木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

切腹

2012年12月29日 | 武士道の話
切腹の話。

現代の感覚からすると、江戸時代には切腹が数多く執り行われていたように錯覚しがちであるが、実際は意外なほど少なかった。
戦乱の時代、切腹は戦場に咲く華であった。
負けを悟った際、自ら腹を掻き捌いて、大見得を切りながら死ぬのは勇猛な武士の最期として誠にふさわしかった。
徳川の御代となり、太平の時代が続くと、戦場はなくなったが、仇花である切腹は残った。

徳川幕府が興って八十五年後の元禄から享保年間にかけて、武士道という考えが発生し、古実・伝習などの作法を知っていることが武士の嗜みとされた。
かつて戦場においては豪快に腹を搔っ捌けばよかったのであるが、数々の手順に従わなければ、切腹もできなくなった。

伊勢貞丈の「凶礼式」山岡敏明の「切腹考」工藤行広の「自刃録」、「切腹口決」星野葛山らの「武学拾粋」など、いわゆるハウツー本が江戸中期には盛んに刊行された。
切腹の作法を知っていることが、武士の教養として求められたのである。

天保十一年に上州沼田藩士・工藤行広が表した『自刃禄』の頃になると、かなり具体的な内容になっている。
 
『切腹の作法は、其座に直り候と、検視へ黙礼し、右より肌を脱、左へと脱終り、左手にて刀を取、右手に持替、左手にて三度腹を押撫、臍の上一寸計を上通りに、左へ突立、右へ引廻す也。或は臍の下通りが宜しと云う。深さ三分か五分に過ぐからず、夫より深きは、廻り難きものなりと云』

ここには丁寧に腹の切り方が書いてあるが、実際に行われていたのは扇子腹という方法である。
三宝の上に置かれた九寸五分の短刀に手を伸ばした途端、介錯人が首を刎ねる手筈になっていた。しかも、三宝の上に置かれるのは短刀ではなく、扇子である場合が多くなっていた。

幕末になると、状況が変わってくる。
慶応四年二月の土佐藩士によるフランス人海兵殺害、いわゆる堺事件の責任をとって十一名が割腹した。
またイギリスの外交官・アルジャーノン・B・ミットフォードの著《TALE OF OLD JAPAN》(昔の日本の物語)に紹介された例も有名である。この例は、慶応四年一月、神戸事件の責任から備前藩士・滝善次郎が古来の作法に則り切腹している。

もっとも、滝善次郎の例は、新渡戸稲造が「武士道(シヴァリー)」で紹介してから一躍有名になったという。
太平洋戦争で武士道だとか、割腹自殺などが喧伝されたのも、「武士道」の影響が大きい。

切腹が我が国民の心に一点の不合理をも感ぜしめないのは、他の事柄との連想の故のみではない。特に身体のこの部分を選んで切るのは、これを以て霊魂と愛情との宿るところとなす古き解剖学的信念に基づくのである。

それ(切腹)は洗練されたる自殺であって、感情の極度の冷静と態度の沈着となくしては何人もこれを実行するを得なかった。(武士道)


アメリカ大統領のトルーマンは「ナチュラルな死を不道徳と思えばこそ、やつらはハラキリで飛ばしてくるのだろう。まともに相手をしていられぬとあれ(原爆)を試してみることにしたのだ」(トルーマン回顧録)と語っているが、この言葉は「武士道」の読後感だという説もある。
つまり、「武士道」の存在が原爆投下と直接関わっているというのである(八切止夫「切腹考」)。

トルーマンの説は詭弁に過ぎないが、切腹の本質を碧い眼の外国人が理解できなかったとしても無理はない。なにせ、江戸時代も遠くなった昭和期にあって、日本人にしろ、切腹の意味について理解しているかどうか疑問であったからだ。
切腹を「桜は潔く散る」だとか、白装束に赤じゅうたんのような様式美として捉える人も多い。
だが、有名な「花は桜木 男は武士」などというもっともらしい言葉は後世に作られたものに過ぎないし、私たちが切腹と言われて思い抱く光景は、多くが歌舞伎の演出による部分がほとんどである。

通常、切腹の座には白木綿五幅とあわせ風呂敷を敷いた。身分の高い切腹人の場合は、畳三畳のうえに、一畳の布団を敷くことになっていた。
赤毛氈を敷くのは、畳に血が通らないための工夫であって、美的な効果を狙ったものではない。
切腹が庭で行われる際には、敷物を敷いたが、これは呆然となっている切腹人が履物をうまく履けない場合が多かったためだ。
赤穂浪士の切腹も時間の都合上、切腹の儀式はほんの少しで、実のところは斬罪でしかなかった。
新渡戸教授が絶賛したような「極度の冷静と態度の沈着」を持った武士ばかりがいた訳ではなく、だまし討ちのように首を落とした例もある。
「武士」の中にも、いろいろな人間がいたということだ。今の世の中だって、臆病な自衛官がいるかも知れない。
いつの世も、ひとくくりで語れないのが人間である。

