木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

SONYと味噌

2015年01月20日 | 江戸の人物
盛田久左衛門という人物をご存じだろうか。
久左衛門は踏襲名であるので、15代・盛田久左衛門。
正式には、盛田久左衛門昭夫。
正解は、SONYの創立者である盛田昭夫氏である。

今は株式会社となっている盛田は、1665年創業の酒蔵である。
後に、味噌も作り始め、明治になると、醤油を製造するようになる。
愛知県知多半島にある常滑市小鈴谷が工場所在地。
分かりやすく言うと中部セントレア空港の近くである。
すぐ目の前には、海が広がる。
昭夫氏は、名古屋の旧武家地である東区の白壁町の生まれで、育ちも同地。
夏の間は、小鈴谷に来ていた。
当地には、盛田が創った鈴渓(れいけい)義塾という私塾があったから、昭夫氏は、小鈴谷では、のんびりとスイカをかじっている暇もなく、勉強に励んでいたのではないだろうか。

酒、味噌、醤油といった日本独特の文化から、SONYが生まれたというのは非常に興味深い。
これらの業種は、当時、非常に儲かった産業であり、昭夫氏も生まれながらの、ブルジョアであり、経営者であったと言える。
盛田家は、江戸時代、イメージ戦略を計り、灘の酒に対抗するブランド力の立ち上げに成功したし、明治に入ってから、いちはやくワインをつくりだしたりと、進取の気性には富んでいた。
ちなみに、東海地区にはCOCOストアというコンビニがあるが、このコンビニは、日本で最も早くできたコンビニと言われている。COCOストアは、早い時期に店内での調理を行っていたし、各地の名産を扱ったりするなど、結構面白いことをやっているが、このコンビニを作ったのも、盛田である。

こう見て来ると、酒蔵がSONYを創ったというのは、突拍子もないことのようでいて、その実、盛田の家風だったのかも知れないと思えてくる。


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昭夫氏とシンディ・ローパー。二人の人柄をしのばせるようないいショット!

徳川宗春の墓と金網

2014年07月21日 | 江戸の人物
八代将軍・徳川吉宗と張り合った尾張徳川の徳川宗春は、吉宗との政争に敗れ、謹慎処分となった。
元文四年(1739年)のことである。ときに、宗春三十歳。
六十九歳で没するまで、宗春は政治と離れ、ひっそりと暮らす。
この辺りは最後の将軍であった徳川慶喜と似ているが、宗春の場合は外出も許されなかったから、籠の中の鳥として寂しく生き延びた。
政敵・吉宗は宝暦元年(1751年)死去。
吉宗の死去三年後の宝暦四年には、宗春は三の丸から下屋敷に移ることを許される。
その後、幾分か処置は緩和され、特別の場合の外出も許可された。
明和元年(1764年)、死去。
葬儀は尾張徳川の菩提寺である建中寺にて行われ、同寺に墓も建立された。
死後も謹慎処分を解かれていない宗春は、死してもなお墓に金網が被されたと言う。

ここで問題となるのは、墓の金網だ。
私も何の問題も持たずに、事実だと信じ込んでいたが、どうも事実というにはあやふやだ。
まず、宗春の墓に金網が被さっていたというのは、どこからの引用か判明していない。
確かな著書に事実が記されている訳ではない。

謹慎処分から三十年後の死去の際には、政敵・吉宗もこの世にいない。
誰が金網を被せるように指示したのだろうか。
将軍の座には、家重を経て、家治が就任している。
家治は吉宗の孫であり、吉宗の英才教育を受けている。
老中主座には、吉宗の頃から幕閣にいる松平武元。
この二人ならあり得る指示と思わせるが、家治と武元は田沼意次を重用している。
政策的には倹約から宗春が提唱した産業振興政策に移行しつつあった。
自分たちの政策を棚に置いて、過去の亡霊となった宗春に今さら構うのも、藪蛇になる恐れがある。
また、御三家筆頭にありながら、将軍を生み出していない尾張家を下手に刺激するのもどうかとの思惑もあったはずだ。

