくり。
張子の巨大な壷、といった風情である。

使用方法がよく分からないが、これを背負うのだろうか。
そういえば、上のほうに背負い紐のようなものがついている。
中は空洞だから軽いとはいえ、このようなものを背負って戦う姿は……あまり、勇ましそうではない。

幕末には、西洋の新式鉄砲が多く輸入された。早撃ちが可能で、射程距離も長いものだ。
その時に、旧式の装備しか持たない藩は、この母衣で対抗したらどうだったのだろう。中には、砂でも入れて、この母衣を押し立てて進んでいく。敵が撃ってきたら、この母衣の影に隠れて、弾込めの間に、前進。撃ってきたら、また隠れる。そうしているうちに敵の陣地までたどり着く仕組み。砂を十分に湿らせておけば、大砲にだって耐えられるかも知れない。
でも・・・・・・その前に、持ち運べないか。



赤母衣

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色金山の床几岩

2009年03月21日 | 戦国時代
古戦場跡は、観光地化できにくい、と前に書いた。
その中で、長久手町は頑張っているほうではないかと思う。
中途半端といえば、中途半端なのであるが、一応、古戦場跡を整備して、公園化している。
色金山(いろかねやま)というのは、小牧・長久手の戦いの際、徳川家康が陣を構えた山である。
ここで家康は小牧方面を睨みながら軍議を開いたが、その時に座ったとされるのが「床几岩」であるという。
床几岩は、昭和14年(1939年)に国の史跡に指定されたが、真偽のほどは分からない。
この公園には、立派な櫓も組まれ、なかなかよい展望が得られる。
しかし、それほど多くの人が訪れるわけでもなく、平日などは閑散としていて、誰一人いないこともある。
人は戦いの中から何かを学ばなければならないのだろうが、為政者たちの戦いは庶民にとっては、関係のないことだった。
古戦場跡などは、たいした興味もなくすぐに忘れ去られてしまう。
織田であれ、豊臣であれ、徳川であれ、雄藩であろうと、庶民はたくましく生きて来た。
現代を見ても、自民・公明であっても、民主であっても、庶民レベルとしては同じことかも知れない。
だが、選挙権という武器を与えられている点では昔と大きく違う。
どこが与党になっても同じなのかも知れないが、せっかく与えられた武器は使う必要があるのではないだろうか。


床几岩。確かに立派な岩である。


立派な櫓。上に登るといい展望が得られる。

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戸部新左衛門

2009年01月29日 | 戦国時代
先日、豊橋の吉田城を見に行った際に、歴代の城主の中に戸部氏という人物がいるとの記述を目にしていた。
名古屋市緑区に戸部氏の碑があると聞き、行ってみると、戸部新左衛門が吉田で暗殺されたという説明文がある。先日の文が頭に残っていたから、すっかり吉田城主が暗殺されたのだと思った。
これが勘違い。
調べてみると、吉田城の城主であったのは、戸部氏ではなく、戸田氏であった。
天文六年(一五三七年)に吉田城主となった戸田金七郎宣成という武将であり、天文一五年(一五四六年)まで城主を勤めている。
一方の殺害された戸部氏は、戸部新左衛門政直。新左衛門殺害の経緯を調べると、黒幕は、織田信長。
新左衛門は、もともと信長の家臣であったが、義元有利とみるや、今川側についた。これを知った信長の怒りは大きかった。
信長は、義元側が内部から瓦解することを狙って新左衛門の筆跡を真似て偽の手紙を作成し、わざと義元の目に触れるようにした。新左衛門が再び信長方に寝返るような内容の手紙である。この手紙を読んだ義元は、新左衛門に釈明の余地も与えずに斬り捨ててしまう。
勢いに乗った信長は同じような風評作戦を再び使用し、笠寺城主の山口教継をも、義元に殺させている。
似たようなケースが連続して起こったので、新左衛門と教継を同一人物だとする説もあるが、粘着気質のある信長のことである。これでもか、という作戦は、信長らしいように思えるし、実際には、よく分からない(ウィキペディアでは、戸部新左衛門を笠寺城主としている)。
いずれにせよ、これでは、義元側の部下は、命賭けで就いていく気にはなれない。
桶狭間の戦い以前に勝敗はついていたとも言える。
さらに調べていくと、NHKで放映されている「忍たま乱太郎」に同名の戸部新左エ門なる人物が出ている。
どうして、このようなマイナーな人物がモデルとなっているのかと思っていたら、「忍たま乱太郎」の作者尼子騒兵衛氏の友人が戸部氏の子孫であったからと言う。尼子氏は、、時代考証家の名和弓雄氏に教えを請うていたし、いかにも、通好みの設定である。
今回の件では、自分としては二転三転した新しい知識が入って面白かった。


吉田城趾は、豊橋公園として整備され、豊橋市役所もこの地にある。昭和29年には隅櫓が再建された。
今回は携帯の画像を利用したら、サイズが大きくなった。これくらいのほうが、見やすいかも。