あまり語られないようだが、武士が腹を切るには、重大な訳があった。
なんらかの嫌疑を掛けられた武士は、釈明の場を与えられる。
その際、出頭して申し開きができなければ刑に服すことになる。罪人を出した家は、当人の処罰には留まらず、禄は没収され士籍は削られる。
いわゆる御家断絶である。
自刃して病死との届けを出すと、本案は不起訴となり、処刑を免れる。
天保の改革の中、譴責を受ける予定だった柳亭種彦は直前になって死んでいる。
もともと言いがかりに近い譴責だったが、逆に言えば、罠であるから、どのように取りつくっても申し開きができない可能性が高かった。
種彦には病没説もあるが、このタイミングの死は、自害の可能性が高い。
現代でも政治家や秘書などが重大な裁判の前に自殺をする場合があるが、似たような考えなのかも知れない。

江戸時代は病気による若死にが多いが、届出は病没でも実際は自害である場合が多かった。
これらは公式の記録では病死であるので、正確なところは分からない。
自害したとしても、腹を切って死んだかどうかは、なおさら分からない。

SEPPUKU CEREMONY(youtubeの映像)

徳川刑罰図譜


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無礼者! ホントの切り捨て御免②

2007年11月26日 | 武士道の話
上記の設問で、注目すべきは、三人を裁く者がそれぞれ違うということである。

留吉・・・町人・・・・町奉行
前川吉衛門・・・大番方与力・・・老中
吉田吉之丞・・・島津藩士・・・島津藩主

三人三様であるから、それぞれの裁きの結果が他の者に影響を与えることが考えられる。
吉田吉之丞は、行きずりの武士でしかないのであるが、この場合のように他の武士から助けを求められれば、援助する必要があった。この場合は、その用をなさなかったばかりか、町人に転ばされて、周囲の失笑を買っている。所属しているのが九州の剛、島津家であることを考え併せると、切腹は免れないのではないだろうか。
その際、町奉行に対して、留吉の身柄を島津藩に差し出すよう要求を出すと思うが、町奉行ではその要求に応じるわけがない。結局、留吉に対しては、適した罪科を見つけることができず、軽い罪で済んでしまう可能性が濃厚である。
前川吉衛門に対する刑は、判断が分かれるところだが、吉田吉之丞に対する求刑に影響を受けるところが大きいと思う。
本件では、吉田吉之丞が切腹申しつけられたのであるから、前川にも同様な刑が申しつけられると考えられる。この場合だと、武士二人が腹を切っているのであるから、留吉にも極刑が言い渡される可能性が出てくる。どちらにしろ、無礼討ちは、その場において可能であり、侮辱を受けた武士が一回屋敷に帰ってから、思い直して無礼討ちを敢行するなどということはできない。③などは問題外である。
武士の面目を失った二人は、軽い刑で済むことはないが、一人が閉門であれば、もう一人も閉門で済む可能性もある。その場合だと、留吉に対しては、適した罪科を見つけることができず、軽い罪で済んでしまう可能性もないことはない。結局、天国か地獄かのどちらかであろう。