もともと金網とは罪人にの墓に被せるものだ。
たとえば、小塚原の回向院の例を見てみると、ねずみ小僧だとか、高橋お伝などの墓に金網が掛けられている。
こういった罪人と並んで、幕府が御三家筆頭の尾張元藩主の墓に金網を掛けるとは到底考え難い。

松平定信は老中主座になると、かつての政敵・田沼意次の墓を潰し、相良城を破壊した。
これは、相手との間にあきらかに力の差があるからであって、尾張家と将軍家の間にはそれほどの力差はない。

考えてみればみるほど、宗春の墓に金網説は怪しい。
清水の次郎長=大男説と同じ類なのかも知れない。

参考資料:徳川宗春(風媒社)北川宥智
     規制緩和に挑んだ「名君」(小学館)大石学



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山岡鉄舟と明治天皇

2014年07月20日 | 江戸の人物
山岡鉄舟は頑固一徹というか、信念の人だった。
剣豪と呼ばれながら、乱れた幕末の世にあって、ひとりも斬ることがなかった。
彼の根本にある思想は「剣禅一致」と「勤皇」である。
幕末、幕府側にありながら、常に勤皇の意思を持ち続け、明治になってからは、禅によって剣の極致を極めんと日夜努力した。
明治十三年、「天地の間には何物もないのだという心境」になって悟りをひらいた。
そんな鉄舟には興味深いエピソードが数限りなくある。
明治天皇と相撲を取った、という話も面白い。
鉄舟は、明治五年、西郷隆盛と岩倉具視らに求められて宮内省御用掛になった。
明治天皇二十一歳の時で、この後、天皇が三十歳になる血気盛んな十年間を傍に仕えた。
日時は詳らかでないが、ある日の晩餐で酒杯を重ねた天皇は法治国家の重要性を口にし、「道徳など何の役にも立たない」と極論した。
これに対し、酒席で議論が起こり、意見を求められた鉄舟は天皇に反論した。
天皇は俄かに厳しい形相となり、唐突に「相撲を取ろう」と言いだした。
鉄舟は座ったまま立とうとしない。
天皇は「ならば座り相撲だ」と言い、鉄舟を倒そうとするが、鉄舟はびくともしない。
しびれをきらした天皇は、目を突こうと飛び込んできたので、やむを得ず鉄舟は身体を僅かにそらした。
その拍子に天皇は前のめりに倒れて「無礼な奴だ」と怒る。
その後、別室で控えさせられた鉄舟は周囲に「謝罪せよ」と勧告されるが、固辞した。
「なぜ、わざとでも倒れなかったのか」との問いには「倒れれば、自分が陛下と相撲を取ったことになる。
君主に仕える身が君主と相撲を取るなど道に外れることだ」と論破。
「避けた拍子に陛下が転んだ」との指摘には、「酔った席で陛下が臣下の目を砕いたとあっては天下に暴君と呼ばれるであろう」と指摘。
開き直っているのではない。
「もし陛下がわたしの措置を不服とするのであれば、この場で腹を切る」と加え、別室に留まった。
陛下は休まれたので一旦帰れ、との侍従の言葉にも頑固として首を縦に振らず、端坐したまま夜を明かす。
翌朝、目覚めた天皇は、まっさきに「山岡はどうした」と尋ね、「別室にて控えております」との返事を得ると「朕が悪かったと伝えよ」との言葉を残した。
鉄舟は天皇の謝罪の言葉を聞いても満足せず、「実のあるところをお示しください」と要求。
ついに天皇は「以後、相撲と酒はやめる」との言葉を得た。
鉄舟はこの答えに落涙し、以後、自らの意思で自宅謹慎し、一ヶ月後にやっと出仕した。
その際には、ワイン1ダースを手にしていた。
天皇はワインを見て「禁酒のほうは、そろそろやめにしていいのか」と聞き、鉄舟が頷いたので、美味しそうにワインを口にしたとのことだ。
主従関係の在り方として、何ともいい話だ。