新左衛門の碑のある地には、大きな楠があり、目の前は幼稚園。地域の人が花を添えているようで、何となく暖かい雰囲気であった。

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毛利元就・三本の矢と虫けらたち

2008年12月21日 | 戦国時代
毛利元就が三本の矢を示し、一本では折れやすい矢も三本束ねると折れにくい、だから、兄弟も力を合わせるように、と子供たちを諭した話は有名である。
実際に元就が、子供たちを前にしてこのようなデモンストレーションをしたとは思いにくいのだが、この話の素となるような書を元就は残している。
山口県の毛利博物館に残されている「毛利元就三子教訓状」と呼ばれているものである。
この書は、弘治三年(1575年)に表されたもので、元就をして「これまで山々申したいと思っていたことは、これで言い終わった」と言わしめるものであった。
元就と言うと、勇将のイメージがあるが、この書を読むと、まず文頭で「この書状の中にも誤字もしくは『てにをは』の誤りもあろうからご推量願いたい」と実に細かい断りを入れていることに驚かされる。
また、「元就は意外にもこれまで多数の人命を失ったから、この因果は必ずあると心ひそかに痛く悲しく思っている」などと書き、別の項では、「朝日を拝んで念仏を十遍づつ唱える」、「元就は不思議に思うほど、厳島神社を大切に思う心があって、長年の間信仰してきている」と信心のほどをのぞかせている。
三本の矢に準じたことはしばしば述べられているが、「事新しく申すまでもなく、三人の間柄が少しでも疎隔することがあれば、三家は必ず共に滅亡するものと思われたい」と書かれた辺りに元就の気持ちが凝縮している。
三矢とは、隆元(毛利)、隆景(小早川)、元春(吉川)の三兄弟であるが、元就には、この三人のほかにも、六人、全員で九人の子供がいた。
この文書が書かれた弘治三年には、まだ元治、元康、秀包の三人は生まれていなかったので、この当時は、六人兄弟である。
元就は、三兄弟以下の三人についても、ちゃんと書いている。
以下に記す。
「ただいま元就には虫けらにも似た分別のない庶子がいる。すなわち七歳の元清、六歳の元秋、三歳の元倶(もととも)などである。これらの内で、将来知能も完全に人並みに成人した者があるならば、憐憫を加えられ何方の遠境になりとも封ぜられたい。しかし大抵は愚鈍で無力の者であろうから、左様な者に対しては如何様に処置をとられても、それは勝手であって何の異存はない」
あまりにひどいような……。
原文で見ても「唯今虫けらのやうなる子ともとも候」と間違いなく、虫けらなどと言われている。
人情としては、虫けらと呼ばれた庶子がどう成長したか調べてみたくなる。

元清 ・・・ 備中猿掛城・三村氏の一族穂井田元資の養子となり、数々の武功を挙げ、広島城の構築にも活躍。享年四十七歳。
元秋 ・・・ 月山富田城(島根県安来)の城主となる。享年三十四歳。
元倶 ・・・ 石見国出羽元祐の養子となるも、十七歳で夭逝。

ちなみに、三兄弟の享年を見てみると、
隆元(六十四歳)、隆景(六十五歳)、元春(五十七歳)と「虫けら」と呼ばれた庶子よりも高齢である。
しかし、一番高齢まで生きたのは、元就で、七十五歳の歳に没している。
いずれにせよ、元就の実子たちは、関ケ原の戦いの翌年までには全員が没し、その後は初代長州藩主となった元輝ら、元就の孫たちの時代となる。


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守山崩れ

2008年09月19日 | 戦国時代
守山区は、名古屋のチベットとも呼ばれることのある秘境(?)である。
名古屋ドームを眺める位置にありながら、奥へ行くと、古墳発掘で有名な志段味地区などを持ち、宅地化が進む中にも「昔」を強く持ち続ける区である。
名古屋でも一番の繁華街である栄と、瀬戸物で有名な瀬戸市を結ぶのは、名鉄瀬戸線である。
名古屋ドームの最寄り駅といってもいい矢田駅は、規模の大きい大曽根駅の一つ先。
矢田川のすぐ手前に位置する。
矢田駅から徒歩10分。矢田川を山田北町方面に歩いたところに、市場という町がある。その市場町に宝勝寺という寺があり、その辺りが守山城のあった辺りとされる。
住宅地の波が押し寄せているとは言うが、宝勝寺の裏にはこんもりとした林が広がり、開発化の波を押しとどめている。
ここに守山城の立て看板だけがポツンと建てられている。
守山城は、守山崩れと言われる事件で有名になった。
時は天文四年(一五三五年)。
織田信長の父である信秀は、古渡城、那古野城、守山城の三城を中心とし、今川勢と対峙していた。
守山城を守るのは信長の叔父にあたる信光。
信光の誘いを請け、松平清康が岡崎を後にした。
清康は、家康の祖父に当たる。このとき、弱冠二五歳。若い藩主であったが、武力に優れ、三河平定に迫るほどの勢いであった。
清康が守山城に入り、今川勢と対峙した朝。
清康は、部下の勘違いにより殺害されてしまう。まだ、下克上の世の中である。
大将の思いがけない死により、松平家は大幅な弱体化を余儀なくされた。
これが、世に言う「守山崩れ」である。
あまり知られていない史実であるが、この事件がなければ、徳川幕府は生まれていたかどうか分からない。少なくとも、家康が今川家に人質に取られるなどということは起こらなかったであろう。
守山崩れで、清康が斬られたのが、村正であるといわれ、村正の妖刀伝説へと繋がっていく。


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今は、こんな簡単な立看板しか残っていない。地元に人に守山城址を聞いても、ほとんどの人がどこにあるか知らない。


奥に見えるのが宝勝寺の林。この林のおかげで、この辺りは随分と昔の面影を残している。


この辺りは標高25mの岡だと言う。確かに、視線を変えると、坂の上にいるのが分かる。

東海の城物語 中日新聞社
葵のふる里の歴史(中根大)松平の里観光協会
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