木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

観海流~津藤堂家泳法

2014年04月03日 | 江戸の文化
観海流は、武州浪人の宮発太郎信徳が紀州の能島流を基に編み出した水術である。
津には嘉永五年(一八五三年)に伝わっていた。
泳法は平泅(ひらおよぎ)を主としている。
現代のブレストと呼ばれる平泳ぎと似た泳法だ。
平泅(ひらおよぎ)は速度こそ出ないが、長い距離を少ない疲労度で泳げるのが、最大の特長。
なるべく水の抵抗を少なくするために水面と身体を平行に保つ現代競泳とは違い、身体の角度は水面に対して四十度程度に保ち、常に顔を水上に出して泳ぐ。
推進力は、もっぱら足によって得る。上下動しないように蹴る蛙足。
手は平たい円を描くような気持ちで運ぶ。水を搔くというよりも、掌で水を撫でる感じである。
海海流の命名者は津藩家老であった藤堂帰雲。
海を陸の如く観る(観海如陸)と帰雲が詠んだ句から名付けられた。
嘉永六年からは有造館でも教授されるようになり、正式に津藩の水術の流派となったのである。

全体にゆっくりと泳ぐイメージの古式泳法であるが、速く泳ぐ方法もある。抜き手という泳ぎ方だ。
抜き手は現在のクロールのように片手ずつ交互に抜き出す泳ぎである。
観海流には、一つ拍子抜手、三つ拍子抜手、諸抜手の三種類があるが、一つ拍子抜手は最も速度の出る泳ぎで、早抜手とも呼ばれた。
顔を上げたまま行う点、足はバタ足ではなく蛙足である点が現代のクロールの泳ぎ方とは最も違う。

観海流は、始祖・宮発太郎の後、弟子の山田省助によって発展していく。
明治期になっても、盛んだったが、スピード種目としての水泳競技が確立されるにあたって、古式泳法は西欧の泳法に速さの点でかなわず、急速に衰退していった。
しかし、プールで泳ぐ水泳とは違い、変化の激しい海や川で泳ぐ際に、古式泳法は有効である。
100mを何秒で泳ぐか、ということよりも、長距離を安全にしまも少ない疲労度で泳ぎ切ることのできる古式水泳は、再度見直されてもいい泳ぎだ。



阿漕にある宮発太郎の像

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踏み絵

2013年07月02日 | 江戸の文化
踏み絵は、以前はよく時代劇で目にしたが、最近ではあまり見ないような気がする。
実物も見たことがなかったのだが、先日名古屋の栄国寺に併設された切支丹遺跡博物館で本物の踏み絵を見た。
簡単な説明文によると「はじめは紙にキリストの像を書いたものを使い、破れるから木板の像、最後にはこのような銅板のものをつかうようになった」とある。
実際に見てみると、意外なくらい立派である。こんなところにも日本人の律儀さというか、手の細かさが感じられる。
やはり安っぽい踏み絵よりは、高そうな踏み絵のほうが確かにありがたみがある。
その分、切支丹にとっては踏みづらかったのであろう。

切支丹遺跡博物館



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大江戸歴史講座

2013年05月25日 | 江戸の文化
晋遊社から「大江戸歴史講座」が出版されます。
「講座」とタイトルが付いていますが、小辞典的な本です。
十一章に分かれ、語句の解説が行われているのでが、かなりマニアックな章もあります。

一章 江戸の博打
二章 江戸の宝くじ
三章 江戸の観光
四章 江戸時代の武器と剣豪
五章 江戸・上方風俗くらべ
六章 江戸の商売
七章 江戸の娯楽
八章 江戸時代の食文化
九章 江戸の植物と薬種園
十章 江戸の火事と喧嘩
十一章江戸の町奉行所

八人の共同執筆なのですが、私は六章江戸の商売、七章江戸の娯楽を担当させていただきました。
後で内容を見ると、もっとマニアックな項目にしてもよかったかな、と思っていますが、内容としては辞典というよりも、雑学集のような感じで、どこから拾い読みしても面白いと思います。

【賽】どうして賽子(サイコロ)が六角形なのか知ってるか? 天地東西南北をかたどったからだぜ。ちなみに天が一、地が六、東が五、西が二、南が四で、北が三に対応しているんだ(一章)