その鉄舟は明治二十一年七月十九日、九時十五分、座禅のまま五十三歳の短い生涯を閉じた。



鉄舟に手よる達磨の図

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徳川家達と慶喜

2014年06月11日 | 江戸の人物
徳川慶喜は最後の将軍と言われる。
もちろんその通りなのだが、世間の耳目を集めた最後の徳川家宗主は徳川家達である。
大政奉還の四年前の文久三年に御三卿のひとつ、田安家に生まれ、昭和十五年に鬼籍に入った。

慶喜は良きにつけ、悪きにつけ、幕末の一瞬に華々しく閃光を放った。
慶喜の自意識の強さは何かにつけ喧伝されるが、自意識では家達も負けてはいない。
慶喜と家達の年齢差は二十六歳。
年齢差を考えると、年長の慶喜は、家達のよきアドバイザーだったかのようにも思われるがさにあらず。

慶喜は宗家当主である家達の管理下に置かれていた。
こんなエピソードもある。
さる大名家に招かれた際、慶喜が先に到着し、上座に座っていたところ、あとから着いた家達が「わたしの座るところがない」と告げ、慶喜は慌てて席を譲ったと言う。
家達は「慶喜は徳川家を滅ぼした人。わたしは徳川家を立てた人」と常々口にしていたという。
また家達は「明治以後の新しい徳川家の初代だという意識が強くて、将軍家の十六代ではない」と言っていた。

明治三十六年、家達は貴族院の議長に選出された。
このポストを家達は五期、三一年もの長期に亘って勤めた。
評価をみてみると、政治家としての能力は特筆すべき点はないが、職務遂行と言う点では何ら問題ない、といったものだった。
その家達に大きなチャンスが訪れたときもある。

大正三年、山本権兵衛内閣がシーメンス事件で退陣すると、国民の反発を避ける意味合いで門閥色の強い家達に組閣の白羽の矢が立ったのである。
家達は同族会議を開いて首相の座を辞退するという結論を出したため、大隈重信内閣が誕生する。
生々しい政治の第一線から距離を置いたのは、よきアドバイザーだった勝海舟の影響が大きかった。

昭和四年になると家達は、日本赤十字社社長に就任。
ゲーリー・クーパーと一緒に写真に収まっていたりする。
このポストは家達にはぴったりだったのではないかと思う。
家達は社交家で、政治には一家言を持たず、協調精神にあふれていた。
それに英語にも堪能。
虚栄心も満足させてくれる日本赤十字社社長ははまり役だった。
幕末に将軍に即位していたらどうだったかと思うが、歴史でイフを考えても仕方がない。
家達は、幸せな時代に生まれ育ったのではないか、と思う。
一瞬の輝きと、永い日陰の暮らしを過ごした慶喜とは余りにも対照的である。

参考資料:第十六代 徳川家達(祥伝社新書)樋口雄彦



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吉良上野介と東条城と葛飾北斎

2014年06月04日 | 江戸の人物
愛知県の吉良は、県外の人にはあまり知られていないだろうが、リゾート地である。
ワイキキビーチなる海水浴場もある。
どこかの国とは違って、きちんとハワイから名前使用の許可を取っているところが日本らしい。

この地名を名字として名乗るようになったのは、足利義氏の長男・長氏で、時代は承久三年(1221年)にまで遡る。
この流れが、忠臣蔵で有名になったあの吉良氏に繋がる。
居城は東条城。

忠臣蔵はいかにも日本人好みの話で、赤穂は義士、吉良は悪い殿さま、という図式が出来上がっているが、田沼意次のように必ずしも吉良上野介だけが悪かったのではないというのが近年の通説に変わってきているようである。
考えてみれば殿中で斬りかかった浅野内匠頭{たくみのかみ}のほうが一方的に悪い訳で、切腹のうえ御家断絶の処置は厳し過ぎたとは言えない。
トップの無分別な行動で職を失った赤穂藩士のその後の身の処し方は立派とも捉えられるし、切腹といった罰が科せられた時点で伝説となった。