福本清三さん

2007年07月25日 | 武士道の話
久々にハリウッド映画「ラスト・サムライ」を観た。
その理由は福本清三という人の書「おちおち死んでられまへん」という本を読んだからだ。
福本さんは脇役、というか脇役の脇役、エキストラ専門の俳優である。役柄は斬られ役がほとんどだと言う。
その本を読んでいて面白かったのは、福本さんはフリーの俳優ではなく、東映の契約社員で、月給制であり、定年もある、ということである。
俳優というと華やかなものを想像しがちであるが、大部屋付と呼ばれる福本さんのような存在なしには、映画も成り立たないのが事実である。
さすがに豊富な経験の持ち主だけあって、面白いエピソードがたくさんあるのだが、主役俳優について絶対に悪口を言わないところなど、さすがである。
新幹線に置いてある雑誌の「エッジ」に掲載されていたのだが、昔の俳優は色男でも顔が大きかった。現在、小顔の俳優がもてはやされるのは、求められる俳優に可愛らしさ、少年性が求められるからだという。本書にも、北大路斤也の父親である市川右太衛門について述べている部分がある。この御大も例に漏れず、顔が大きかったと言う。旗本退屈男の撮影の時である。そのビッグフェイスに白いドーランを塗りたくり、つけまつげをして、額に三日月傷の市川御大に斬りかかろうとする若かりし頃の福本氏。「ぬぬっ」とにらみつける御大。「その顔の大きいこと!」、あまりの怖さに斬り込めず、「斬り込み方が遅い!」と御大に叱られてしまったそうである。異形とも言えるような大げさなメイクのビッグフェイスに至近距離から睨まれては、確かに迫力満点で怖かったのでないかと思う。その点では、今どきの小顔ベビーフェイスで睨まれても迫力はありゃしない。
その福本さんが、「ラスト・サムライ」に出演することとなる。
トム・クルーズ演じるオールグレン大尉の見張り役兼警護役(サイレント・サムライ)という設定で出演。
福本さんは、この映画では、変なあごひげと月代をしっかり作っているせいか、猿っぽい顔になってしまっているが、浪人の髪型にすれば、痩せ形と相まって表情次第では残忍にさえ見える人なのだが。
アメリカへ入国する時のエピソードが面白い。
映画は全て地毛で行くでいくという前提で、頭の両側の髪を長いまま残し、トップをばっさりとカットした福本氏。逆モヒカン刈の様相である。そのままではさすがに不審がられるだろうと、野球帽を被って入国審査へ。パスポート所得時はパンチパーマ。野球帽を取るように言われ、指示に従うと、見たこともないような異様な髪型が・・・。さすがに自由の国アメリカでも仰天したらしい。ヤクザではないかと疑われた福本氏はなかなか入国できなかったと言う。
五百人のエキストラを使い、準備と撮影で三ヶ月の期間を要したというハリウッド映画。
永らく日本映画の内部を見て来た福本さんをうならせるのに十分。
最初にこの映画を観た時は、どうしても時代考証に気が行きがちで、「あそこは違うな」「ここも違うな」などとチェックしてしまったが、福本さんに言わせるとスタッフは、「どうやってこんなに調べたかと思うほど資料をあたったみたいだ」とし、「見事な時代考証だ」と言わしめている。
考えてみれば、日本の時代劇だっておかしなものだ。
「ひとぉつ、人の生き血をすすり、ふたぁつ、不埒な鬼を」なんて言ってる間に斬りかかってきけばいいわけだし、どういう訳だか主人公の背後に回った敵もひとりひとししか斬りかからない。おまけに斬った死体もいつの間にかなくなっている。人を斬った時の「ぶしゅ」などという効果音もおかしなものだ。
背景にしても、奉行所の門にわざわざ「南町奉行所」と書かれていたり、居酒屋などの設定もメチャメチャである。
それから考えてみれば、「ラスト・サムライ」の間違いを責めてもいられない。
DVDの付録として、背景を作った人たちのインタビューも収められているが、このインタビューも興味深い。
リリーなんとかという女性なのだが、1876年と1877年の差異にこだわっていて、1877年には電話線が架設されていたというこで、電話線のある明治の東京の風景が描写されている。この場面は、前近代と近代が交わるところとして、必要性を感じていたのだろう。1877年には西郷隆盛の西南の役が起こっているので、この映画のモデルがその辺りにあることも分かる。そして確かに日本で最初に電話が通じたのが1877年であるから、しっかりした時代考証ということになる。
ただし、日本人としては桜と藤が同時期に咲いていたり、黄色のピーマンが農家に植えられていたり、ともっと気になるがいくらでもあるのだが。
この映画の振り付けは「グラディエーター」の振り付け師が行ったということで見応えがある。ただ、回転技しながら敵を斬るなどというのは、長い日本刀向けでないような。
あと、これは日本の時代劇にも言えることだが、刀を鞘から抜くときに金属音がするが、あれは気になります。鞘は木製であるから、金属音はしません。細かいことですが・・・。

おまけですが、効果音についてこんなHPを見つけました。興味がある方はどうぞ。

「おちおち死んでられまへん」 福本清三 小田豊二 集英社文庫


時刻のはなし①

2006年06月23日 | 武士道の話
江戸時代の時間は、現代人と感覚があまりに違うので、現代では、一刻(イットキ)=2時間という説明が一般的である。
これは単純に24時間を12で割ったからに過ぎない。
大体、小説でも、
六ツ(夕方6時頃)
などと括弧書きで説明が入れられている。

