木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

龍勢と自走火舟

2008年09月05日 | 江戸の花火
花火ネタをもう一題。

江戸時代の農学者に佐藤信淵という人がいた。彼は、文化五年(1808年)に長崎で起きたフェートン号事件にショックを受け、海防の必要性を強く認識した。アイデアマンの佐藤は、「自走火舟」というものを考え出し、江戸湾において実験を行った。この自走火舟というのは、小型の舟の両脇に「龍勢」を取り付け、その火力で夷狄の船に体当たりさせるというものである。いわば、魚雷のようなものだ。
昔、この話を聞いたときは、あまりに荒唐無稽であるように思った。
それは、「龍勢」=打揚花火のように思っていたからである。
「龍勢」とは多くの呼び名が残っているが、昼間にあげるものを龍勢、龍生、龍水などと呼び、夜に揚げるものを流星、竜星などと言った。
これは、厳密に言うと、打ち上げ花火ではなく、狼煙から発展した、もっと初期的なものである。
現在もあるロケット花火と構造的には変わらない。
少々ややこしい話になるが、打揚花火は、打上筒の中に入れた打上火薬の爆発により、推進力を得る。一方の龍勢は、自身が体内に持つ火薬の燃料する力を推進力に変えている。わかりづらい説明かも知れないが、宇宙に向かうロケットも構造的には龍勢と変わらない。
さて、その龍勢であるが、写真などで見ると、あまり見栄えがよくない。
どうしても、夜空に開く見事な打揚花火と比較すると、写真では見劣りがする。
しかし、現物を見ると、驚愕するに違いない。
耳をつんざくような発射音。
青い空に白い煙を残して見事に上がっていく雄姿。
話は前後するのだが、先の「自走火舟」。龍勢の火力をみると、あながち不可能ではないような気がする。
しかし、有効距離はごく短いだろう。自走火舟の有効射程距離まで敵に近づいていったら、それまでにやられてしまうだろう。
詳しい実験結果は、よく分からないのだが、その後、引き続き実験が行われていないところを見ると、やはり、無理があったのだろう。


写真は、火薬筒。花火を知った人は、打ち上げ筒のように思うかもしれないが、この中に火薬を詰めています。
龍勢の画像はYOUTUBEで下記のものを見つけた。外国のニュースながら映像が綺麗なので、これを推奨します。
なお、ニュースの最後で言っている「バン・ファイ」というのは、正式には、ボン・バン・ファイといい、タイのものである。意味は、ボン=祖先に対する供養(祭り)、バン=竹、ファイ=火である。東南アジアでは、タイのほか、中国、ラオス、インドなどで同様のものが見られると言う。


秩父の龍勢祭り(動画)


龍勢の系譜と起源(吉田町教育委員会)
静岡の花火(静岡市立登呂博物館)

↓ よろしかったら、クリックお願い致します。


玉屋と鍵屋②

2008年09月03日 | 江戸の花火
前回の続き。

さて、玉屋と鍵屋であるが、まず玉屋の「優れた腕」というのは、打ち揚げ花火に他ならないと思う。
文化一年(1804年)の「甲子夜話」に打ち揚げの文字が見えるとされるが、従来の流星型および吹出し型の花火から、今のような打ち揚げに移行していったのは、文化・文政の頃であるのは、間違いないところだ。
移行、と言ったものの、打ち揚げ花火の構造はトップシークレットであっただろうし、広くは伝播していかなかった。
打ち揚げの概念を持ち込んだのが、玉屋ではなかったか。
西暦でいうと1777年には、その名声が広まっていた玉屋。
火事を起こしたのが、1843年。その間、66年。
仮に1777年に25歳だったとしても、玉屋は火事の年には、91歳になっている。ある記事によると、玉屋は、火事のあった天保十四年の数年前から、中風の後遺症で寝たきりになっていたとあるので高齢であったのには、違いないであろうが、少し高齢過ぎるような気がする。
この計算で行くと、鍵屋を独立した文化八年(1811年)、玉屋は59歳ということになる。これでは、異例の抜擢とは言えない。
ここで導き出される推論としては、