一方で哀れなのは、吉良藩士である。
もし討ち入りの際、返り討ちにしていたら「忠臣蔵」はどのように変わっていたのだろう。
実際は、返り討ちどころか四十七士が怪我人二人だけだったのに対し、十七名もの死者を出している。
そのうえ、吉良上野介義央{よしひさ}の息子・吉良義周{よしちか}は、討ち入りの際、背中を斬られていたところから逃げたのではないか、との嫌疑を掛けられ、諏訪に流された。
そのうえ、赤穂浪士に味方する世論にも影響を受け、吉良家は所領を没収され、東条城も廃城となる。
義周は、この事件の四年後に、配流地の諏訪で二十二歳の短い人生を終えている。
このとき、義周の死を看取った旧臣は、二人だけだったと言われている。
赤穂浪士が英雄視されるなか、武士の身分も失い、周囲から冷たい目で見られた吉良藩士こそ、悲劇的だ。

ところで、討ち入りの日の死者の中のひとり、小林平三郎央道が葛飾北斎の祖父だったとう説がある。
この説はどうも眉唾ものだが、話のネタとしては面白い。

もうひとつ、内匠頭と上野介の確執が、塩を巡るものとする説がある。
赤穂の塩の製造方法を教えて欲しいといった上野介の申し出を内匠頭が断ったことから確執が生まれたとする説だ。
吉良の塩は、饗庭塩{あいばじお}と呼ばれ良質の塩であった。
その証拠に、下って大正三年に塩業整理が行われたときも、東日本では宮城県、千葉県と並んで三大産地として存続された。
赤穂の塩はにがりが多く、吉良の塩はにがりが少ない特徴があるが、必ずしもにがりの多い塩がいい塩とは限らない。
どうもこの説も疑わしい。


東条城の城址は「古城公園」として物見やぐらが再建されている。しかしどうにも中途半端という印象を拭えない。場所も分かりにくい。


かつては饗庭塩として名声を博した吉良塩も今では単発で作られるのみ。高校生が授業の一環として作っているというが、地域活性化のためにもぜひレギュラー商品化してほしい。

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服部半蔵  ~ 幕末の半蔵はどこにいたか?

2013年10月05日 | 江戸の人物
服部半蔵というと、「忍者の頭領」のイメージが強いが、彼自身は忍者ではなかった。
半蔵というのは継承された俗称で、幕末まで12人の半蔵が存在した。
黒井宏光氏の説では半蔵の「半」は平家の「平」の分解であり、もともと服部家は平家に仕える武将であったという。
もっとも有名な半蔵は二代目半蔵正成である。
その正成でもっとも有名なエピソードは「伊賀越え」である。
伊賀越えについては詳細は省略するが、要点は次の通りだ。
本能寺の変で信長が斃されたとき、家康は少数の部下を伴って堺にいた。
信長と同盟関係にあった家康は包囲網は潜れないとと自決を決心したが、本多忠勝らの進言もあり、思いとどまり浜松まで戻ろうと決意する。
道中、困難を極めたのが柘植村(伊賀町)、鹿伏兎峠(加太峠)ら伊賀越えであった。
その際、活躍したのが服部半蔵正成や伊賀者・甲賀衆であり、家康はその働きにより、半蔵を長として伊賀者、甲賀衆を召し抱えた。
上記は広く伝わっている半蔵正成の華々しいエピソードだが、正成は岡崎生まれの岡崎育ち。地理に詳しい訳でもなく、実際は活躍したかどうか不明だといえる。
ただし、伊賀者ら土地の者が活躍したのは紛れもない事実で、海音寺潮五郎氏も指摘するように、伊賀越えの活躍云々は別にして、それまで功績もあり伊賀にも所縁のある半蔵が伊賀者の長に選ばれたのであろう。
正成は家康と同年齢で、いまも半蔵門に名を残すほど重用されたが、子供の代になると栄華は続かなかった。
嫡子である三代目半蔵正就{まさなり}は、家康の弟である松平定勝の娘を嫁に貰い、家康とも親戚関係となる。
正就にはもはや忍者の面影はひとかけらもなく、生まれながらの大身旗本としての姿しかない。戸部新十郎氏は「忍びの知識そのものも捨てたいと思ったかも知れず」とまで言っている。
とにかく正就は配下の伊賀同心を奴僕のように使い、指示に従わぬ者は扶持米を減らしたというが、正就は会社でいえば部長職であり、社長は将軍である。社員の給与を決定するのは会社であり社長である。減給処分は部長職の権限を逸脱している。
正就の振る舞いは部下のボイコットを招き、伊賀同心は新たに足軽大将大久保甚右衛門の配下となった。これを恨みに思った正就はボイコットの首謀者と思しき一人を一刀の下に斬り殺しているが、これが人間違い。正就は妻の実家である松平家へお預けとなった。降格だけに留まらず、転勤まで言い渡された訳だ。
再起を期した正就は大坂夏の陣に出陣するが、そこで行方不明になっている。奥瀬平七郎氏は「多分、旧配下の伊賀者に消されたのであろう」と書いているが、黒井宏光氏は、越後長岡に逃れ農民として75歳まで生きたと書いている。
一方、四代目半蔵を襲名した正成の次男・正重も手落ちがあり、旗本の地位を失っている。
正重は結局、松平定綱に召し抱えられ、代々服部半蔵は幕末まで桑名藩の家老職を勤めることとなった。
伊賀では半蔵正成の兄である服部保元の子である千賀地半蔵則直が服部半蔵系統の継承者となる。
則直の子である采女が藤堂姓を許され、伊賀上野城代となった。
服部家では、桑名藩の家老、津藩の出先である伊賀上野の城代を産んだわけである。
桑名藩は周知の通り最後まで西軍に徹底抗戦した藩、かたや藤堂采女は鳥羽伏見の戦いにおいて、山崎砲台で佐幕の立場から一気に倒幕に転じた際の最高指揮官であったのが興味深い。