一覧にしてみると、

(現代)  (江戸時代)     
 0時・・・九ツ       
 2時・・・八ツ
 4時・・・七ツ
 6時・・・明六ツ ・・・日の出
 8時・・・五ツ
10時・・・四ツ
12時・・・九ツ
14時・・・八ツ
16時・・・七ツ
18時・・・暮六ツ ・・・日の入り
20時・・・五ツ
22時・・・四ツ

と、なる。

昼と夜がそれぞれ6つに分割されていた。
明六ツから、暮六ツが昼の部で、暮六ツから明六ツまでが夜の部。
深夜0時と正午12時を九ツとし、夜の部は九ツから始まって四ツへと逆に数えていく。
四ツの次はまた九ツにもどって、逆算していく。
一~三までは時刻に存在しなかった。
実にへんてこりんであるが、そう決まっていた以上、現代人がいまさら文句を言うわけにもいくまい。

この時間の特徴は日照時間によって、昼と夜の一刻の長さが変化していく点である。
現代だって、
「夜って何時から?」
と、聞かれたら、
「夏と冬では違うからなあ」
と、思う。
その感覚である。

ここで、東京の夏至と冬至の時間を見てみる。

夏至 昼14時間35分  夜  9時間25分
冬至 昼 9時間45分  夜 14時間15分

これをそれぞれ6で割ってみると、江戸時代の一刻と近似した時間が得られる。

夏至 昼2時間25分 夜1時間34分   
冬至 昼1時間38分 夜2時間23分   

実際には、江戸時代では下記のようになっていた。

夏至 昼2時間40分  夜1時間20分
冬至 昼1時間50分  夜2時間10分


夏と冬では昼間の一刻が50分も違う。
これによると、夏至は暮六ツが19時38分であるのに対し、冬至では17時7分になる。
同じ暮六ツでも、かなり違うと思いませんか?
暮六ツ=18時頃
という説明に無理があることがお分かり頂けたかと思います。

このややこしい不定時法であるが、江戸の人も多くの利点があったから採用していた。

第一にこの方法だと太陽の位置で大体の時間が分かる。
江戸の人はよほどでない限り時計など持っていなかったので、お日様の位置で時間が分かるのは大層便利だったのである。
時の鐘もあったし、分刻みのスケジュールを余儀なくされる現代人とは違うから、それで十分だったのである。
第二に、照明器具の乏しいこの時代は、太陽の明るさを利用しないと生活できなかった。日照時間により、昼間の長さを変化させることは非常に大事だったのである。
現代では24時間、昼間と変わらない光を持ち得たが、その代償として、24時間仕事をなし得る環境となってしまった。
どちらが、いいのだろうか・・・・。

大江戸生活体験事情 石川英輔・田中優子 講談社文庫
時代小説が書きたい  鈴木輝一郎 河出書房新書
江戸深川資料館 パンフレット
 

サムライ 真剣勝負②

2006年06月15日 | 武士道の話
前回の池波正太郎の曾祖母と全く同じことを言った人がいる。
渡辺誠氏は、著書の中で箱根の古老が伝聞した話を紹介している。
幕末。
伊庭の小天狗こと、心形刀流の伊庭八郎と小田原藩鏡信一刀流の高橋藤太郎の一騎打ち。

それは映画などで見るようなものとは、なかなかわけが違ったといいます。旧道の幅が二間(3.6m)から二間半あるその端と端に立って、こう向かい合って、気合ばかりでちっとも接近しない。汗びっしょりだ。それからチャリンと音がしたかと思ったら、伊庭八郎の手首が切り落とされていた。高橋のほうは首筋を斬られて即死だったそうです

二人とも当時、かなりの遣い手であったということであるが、その二人をもってしても、真剣勝負は、このようなものだった。
また、渡辺氏は、井伊直弼を襲撃した水戸浪士の蓮田市五郎の「憂国筆記」も引用している。

  刀を抜きてからは間合いも確かに知らず、眼はほのか暗くこころは夢中なり、試合稽古とは又一段格別なり。
 こう記しています。抜刀するや眼前が暗くなり夢でも見ているような心持ちになったかれは、味方の増田金八という者と知らずに戦っていたといいますが、この急撃ではいわゆる同士討で疵を負う者が甚だ多かったということです


いくら動転しているとはいえ、味方同士で戦うまで、我を失うとは、真剣を持っての斬り合いは、想像を絶するものだったに違いない。
池波正太郎の話も渡辺氏の話も時代が幕末近くになってからのもので、武士のDNAも戦国時代とは大きく変化しているのは事実であろう。
集団闘争と1対1では、精神状態も全然違うのだろう。
飛び道具とは違い、相手の肉体に触れ得れば相手を即死させる殺傷能力を持ちながら、相手の息を感じるほどに接近し、刀と刀を接触させて戦う日本刀という武器の独自性がこれほどまでの緊張感を生むのかも知れない。