【パイナップル】弘化二年(一八四五)、オランダ人が長崎に持ち込んだ(九章)span>

など他の本ではなかなかお目に掛からない項目が多くなっています。
江戸の有名人が解説するという形を取っているのだが、私は江戸の商売を十返舎一九、江戸の娯楽を上野彦馬と堀江鍬次郎を選択しました。
これもかなりマニアックな人選。
肩の凝らない豆知識として読んでいただくには、好適書だと思います。

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虫聴き

2012年05月30日 | 江戸の文化
虫聴きという言葉を知ったのはもう随分前で、東京は墨田区にある向島百花園に行った時だった。向島百花園は以前から夏から秋にかけて虫聴きの会を行っている。
だが、江戸時代、虫聴きの場所として名高かったのは道灌山である。
道灌山は現代に残っていない地名であるが、JRの日暮里から田端の線路の辺りである。
感じとしては、京浜東北線の田端から赤羽に向かっていく左手に見える丘が道灌山のようにも思えるが、その感覚は半ば当たっていて、古くは日暮里から赤羽の丘をも道灌山と言ったらしい。
確かに日暮里の辺りは高台であり、江戸時代には日光、筑波の山並み、下総の国府台などが見え、近隣も一望できた。

さて、虫聴きであるが、花見のように、虫聴きは酒の口実で、実際のところは酒を飲みたかっただけのようにも勘ぐることができるが、「詞人吟客ここに来りて終夜その清音を珍重す」と江戸名所図会にもある通り、主役は酒ではなく、あくまでも虫の声だったようだ。
下の絵は江戸名所図会からの抜粋だが、三人の男が思い思いに虫の声を楽しんでいる。酒を飲んではいるようだが、何とも風流な光景だ。今の花見のように、カラオケやラジカセを持ちこんでドンチャンというのとはえらく違う。江戸の夜は本当に暗く、静かだったから、このような場所に来たら、場合によっては一晩をここで明かしたのかも知れない。
江戸の町内に住んでいる人は現代で言うキャンプのような感覚で虫聴きを楽しんでいたのだろうか。
男三人で、虫の声を聴きながら酒を飲む、というのは、やはり風流だ。
現代の感覚からすると、どんなイベントが近いのだろう。いずれにせよ、気が合う友人というのは、有り難い。
年齢を重ねてくると、若いときとは違って段々、ものの考え方が狭まってきてしまうものだが、価値観が似通った友人は何事にも代えがたい財産である。

虫売りも江戸の町には存在した。
飼っている間は、虫の声を楽しみ、盆に放してやるのが一般的だったので、6月上旬から7月盆までがピークの商売で、盆以降は売り上げが減った。
虫の種類としては、ホタル、コオロギ、松虫、クツワムシ、玉虫、ヒグラシなど多くの種類がいた。
生き物商売だからか、棒手振りのような行商よりも、固定店舗(といっても屋台のようなものが多かった)での販売が多かったという。
現代では、鳴かなく外来種のカブトムシだとかクワガタが人気だが、これも時代なのだろう。
カブトムシやクワガタも悪くないが、少なくとも風流ではない。

そういえば、虫の声を楽しむのは日本人だけだ、といった内容を耳にしたことがあるので調べてみると、ドイツではこおろぎの声を楽しむためにカゴを用意していたらしい。
ただ、多くの種類の虫を聴き分けるというのは、繊細な日本人ならではの感覚のようだ。
インターネットを調べていて、ドイツ人はチョコレートコーティングしたコオロギを食べる、というサイトを発見したのだが本当だろうか。もっとも、コオロギはフリーズドライした原型を留めないもので、ジュリア・ロバーツも愛食していると言う。一種の健康食のカテゴリーなのだろう。
日本人はもっとワイルドでイナゴだとか、タガメだとか、ザザムシを食べて来たのだから、驚くには足らない。イナゴの唐揚げだけは食べた経験があるし、また食べていいと思うのだが、残りは食べる気がしない。もっとも、イナゴだとかタガメなどは、残留農薬のほうが心配だ。

おまけとして、虫の声を聴けるサイトを発見した(real playerが必要)ので載せて置きます。

参考: 江戸名所図会を読む(東京堂出版) 川田壽著



鈴虫の販売をしている松井スズ虫研究所
(以前、何回もここからスズムシを買っていました。懐かしい!)