参考図書:忍者の履歴書(朝日文庫)戸部新十郎
      煙の末(伊賀上野観光協会)黒井宏光
      忍術の歴史(上野市観光協会)奥瀬平七郎
      忍者と忍術(学研)
      桑名藩分限帳(桑名市教育委員会)


伊賀上野城

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永田徳本~ワインと湿布薬

2013年09月05日 | 江戸の人物
永田徳本という医師がいた。
正確な生年ははっきりしないが、永正十年ごろ(1513年頃)の生まれと伝えられている。
徳川幕府が誕生する1世紀近く前、室町時代後期の生まれである。
生国についても、三河であるといい、甲斐であるともいい、はっきりしない。
生業は医師であるが、現代ではワインの本を読むとよく名前が出てくる。
ちなみに手元にある「ワイン学」(産調出版)のページをめくると、

江戸時代には甲州の(ぶどう)栽培が盛んになるが、それは医師・徳本が棚かけ法を考案してからのこととされている(1615年)

という表記が見られる。本によっては永田某などとなっているものもあり、永田徳本と正確に書かれているものと半々くらいの割合である。
しかし、どうして医師がぶどうの棚かけ法を編み出せたのだろう。

永田は馬の背にまたがり、薬箱をぶら下げて診療に赴き、貴賎を問わず、診察料は十八文と決めていた。放浪超俗の徒として、草庵に住み、仙人然としていたという。
それだけに伝説も多く、ぶどうの話も伝説のひとつと考えてよさそうである。
これらの伝説で一番有名なのは、病床にある二代将軍・秀忠を診察した一件である。永田徳本はいつもと同じように牛にまたがって登城したとか、一診しただけですぐに病巣を見つけ劇的な回復をさせた、診察代も十八文しか受け取らなかった、などという話だ。
秀忠を診察したのが、史実なのかどうか分からないが、甲斐の国に居住する永田徳本という高名が当時、江戸表にまで伝わっていたというのは事実だろう。

彼の編み出した永田流の真髄を成すものは、「自然良能説」と称されるもので、薬の治療に植物性の一種の劇薬を使用したものと考えられている。永田徳本自体が生まれながら病弱で、自分自身を実験台として試行錯誤していく過程で生み出された秘法である。
実際にこの秘法は永田の身体に合ったようだ。生年ははっきりしないが、亡くなった日は分かっている。寛永七年(1630年)二月十四日であるから百歳を超える長寿である。