江戸時代ともなると真剣勝負の当事者となった武士というのはごく少数だったに違いない。
幕末百話は、辻斬りが趣味だった武士の話で始まっているが、実際に人を斬ったことのある武士は少なく、切捨て御免などということは、長い江戸時代でもほとんど実例がなかったそうである。

田沼意次が没落する原因となった実子意知が佐野善左衛門に城内で殺害されたのは、天明四年(1784年)。
江戸中期のことである。
意知は、同僚3人の後から、桔梗の間に入ったが、そこで佐野善左衛門に襲撃されている。
驚いた同僚は腰も抜けんばかりにほうほうの体で、その場を逃げ出した。
大勢の者が桔梗の間に駆けつけたが、みな呆然と立ち尽くすばかりであった。
善左衛門は這って逃げようとする意知を更に二度ほど突き刺した。
やがて、大目付の松平対馬守忠郷が駆けつけ、善左衛門を羽交い絞めにした。
対馬守は70歳の高齢であった。
この件により、善左衛門はもちろん切腹、対馬守は二百石の加増、その場に居合わせながら止められなかったものは、多くが厳しく処罰されている。
武士といっても、刃物を持った者は怖かった。
この事件を見る限り、武士もさほど現代人の感覚と変わらないような気がする。

刀と真剣勝負  渡辺誠   KKベストセラーズ
田沼の改革   関根徳男 郁朋社

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サムライ 真剣勝負①

2006年06月13日 | 武士道の話
水戸黄門では、8時40分くらいになると、角さん、助さんが敵?をバッタバッタと斬り倒している。
あれだけの敵を相手にしては、峰打ちも難しそうだし、一体彼らは一週間に何人殺すのだろう?
しかも、相手は、「それ行け!」と悪代官に命令されただけの罪のない侍たちである。

時代劇のチャンバラが架空であるということはよく言われている。
日本刀では、そんなに何人も斬れないとか、日本刀の性能面から見て言われる。

ハードはともかく、江戸時代の武士の意識はどうだったのだろう?

第二次世界大戦中、日本軍の精神的スローガンにされてしまった「葉隠」の冒頭の一説、
「武士道とは死ぬことと見つけたり」
は、あまりにも有名だ。
「葉隠」は江戸中期(享保元年頃)、肥前佐賀藩士山本常朝が著した書である。
この一説を読み、
「やはり、武士というのは主君や、理あるところには命をなげうって殉職も厭わない人たちだったのだろう」
と思うのは早計かも知れない。
戦国時代や乱世の余韻の治まりきらなかった江戸初期はともかく、江戸時代も中期以降になってくると、泰平の空気が武士にも伝わり、武士は戦闘員としての性格を弱めていく。
さきほどの「葉隠」の中にも、敵に向かったとき、目の前がまっくらになるが、少し心をしずめるとおぼろ月夜くらいの明るさをとりもどす、
ということを述べている箇所がある。

池波正太郎も、自著の中で曾祖母から聞いた話をユーモアを交えて紹介している。

時代劇の剣戟シーンになると、
「ちがう。ちがう」
つぶやきながら、しきりにくびを振った。
「塚原朴伝のような名人ならともかく、ふつうの侍の切り合いは、あんなものじゃない。よくおぼえておおき」
曾祖母は、松平家に奉公をしていたとき、実際に、侍の切り合いを見ている。
維新戦争で、上野の山に彰義隊がたてこもり、新政府軍がこれを攻めたとき、
「私たちは、みんな長刀を掻い込み、鉢巻をしめて、殿さまをおまもりしたのだよ」
と、曾祖母は、カビが生えた梅干みたいな顔に血をのぼらせて、
「そのとき、彰義隊が一人、御屋敷の御庭に逃げ込んで来た。官軍が一人、これを追いかけて来てね、御庭の築山のところで、一騎打ちがはじまった」
それを、目撃したのである。
二人は刀を構え、長い間、睨みあったまま、動かなくなってしまったという。
それは気が遠くなるほどに長い、長い時間だったそうな。
そのうちに、二人が、ちょっと動いたとおもったら、官軍のほうが、
「大きな口を開けたかとおもったら・・・・」
うつぶせに倒れてしまった。
曾祖母のはなし半分にしても、おそらく、
そんなものだったろう。


以下②へ・・・

葉隠 教育社   松永義弘訳
江戸切絵図散歩 池波正太郎 新潮社