木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

水野忠邦①~青雲之要路

2008年11月22日 | 人物伝
水野忠邦の評判は芳しいものではない。
明治の時代まで30余年となった天保において、最後の悪あがきともとれるような天保の改革を行い、幕藩体制の立て直しに尽力したのが忠邦である。
唐津から浜松へ転封し、中央界への強い憧れと野望を抱く忠邦は、自ら「青雲之要路」と名付けたサクセスストーリーを組み立て、夢を着々と現実のものとしていく。その様子からは、実務や根回しにも長けた能吏としての一面を覗くことができる。豊穣の地唐津から、浜松へ移る時の藩士達への説得、老中になるための人脈の選定、賄賂の使い方など、善し悪しはともかく、その行動は的を射たものである。
忠邦が藩主として、もっとも力を入れたのは幕藩体制の立て直しであり、そのために再編による強化を狙った。この時、忠邦は収入源である対農民政策に最も重きを置き、更には質素倹約による風紀粛正を図ろうとした。しかし、生産能力にも倹約にも限界がある。その分は富商からの借財によって賄ったが、しばしば、浜松藩はこの借金を踏み倒した。商人の犠牲により、藩政建て直しを行おうとする政策は表層的なもので、長続きはしない。
商人にも現代のような税金を掛け、奪い取るのではなく、合理的に搾取すればいいのではなかったか、と思うのだが、経済の動きは複雑で支配階級である武士にはよく理解できなかった。
たとえば、浜松では、綿が特産物であり、忠邦としては、綿を専売制にしたかったのであるが、実際は専売制はとれなかった。これは、経済市場が多様化・自由化してきて、為政者の力を以てしても統制不能な状況に陥っていたことを示す。市場規模が大きくなればなるほど、この傾向は強くなる。地方ですら、このような状況であるから、幕府においては、商人を思い通りに操ろうとするのは、至難の業であった。
これらの関係は、かつては政府統制であった米の流通制度にも似ている。
米は、生産者から農協(あるいは商人系集荷)を通じ、経済連(あるいは集荷組合)を通して、さらに全農(あるいは全集連)を経て入札され、登録卸売業者から小売業者へ販売されるのが正規のルートであった。
消費者としては、米は米屋さんから買うしかなかったのであるが、今では食管法が変わり、生産者からも直接買うことができるし、ドラッグストアやガソリンスタンドでも米を販売している。
これも、経済市場の変化が、ボトムアップの形で法律を変更させた一例である。
これと同じことが、江戸の中期以降は、頻繁に発生していた。

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水野忠辰

2008年11月19日 | 人物伝
元文二年(1737年、将軍は八代・徳川吉宗)、岡崎藩に若き藩主が誕生した。水野忠辰(ただとき)14歳。
彼は学問好きで、経済難にあえぐ藩政を儒教の教えにのっとって、改革しようとした。
徹底した節約や人材登用などは、取り立てて目新しい政策ではなかったが、かといって机上の理想論ではなかった。
藩の現状をよく認識したうえでの、具体的かつ有為な案が多かった。忠辰は封建制度のもたらす悪弊が藩に広がり始めていたことを自覚し、積極的な対応策をとろうと画策する。
重臣たちが門閥を形成して、権力を集中しようと腐心しているのが藩政腐敗の原因の温床となっているとし、中級以下の武士であっても実力があれば取り立て、門閥政治に対抗しようとした。
養子制度なども中下級武士にも有利なように改定し、若い層の支持を得た。
また、一部の家老に対しても、処分を加え、先制攻撃に成功した。
しかし、その後の忠辰の運命は過酷である。
結託した家老軍のボイコットに逢い、藩政は立ち行かなくなった。
結局、家老たちの言いなりになるしかなく、せっかく中下級から登用した者たちも罷免するしかなかった。
失意の忠辰は狂ったように放蕩を始め、家老たちへのあてつけで、湯水の如く金を浪費した。見かねた実母・順性院は、一命を賭して我が子を諌めようと自裁したが、忠辰は却って、自暴自棄の度合いを高めた。
家老たちは、忠辰を座敷牢に閉じ込め、幕府には「発狂」として届けた。
忠辰は座敷牢で憤死する。享年29歳。

江戸時代、それも中期以前、忠孝の精神は絶対であったかのような印象がある。
だが、結局は今も昔も人の感情や欲望には、たいした変わりがない。
為政者に求められるのは思いつきではなく、ビジョンである。
忠辰の政策は、ミクロで見れば優れた部分が多かったし、方向も間違ってはいない。
だが、到達地点も示されていなかったし、一命を賭してまで成し遂げる覚悟もなかった。
若かったから、無理もない、とも言えるかも知れない。だが、若くても大事を成し遂げた人物もいる。吉田松陰も亡くなったのは三十である。

最近、人間の実力というものを考える。
人には得手、不得手があって当然だが、オールマイティにすべての分野において高得点な人がいいのだろうか。それとも、不得意分野の得点は低くても、得意分野が突出しているのがいいのだろうか。
アインシュタインだったと思うが、高額の小切手を栞代わりに使い、そのままなくしてしまったエピソードが残っている。ノーベル賞を取るような科学者が、日常生活で物忘れが激しく、預かった原稿などもすぐなくしてしまうとしても、笑い話になるかもしれない。けれども、一般のサラリーマンが、ミスプリントや、計算ミスを繰り返していると、それだけで、全体像までマイナスイメージになってしまう。

話は戻る。
忠辰は希望に燃え、ある程度の信念も持っていたが、覚悟が足りなかった。根回しをするだけの智力もなかった。自己認識も低かったといえる。
だが、わたしは好きである。
与えられた権限を天賦のものとして、なあなあで上手くやっていこうとすれば、忠辰も可能だった。
それを敢えて、改革を行おうとしたのは、若さゆえといえなくもないが、青臭いような若者が、老練な家老連中を相手にして敵わなかったとしても恥ではないと思える。

ちなみに、この忠辰は、天保の改革で有名な水野忠邦の曾おじいさんにあたる。
(2013.1.22加筆修正)

水野忠邦 吉川弘文社 北島正元
大名の日本地図 文春新書 中嶋繁雄

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