それにしても診察代が掛け蕎麦一杯くらいの値段だったというのは、痛快である。
技術職の値段というのはもともとファジーであるが、医師というのはファジーの究極である。
前日に深酒をして、翌日の手術でミスをして人を死なせてしまったとしても罪に問われない。実際はそんな医師はほとんどいなくて、手術の前日には酒を控える人が99%だろう(そう願う)。
だが、ことプライスとなるとどうであろうか。
医者というのは、高所得者の代名詞にもなっており、治療代は高いのが相場である。昨今では病院も設備産業となり、非常に高価な機械類を購入しなければ、成り立たなくなっている。そんな中、機械の購入費も診療代に跳ね返ってくる。医療は進歩したが、それに伴って医療代も上がってきている。そうなると、「地獄の沙汰も金次第」ではないが、命の長さも貧富の差となってきかねない。

外科的手法を持たない江戸時代以前にあって、医師が頼るのは投薬療法でしかなかった。
そこで、もうひとつ思いだしたことがある。
実家のある豊島区にあった「太陽堂」という小さな薬局の店長さんだ。
年の頃では50過ぎ、60前。痩せ型で背が高く、声も高かった。いつも白衣を着ていた。
店員も「店長」でなく「先生」と呼んでいた。
こう書くと、はったりをかませた人のような印象を持たれるかも知れないが、実際は話していると妙に落ち着く人だった。
「先生」は、人の話を聞くのがうまく、ぴったりと合う薬を出してくれた。
たとえば、口内炎になったときなども、口内炎用の薬ではなく、ビタミン剤を出してくれて、飲む量も指示されていたように思う。そして指示通りにしていると、すぐに治った。

想像でしかないのだが、永田の時代にあって、将軍の侍医たちは、自らの能力を過信し、臨床例から導き出された薬を一方的に処方していたのではないだろうか。
永田は問診により、的確に秀忠の病気を把握した。
とすれば、コミュケーション能力の差なのかも知れない。
もっと突き詰めて考えていくと、「病人を治したい」と思うのか、「金が欲しい」と思っているのかの違いだ。
一八文しか要求しない永田の態度は秀忠にとっては好ましく映ったであろうし、一方の永田にとっては保守的で日常の勤務に汲々としていた侍医たちに強烈な皮肉を放って、自分の生き方を示したのだろう。

金銭は大事だけれども、全てではない。
ローンやら、扶養家族やら何だかんだとしがらみの多い現代人であるが、永田のような生き方もひとつの理想形である。

ここまで、書いてきて、「永田徳本」の読みを書いていなかった。
ながたとくほん、である。
名前のほうは、とくほん、と読む。
どこかで聞いた名前ではないだろうか。
湿布薬のトクホンの由来である。

参考:日本医学先人伝(橘輝政)医学事業新報社

トクホンの名前の由来

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高野長英とその死因

2013年05月06日 | 江戸の人物
高野長英。
文化元年(1804年)5月5日に陸奥水沢に生まれる。
嘉永三年(1850年)10月30日死す。
長英を見ていると、人間の運、不運というものを感ぜずにはいられない。

長英は当時オランダ語学の最高水準を持っていただけでなく、商才もあった。
神崎屋源造に薬品の製法を授け、多大なる益を得させている。
もっとも、その利益を長英自ら得て、贅沢をした訳ではない。
ただただ、長英は自らの実力を誇示したいという気持ちがあっただけであろう。

その長英は、「戊辰夢物語」において、諸外国を打ち払ってまで鎖国を続けようとする幕府の姿勢を批判した。
時に天保八年、大坂で大塩平八郎の乱が起きて、幕府がぴりぴりしている頃である。
翌々年の天保十年に蛮社の獄が起き、長英は牢獄に繋がれる。
長英はこの天保十年から、天保十五年六月まで五年の永きに亘り、牢獄の住人となっていた。
当時、懲役という刑罰はなく、牢獄は未決囚が押し込められている場所であった。
ここまで永く長英が牢獄に入れられていたというのは、世論を恐れた幕府が長英に極刑を言い渡せなかったからである。
不潔な牢獄で、勝手に病を得て、勝手に死んで欲しい、というのが幕府の本音だったであろう。