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蔦屋重三郎~江戸の版元

2012年05月20日 | 江戸の文化
江戸初期、文化の中心は上方であった。
文化後進国である江戸においても、四代将軍・家綱の明暦年間(一六五五~一六五八年)になってくると出版業が企業として成り立つようになる。
その頃はまだ京都資本系が圧倒的に優位であったが、後に江戸資本の版元も力を付け、上方系資本に対抗するようになった。
江戸の版元は、自らの利益確保のために、書物問屋地本問屋という組織を結成。時代の流れと、企業努力もあり、元禄年間位から江戸系と上方系の実力は拮抗し始め、宝暦年間(一七五一~一七六四年)には、江戸系が上方系を凌駕していった。
前出の書物問屋とは、儒学書、歴史書、医学書など固い関係の本を扱う版元で、地本問屋とは草双紙のように江戸の地で出版された地本を扱う本屋である。
有名な地本問屋としては、鶴屋喜右衛門鱗形屋孫兵衛山本九左衛門などがいる。
須原屋市兵衛
(「解体新書」「海国兵談」などを出版し、幕府から睨まれた)のように書物問屋として有名ながら、地本問屋の仲間組織に入っている者もいた。

江戸の地本問屋として現代、もっとも名が知られているのは、蔦屋重三郎であろう(蔦屋も後に書物問屋に加盟)。
レンタルショップのTUTAYAが名前の由来とした蔦屋重三郎は、寛延三年(一七五〇年)一月七日、吉原に生まれた。本名・柯理{からまる}。七歳のときに両親が離縁し、蔦屋を経営する喜多川氏に養子に行く。その頃の蔦屋は茶屋を営んでいたというが、はっきりしない。ともあれ、安永二年(一七七三年)に重三郎は吉原大門のすぐ近くで吉原のガイドブックである「吉原細見」の卸し・小売を始める。
「吉原細見」の版元は鱗形屋であり、蔦屋は鱗形屋の直営店の扱いであったが、わずか数年後の安永四年、鱗形屋が今でいう著作権問題で大打撃を受けた隙に乗じて、「吉原細見」を発行。それ以降は、鱗形屋版吉原細見と蔦屋版吉原細見が並行出版されていたが、鱗形屋が衰退し出版業界から退場していったのに従い、吉原細見だけでなく、鱗形屋の専属作家であった恋川春町などを抱えるようになった。
天明三年(一七八三年)九月、蔦屋は一流の版元が名を連ねる日本橋通油町に進出。
蔦屋に関わり深い作家としては、先ほどの恋川春町に加え、朋誠堂喜三二、山東京伝、唐来三和、十返舎一九、滝沢馬琴、絵師としては喜多川歌麿、写楽などがいる。

重三郎は、田沼時代に蔦重サロンといってもよい独自のネットワークを形成し、江戸の名プロデューサーとして名高いが、ミスも目立つ。
もっとも大きい事件は、黄表紙から引退したいと言っている山東京伝を無理やり口説いて新作を発表し、寛政の改革の筆禍に引っ掛ったことである。そのほかにも写楽の登用から蜜月関係にあった歌麿との仲に亀裂が入った挙句、鳴りもの入りの写楽もフェイドアウトしていった点、葛飾北斎の才能を開花させらなかった点などが挙げられる。

それでも重三郎に対しては称賛の声が聞こえるばかりで、非難の声は聞こえてこない。
普通の人間ならすっかり自信を失ってしまうような場面でも、重三郎は前向きである。
重三郎の軌跡を見ていると、常に何か新しいことをやらねば済まない、といった気質が見てとれる。
現状維持では、後退。前進することによってのみ、今の地位が保たれるといった心情があったに違いない。
逆境ですら変化は好ましいと思っていたのかも知れない。
過去の栄光に拘泥することなく、未来を見つめる姿。重三郎の眼の先には何が見えていたのだろう。

寛政八年五月六日朝、病の床で死期を悟った重三郎は死後の家事や妻への最期のあいさつを済ませ、昼に自分は死ぬだろうと予言。
しかし、昼を過ぎても死ななかった重三郎は「命の幕引きを告げる拍子木がまだ鳴らない」と笑ったと言われる。
少しの時間差はあったものの、その日の夕刻に死す。享年四十八歳だった。

参考
蔦屋重三郎 (講談社学術文庫) 松木寛
東京人 2007年11月号

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