木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

堀江鍬次郎

2008年12月07日 | 江戸の写真
堀江鍬次郎。文政十三年(1831年)~慶応二年(1866年)。
幕末の津藩、藤堂高猷に仕えた百五十石取の武士である。
有造館の師、斉藤拙堂の推挙を受け、第二期長崎海軍伝習所生ともなっている。
その際に、知合ったのが、日本写真史上、下岡蓮杖と並び、最も有名な上野彦馬である。
写真史上の大きな足跡とすれば、鍬次郎は、藤堂高猷から百五十両もの大金を引き出し、写真機をイギリスから取り寄せた。
ダルメイヤという人が作ったダルメイヤB三類というレンズをつけたピカピカの写真機が届いたのは、注文してから半年後。この新しい写真機は、鍬次郎と彦馬の若い心をひどく昂揚させたであろう。
鍬次郎二十九歳、彦馬二十二歳。
安政の大獄の嵐が吹き荒れた安政六年から二年後の文久元年(一八六一年)のことである。
この後、彦馬は、高猷の要請もあって、江戸、津と鍬次郎と行動を共にする。
鍬三郎は、彦馬と共著で、「舎密(せいみ)局必携」という化学の本を著す。
文久二年の秋には、彦馬は長崎に帰っている。
彦馬はその後、写真家として華々しくサクセスストーリーを作っていく。
一方の鍬次郎は、どうであろうか。
鍬次郎は、江戸詰が長かったのだが、長崎遊学以後は、津にいることが多かった。
尊敬する斉藤拙堂の下、有造館でも教鞭を取ることが多く、また藩士の軍事的な教育にも当たった。
文久三年に起きた天誅組の変制圧にも参加している。
その後、福岡藩に養子に行った高猷の三男・黒田慶賛(よしすけ・後に長知と改名)の相談役として九州に渡る。
しかし、慶応二年、36歳という若さで夭逝している。

鍬次郎の死が急だったこともあり、津では早い時期に写真術が根付かなかったとされる。


よかったらクリックお願いします。




鵜飼玉川~日本初のプロカメラマン

2008年11月30日 | 江戸の写真
写真というのは不思議だ。
瞬きもできないくらいの短い時間、露光しただけで、画像が写ってしまう。
デジタルカメラなどは、さらに不思議だ。
「カメラ」という語自体は、「カメラ・オブスクラ」の略でラテン語で「暗い部屋」を意味すると言い、発明はアリストテレスの昔に遡る。もっとも、この「カメラ」はレンズを通じて写される光学的画像を楽しむだけで、画像の保存が利かなかった。
画像が保存できるようになるのは、ぐっと下って一八三九年のことである。この頃の写真は、「ダゲレオタイプ」と言って、紙ではなく、銀板に画像を写すものであった。
一八四八年(嘉永元年)には、日本に入ってきている。諸藩は、今で言うIT技術のように、写真技術をステイタスと捉えており、盛んに研究が重ねられた。
しかし、民間の人間のほうが熱心であった。
職業写真家の嚆矢は、鵜飼玉川(うかいぎょくせん)という人物である。玉川は、常陸府中藩士の第四男であったが、一八五九年(安政六年)、昨年締結された日米通商条約に基づき開港された横浜港に行った折、日本で初めて写場を持った若き写真家O・E・フリーマンから技術を習い、一八六一年(文久元年)には江戸の薬研堀に「影真堂」という写場を設ける。だが、この時、玉川は54歳となっており、一八六九年(明治二年)、玉川62歳の時に、写真から撤退している。直接の原因は、焼付けの不備から保存していた画像が消えてしまったことらしい。
玉川は、谷中墓地に眠っているが、その墓の横には写真塚が設けられている。
かつて、玉川の死後、彼が撮影した多くの写真がその塚に埋められたため、現在はっきりと玉川の写真だと言えるものは、数少ない。
写真業を引退してからは、もともと興味のあった書画骨董の世界に没頭したといい、谷文兆らとも交流があった。
上野彦馬、下岡蓮杖といった写真創世記のビッグネームに比べて、鵜飼玉川の名前はあまり知られていない。活動も僅か八年間であり、どのような弟子がいたかもはっきり知られていない。
だが、「日本初のプロカメラマン」という称号が玉川のものであることに変わりはない。

幕末Nippon 角川春樹事務所

↓よろしかったらクリックお願いします。


木村謙之介のメダル