しかし、長英は別の道を選ぶ。
自らの牢獄に火を放ち、脱獄する道である。
脱獄してからの長英は、様々な土地へ行き、英邁な藩主や、進取の気性に富んだ人々の庇護を受けている。
この頃には、昔の剃刀のように頭脳明晰だが、傲慢なだけの長英ではなくなっていたであろう。
そして、限りある自分の余生について想いを寄せていたに違いない。
敢えて危険を犯してまで、江戸に戻ったのもそうしなくてはならならい理由があったからだ。
その際に自ら薬品で顔を焼いたのは、もちろん人相を変えるという意味もあったのだが、自らの決意を忘れまいとした、とは考えられないだろうか。

江戸に潜伏した長英は沢三伯という偽名を使い、医者を生業とした。
庭に木の葉を敷いて、町方の踏み込みには警戒していたが、「往診をお願いします」という声に油断して出たところ、町方に取り囲まれたと言う。
応戦したが、多勢に無勢、最期は自ら短刀で喉を突いて自害したというが、真相は、長期の逃亡を許した責を負っていた町方が殴り殺してしまったらしい。
咎人は生け捕りが原則であるから、ダブルのミスを指摘されないように、町方が「自殺」というシナリオを描いた。
当時、指揮をとっていたのは鳥居耀三。
江戸末期に咲いたいかにも毒キノコ然とした毒キノコである。

長英が死して三年後の嘉永三年(1853年)、ペリーが浦賀に来航。
早過ぎた長英の死であった。

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高橋東岡と伊能忠敬

2013年04月16日 | 江戸の人物
伊能忠敬。
日本測量史に燦然たる輝きを残した人物であり、現在も知名度は極めて高い。
高橋東岡。
本名、高橋作左衛門至時。大坂奉行所の同心の息子として生まれ、後に暦学者として第一の地位を占めるようになった人物である。
この東岡の下に忠敬が弟子入りしたのは寛政七年(一七九五年)。
歴史に詳しい方ならば、忠敬はかなり年下の師匠に弟子入りしたと覚えておられるかも知れない。その師匠が東岡である。
東岡の息子は高橋景保という。
景保は、シーボルトに御禁制の日本地図を渡した咎により、牢獄に繋がれ獄中死した。いわゆるシーボルト事件であるが、この事件で記憶されている方もおられるだろう。
東岡の名は忘れられ、息子の景保は本人の意思とは無関係な場所で歴史に名を刻んでしまった。
歴史的な観点からは、正確な日本地図を作った忠敬は偉大であり、寛政暦を作った東岡の名は後世にあまり伝えられていない。

忠敬が江戸にいる景保の下に弟子入りしたのが五一歳のとき。景保はまだ三十二歳に過ぎない。二十歳近く年の差ががあったが、忠敬は全く気にしなかった。
もともと平均寿命が今よりも短い江戸時代にあって、五十歳から新しいことを始めようと決意するのは容易なことではなかった。
容易でない事柄を成そうと決意した忠敬は年齢とか世間体などはどうでもいいことだったのだろう。

忠敬は十七年の永きに亘り、日本国中を測量し、詳細な日本国地図を完成させる。
その際、幕府に忠敬の登用を強く推薦したのが東岡である。
測量によって学者としての忠敬の地位は不動のものとなったが、その地位は東岡の働きかけなしには築けなかった。

東岡は忠敬よりもかなり年下であったのに、忠敬より早世した。
東岡が亡くなってから、忠敬は江戸にいれば毎日、東岡の墓である源空寺に足を向け、地方にあっては江戸の方角に礼拝するのであった。
そして、最期は遺言により、東岡の墓の隣に埋葬して貰ったのである。
忠敬の考え方は、江戸時代の封建思想に基づいた抹香臭い考え方なのであろうか。

スポーツ界を見ていると思うのだが、現代では師弟関係はビジネスになってしまった。
師匠は見込のない弟子はすぐに見捨てるし、弟子も師匠を見限る。
もちろん、そうでない関係もあるのだろうが、日本の師弟関係は浪花節的な考えから、欧米流の契約社会的な考えに移行しているように思う。
師は弟子の能力を伸ばすことを約束し代償を得る。
弟子は約束が契約通り履行されているかどうか確認し、不履行の場合は、契約を破棄する。
忠敬は自らの努力もあり、師匠の東岡の実績を抜いた。
契約社会的な発想であれば、契約は履行されたということになる。
それは、なんと冷たい考え方であろう。