①玉屋独立の前に、別の玉屋があった。
②鍵屋から独立したとされる玉屋は、二代目であった。


では、ないだろうか。
個人的な見解では、技術力のあるベンチャー企業と老舗の企業が提携した、という図式ではなかったか、と思う。
玉屋は、鍵屋の持っている大川での利権を、鍵屋としては、玉屋のもっている技術力を得たかったので、手を結んだ、ということである。
すると、上の推論のうち②である。
どちらにしても、1777年に既に名声を得ていた玉屋がひとりで(一代で)1843年まで走り続けるのは、無理がある。
もし、②の推論を取り、1777年に二十五歳だった先代玉屋が、三十の時に二代目を設けたとすれば、1811年当時、二代目は二十八歳。「異例の抜擢」にふさわしい年齢である。

形としては、総合的に力のある鍵屋が優位に話を進めて、玉屋を鍵屋の傘下に入れたような格好にするため、玉屋二代目を修行に来させた。あわせて、技術供与を求めたのではないか。
しかし、玉屋は、肝心なところは、教えなかった。あるいは、花火の世界が、現代のIT産業のように、日々技術革新が目ざましく、正式に玉屋に暖簾分けをし、大川半分の利権を与えらえて以降に、イノベーションがあったのかも知れない。
ゆえに、玉屋のほうが、技術力が上であったのである。

では、どうして、そのあたりのことが伝えられていないかといえば、この答えは明確で、火事を起こした玉屋は負組、残った鍵屋は勝組。
幕末の歴史が勝組である薩長土肥に都合がいいように伝えられてきたのと同じで、勝組である鍵屋の記録が伝承され、玉屋側から書かれた記録は抹消されて(あるいは最初からなかった)いるからである。

この項について、御意見、御情報のある方、ぜひお聞かせ下さい。

↓ よかったら、クリックお願いします。


玉屋と鍵屋①

2008年09月02日 | 江戸の花火
残暑はまだ厳しいが、8月が終わると、やはり秋が近づいてきた気がする。
昼の蝉の声に代わり、夜のこおろぎの声が耳につくようになる。
今年は、暑かった。
さて、去り行く夏を惜しむお題として、花火を取り上げたい。
花火が上がった時の掛け声「玉屋、鍵屋」の由来というのは、有名である。
「鍵屋」は、万治二年(1659年)に、篠原村の弥兵衛が江戸に出てきて、一躍幕府御用達の花火師となり、輝ける花火師の総本山とも言える鍵屋の歴史を始める。
「玉屋」は、文化七年(1810年)に鍵屋の手代であった清七が優れた腕を買われ、特別に暖簾分けを許され、独立したとされる。
鍵屋に飾ってあった稲荷が鍵を持っていたので、鍵屋の屋号としたが、もう一方では玉を持っていたため、分家は「玉屋」を屋号とした、云々。
どこの本を見ても、この説が採用されているが、実は、この説は非常に疑わしい。
疑わしい点を下記に書き出してみる。

①文化七年以前に、「玉屋」は存在していた。
②いくら腕がよくても、手代から独立する例はほとんどない。
③大川で「玉屋が上流、鍵屋が下流の花火を担当した」とあるが本家、分家であれば順序が逆ではないか。


このうち、①であるが、1777年発行の「中州雀」という書物の中には「玉屋玉屋と喝采するも、鍵屋と誉むるを知らず」という文句が見える。浮世絵の中を見ても、1810年以前に描かれた絵の中に玉屋の屋号がいくつも描かれている。
②については、清七の役職を番頭としているものもあるが、多くは手代となっている。いくら技術集団の中でも、江戸が身分社会であることを考えると、手代から独立することと言うのは、ほとんどあり得ない。では、番頭だったとすると、清七が独立した時、何歳だったんだ、という疑問が残る。
③は、少し蛇足で、切絵図を見ると、玉屋上流、鍵屋下流であっても、店のあった位置を考えると自然に思える。もっとも、上流、下流を交互に担当した、という説もあり、必ずしも玉屋上流、鍵屋下流ではなかったようである。

では、事実はどうであったか。
個人的な解釈は、明日に書かせてもらいます。

↓ よろしかったら、クリックお願い致します。