かがみはら百科+「川上貞奴と各務原」
各務原歴史民俗資料館(令和4年1月29日発行)
川上貞奴は、日本で最初の近代女優と言われた女性だ。
本名は、小山貞。
明治4年(1871年)両替商を営む小山久次郎の12番目の子どもとしてうまれた。
実家の没落に伴い、日本橋葦町(よしちょう)の芸者置屋の浜田屋の女将・可免(かめ)の養女となる。
人気芸者となった貞は、16歳のときに「奴」を名乗るようになる。
このときの後ろ盾は初代総理大臣の伊藤博文らであった。
23歳のとき、貞奴はオッペケペー節で一世を風靡した新派劇の創始者・川上音二郎と結婚。
芸者の世界から離れる。
音二郎の一座は、アメリカやイギリス、フランスへ公演に行く。
海外での公演で、男性が女性役を演じるのは気味悪がられたため、貞奴は「仕方なく」女優となった。
ピカソやロダンなども貞奴に夢中になったという。
帰国後、音二郎は茅ヶ崎に三千坪の松林を購入し、「萬松園(ばんしょうえん)」と名付けた新居を建てた。
音二郎は明治44年(1911年)11月に逝去。
貞奴は、その後も一座を率いたが、大正六年(1917年)に女優を引退。
引退のときの記念品として、貞奴は、
「兎にも角にも 隠れ住むべき 野菊かな」
と焼き付けた白磁の湯呑を配った。
福沢桃介は、旧姓岩崎。
福沢諭吉の次女・房(ふさ)と結婚して福沢姓となった人物である。
貞奴が15歳のときに、成田山まで参詣に行った際、野犬に襲われた。
その危機を救ってくれたのが岩崎桃介であった。
それ以来、貞奴は桃介と交際するようになったのだが、1年後に桃介が房と婚約し、ふたりの仲は破局してしまう。
貞奴が音二郎と結婚した後は、桃介は一座の後援者として裏で貞奴を支えた。
音二郎の死後、貞奴と桃介は急接近。
大正8年(1919年)には名古屋市東区二葉町に「二葉居」と名付けた新居を完成させる。
桃介はのちに「電力王」と呼ばれる実業界の実力者であったが、その元となる財力は諭吉の七光りではなかった。
明治28年(1895年)北海道炭鉱鉄道の石炭主任として働いていたころ、結核となってしまい、会社を辞め入院した。
これが不幸中の幸いとなる。
入院中、桃介は相場で小金を儲け、さらにその儲けを株式に投資して巨利を得る。
ここから、桃介の快進撃は始まる。
大正3年(1914年)名古屋電灯株式会社の社長に就任した桃介は、木曽川の水力発電事業に乗り出す。
大正13年(1924年)11月、木曽川電力開発事業の中で最難関と言われた大井発電所が完成。
桃介は昭和13年’1938年)2月15日、東京の渋谷邸で永眠。
貞奴は、昭和4年(1929年)に木曽川のほとりに別荘を建て、茅ヶ崎と同じ「萬松園」と名付ける。
東京の牛込河田町に住んでいた貞奴は、1月、5月、9月のそれぞれ28日に萬松園を訪れ、10日ほど滞在した。
その貞奴は昭和21年(1946年)12月7日に肝臓がんのため逝去。
貞奴は菩提寺である成田山貞照寺に「八霊験絵図」を寄贈した。
これは貞奴が画家の岡田如竹(おかだにょちく)に彫らせた木版である。
そこには貞奴の人生のピンチが描かれている。
第二面には、桃介の出会いとなった野犬に襲われた場面、第五面には音二郎と小舟で相模湾を漂流した場面が描かれている。
貞奴にっとては音二郎に対する愛情も、桃介に対する愛情も本物だった。
男に追従するのではなく、自分の道を貫いたといえる。
裏ではいろいろ言われたに違いないが、信じる道をまっすぐに歩いた貞奴の姿勢には圧倒される。
音二郎との結婚式
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各務原歴史民俗資料館(令和4年1月29日発行)
川上貞奴は、日本で最初の近代女優と言われた女性だ。
本名は、小山貞。
明治4年(1871年)両替商を営む小山久次郎の12番目の子どもとしてうまれた。
実家の没落に伴い、日本橋葦町(よしちょう)の芸者置屋の浜田屋の女将・可免(かめ)の養女となる。
人気芸者となった貞は、16歳のときに「奴」を名乗るようになる。
このときの後ろ盾は初代総理大臣の伊藤博文らであった。
23歳のとき、貞奴はオッペケペー節で一世を風靡した新派劇の創始者・川上音二郎と結婚。
芸者の世界から離れる。
音二郎の一座は、アメリカやイギリス、フランスへ公演に行く。
海外での公演で、男性が女性役を演じるのは気味悪がられたため、貞奴は「仕方なく」女優となった。
ピカソやロダンなども貞奴に夢中になったという。
帰国後、音二郎は茅ヶ崎に三千坪の松林を購入し、「萬松園(ばんしょうえん)」と名付けた新居を建てた。
音二郎は明治44年(1911年)11月に逝去。
貞奴は、その後も一座を率いたが、大正六年(1917年)に女優を引退。
引退のときの記念品として、貞奴は、
「兎にも角にも 隠れ住むべき 野菊かな」
と焼き付けた白磁の湯呑を配った。
福沢桃介は、旧姓岩崎。
福沢諭吉の次女・房(ふさ)と結婚して福沢姓となった人物である。
貞奴が15歳のときに、成田山まで参詣に行った際、野犬に襲われた。
その危機を救ってくれたのが岩崎桃介であった。
それ以来、貞奴は桃介と交際するようになったのだが、1年後に桃介が房と婚約し、ふたりの仲は破局してしまう。
貞奴が音二郎と結婚した後は、桃介は一座の後援者として裏で貞奴を支えた。
音二郎の死後、貞奴と桃介は急接近。
大正8年(1919年)には名古屋市東区二葉町に「二葉居」と名付けた新居を完成させる。
桃介はのちに「電力王」と呼ばれる実業界の実力者であったが、その元となる財力は諭吉の七光りではなかった。
明治28年(1895年)北海道炭鉱鉄道の石炭主任として働いていたころ、結核となってしまい、会社を辞め入院した。
これが不幸中の幸いとなる。
入院中、桃介は相場で小金を儲け、さらにその儲けを株式に投資して巨利を得る。
ここから、桃介の快進撃は始まる。
大正3年(1914年)名古屋電灯株式会社の社長に就任した桃介は、木曽川の水力発電事業に乗り出す。
大正13年(1924年)11月、木曽川電力開発事業の中で最難関と言われた大井発電所が完成。
桃介は昭和13年’1938年)2月15日、東京の渋谷邸で永眠。
貞奴は、昭和4年(1929年)に木曽川のほとりに別荘を建て、茅ヶ崎と同じ「萬松園」と名付ける。
東京の牛込河田町に住んでいた貞奴は、1月、5月、9月のそれぞれ28日に萬松園を訪れ、10日ほど滞在した。
その貞奴は昭和21年(1946年)12月7日に肝臓がんのため逝去。
貞奴は菩提寺である成田山貞照寺に「八霊験絵図」を寄贈した。
これは貞奴が画家の岡田如竹(おかだにょちく)に彫らせた木版である。
そこには貞奴の人生のピンチが描かれている。
第二面には、桃介の出会いとなった野犬に襲われた場面、第五面には音二郎と小舟で相模湾を漂流した場面が描かれている。
貞奴にっとては音二郎に対する愛情も、桃介に対する愛情も本物だった。
男に追従するのではなく、自分の道を貫いたといえる。
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