恩という言葉が封建的で古臭い感じがするのは否めない。
だが恩は契約の中で生まれるものではない。新しいとか、古い、といった観点で見るのではなく、日本人に備わった美徳であると考えるほうがいいのではないだろうか。
与えられた恩は忘れず、自分が受けた恩を誰か別の者に返していく。
恩とは他人だけのものではなく、自分自身のものでもある。
与えられた恩を回していくと、運気も向上するはずだ。

東岡にまつわるエピソードとして次のようなものがある。
東岡の家は貧しく、季節になると庭になった柿を売って家計の足しとした。
夜中になると悪ガキたちが来て、その柿の実を盗んで行ってしまう。
東岡は屋根に登り、天体を観測しているのだが、悪ガキが柿を盗みに来ないか、再三にわたり庭をも気にしていなければならないので、気が散って仕方なかった。
ある日、外出から帰ってくると、柿の木が根本からばっさりと切られている。
妻に問うと「切ったのは私です。あなたは屋根に登っても空と下を交互に気にしておられます。そんな学問の邪魔をする木は、切ってしまったのです」
と答える。
東岡は妻の意気に感謝し、その後、ますます精進して、学者としての地位を築いた。
何か、いい話だ。

師を敬い続けた忠敬も、東岡も人間的な魅力に満ちていた人物だったに違いない。

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ポンペの晩年

2013年04月05日 | 江戸の人物
ポンペは日本の医学界にとっての大恩人である。
ヨハネス・レイディウス・カタリヌス・ポンペ・ファン・メールデルフォールトという長い名前のポンペは幕末、幕府から長崎に招聘されたオランダ人である。

医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職務を選んだ以上、もはや医師は自分自身のものではなく、病める人のものである。もしそれを好まぬなら、他の職業を選ぶがよい。

長崎大学医学部の碑板にも残されているポンペがこのような発言をしたのは、彼がまだ30歳代前半だった頃である。
残っている写真を見ると、随分貫禄があるようで、とても30歳そこそことは思えない。
日本に来た頃のポンペの医師としてのキャリアもそれほどではなかったと考えられるが、頑固爺のような強硬さをもって、単身でポンペは日本人たちと渡り歩いている。

その後、ポンペはオランダに帰国し、結婚。無事子供も生まれている。
榎本武揚は箱館に籠ってまで政府軍に一矢報いようとした人物であるが、赦されて明治七年当時はロシアとの国交に当たっていた。
その頃、ポンペが再び活躍している。

かれ(榎本武揚)は、ポンペが外国の政治情勢に精通しているのを知り、旧知の間柄であることからロシアに招いた。
ポンペは、榎本の依頼でロシア側の動きを探って樺太・千島交換条約の締結に貢献し、その功によって日本政府から勲四等旭日小授章を贈られた。


ここまでは非常に順調であったが、晩年は悲惨である。

その頃(日本から勲章を貰った頃)から、かれは医学の教育研究からはなれて牡蠣の養殖事業に専念するようになり、ベルギーとオランダの間を往き来した。
事業は順調であったが、晩年に至って失敗し、多額の負債を負って親類縁者に迷惑をかけ、非難された。
一九〇八年(明治四十一年)十月三日、かれは貧困の中でブリュッセルで死亡した。七十九歳であった。


ここまで見てくると、長崎大学の碑にあるポンペの言葉というのも若輩者の青臭い戯言であるような気もしてくるのである。
よく言われるように、明治維新の頃の主役級は驚くほど若い連中であった。
海外から招かれた講師陣も若かった。
ポンペにどのような心理的変化があったのかは知らない。
人生の達観者のように思えたポンペが人生の最期において、借金まみれというあまりにも俗人じみた環境に置かれてしまったのは、人生の怖さを感じる。

参考:暁の旅人(吉村昭)講談社

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