木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

大奥は将軍のハーレム?

2008年07月24日 | 大江戸○×クイズ
問い:徳川将軍家の中で、正妻の子供が将軍になった例はない。ウソ? 本当? 答えは、文末に。

徳川時代というと、大奥というハーレムが存在し、権力者の将軍たる者、大奥の女中を自由に取替え引き換えできたと思う人も多いのではないか。
だが、徳川時代というのは、決して将軍一人の独裁政権ではなかった。海外に目を移すと、それこそ「独裁政治」ということが、今でも行われている国もあるが、日本という国は有史以降、平成の今に至るまで、本当の独裁政治というのがなかった国と言える。
徳川の江戸時代でも同じである。将軍は将軍なりにプレッシャーを感じながら暮していた。その一番が、世継ぎを設けることである。意外なことなのであるが、徳川十五代の中で、正室(正妻)との間に子供が出来たのは、家康・秀忠・家光・家宣・家治・家斉・家慶・慶喜の八人、約半数だけである。家治と正室の間には男子が生まれず、家宣・家治・家斉の正妻が生んだ男子は五歳未満で没している。そう考えてくると、正室との間に生まれて成長したのは僅か三人だけということになる。
冒頭の問いの答えからすると、秀忠の子、家光のみが、正室との間に生まれて将軍になった子であったのである。
秀忠は、恐妻家と知られている。司馬遼太郎の「王城の護衛者」という松平容保のことを描いた小説の文頭に秀忠のことが出てくる。

「会津松平家というのは、ほんのかりそめな恋から出発している。
 秀忠の血統である。
 この徳川二代将軍は閨に律儀なことで知られていた。(中略)
 物堅さは、秀忠の性質らしい。
 しかしただ一度だけ、侍女に手をつけた。正夫人達子の侍女で、神尾という浪人の娘だった。
 すぐ妊(みごも)った。秀忠はおどろき、すぐ遠ざけて市中にさがらせた。
秀忠は、その正夫人達子を怖れつづけた男である。達子、別称はお江、豊臣秀吉側室だった淀君の妹である。達子は癇気がつよく、秀忠もそれを怖れすぎた。このためにただ一度の浮気の相手を、市井に投げすてるように捨てた」


この子供が初代会津藩主である保科正之である。
恐妻家の秀忠という面を描き、興味深い。側室は1~3人という将軍が多いのであるが、中でも一番多いのは、有名な11代家斉である。側室16人に54人の子供を産ませている。次には家康。19人の側室に17人の子供。もっとも、家康の場合は子供を政略結婚させ、政治を安定させようとした確固たる目的があった。意外なのは、吉宗で側室6人、子供が5人となっている。吉宗については、江戸城に乗り込むにあたっても側室を一人だけしか連れて来なかったとか、大奥の美人女中を解雇したとか、クリーンなイメージがあるが、側室の数は多い。もっとも、吉宗については、次のような記述もあると言う。

「吉宗公、将軍宣下仕給ふ事は誠に御立身成りしが、止みがたきは色情なり。(中略)三の間の女中の内、御相手なされ候女中多く、大奥将軍渡御の砌(みぎり)は殊の外御遊興有」
                                             「清濁太平論」

三の間は、お目見え以下なので、将軍が三の間の女中を自由にお手つきにできたのかどうかは分からない。資料の信憑性に疑問があるが、大奥も将軍によっては、ハーレムであったし、そう感じない将軍もいたに違いない。

答え:× (秀忠の子、家光のみ正室との間の子)

「江戸城」中公新書 深井雅海著
「司馬遼太郎全集20」 文芸春秋社
「徳川吉宗」角川選書 百瀬明治著

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江戸のツチノコ

2008年07月21日 | 大江戸○×クイズ
問い:江戸時代にもツチノコはいた。ウソ? 本当?   答えは、文末に。

橘南谿の「西遊記」を読んでいたら面白い項があった。
榎木の大蛇という項である。少し長いが、書き抜いてみる。

「肥後国求麻(くま)郡相良壱岐守殿御城下、五日町といへるところに、知足軒という小庵あり。其庵の裏はすなはち求麻川なり。其川端に大きなる榎木あり。地より上三四間ほどの所二またに成りたるに、其またの間うつろに成りいて、其中に年久しき大蛇住めり。時々この榎木のまたに出るを。城下の人々は多く見及べり。顔を見合すれば病むことありて、この木を通るものは頭をたれて通る、ことの常なり。ふとさ弐三尺まはりにて、惣身色白く、長さはわずかに三尺余なり。たとへば犬の足なきがごとく、又、芋虫によく似たりといふ。所の者、是を壱寸坊蛇といふ。昔より人を害する事はなしと也。予も毎度其榎木の下にいたりうかがひ見しかど、折悪しくてやついに見ざりき」

何だ、結局は見ていないのか、と思うが、これは江戸時代に野槌蛇と呼ばれたツチノコについての記述である。野槌蛇については「和漢三才図絵」にも記載がある。それによると、深山の木の洞に住み、大きいものは直径15cm、長さ90cmに及ぶという。頭と尾が均等で、口が大きく時々人を噛む、とある。坂より下る速度は非常に速いが、登る速度はゆっくりなので、この蛇に遭遇したら、高いところに登るのがよい、とアドバイスも書いてある。
これほど、伝統(?)のある蛇でありながら、正体不明というのは、不思議である。まあ、未知のロマンというのが世知辛い世の中にも必要なのかも知れない。

(ヨーちゃんの樹間暮通信社より借用)答え:○



「ももんじ」って何だ?

2008年07月20日 | 大江戸○×クイズ
問い:江戸時代まで日本人は、肉を食べていなかった。ウソ? 本当? 答えは、文末に。

幕末になるまで、日本人には肉食の習慣がなかったという。しかし、これは一般論である。日常的かつ広域的には肉は食べられてはいなかったが、一部の地方では肉が食されていた。たとえば、彦根。彦根では、牛皮を武具や道具に利用するため死んだ牛を解体する職人がいて、そこでは牛肉が食されていた。保存のための方法としては、干肉、味噌漬け、粕漬け、丸薬などが見られる。彦根牛肉は、将軍や大名にも贈答として用いられた。その常連としては、松平定信や寛政の改革を定信から引き継いだ松平信明などの名前が見える。また、面白いところでは、桜田門外の変で、井伊直弼を討った水戸藩の藩主徳川斉昭も2回ほど、依頼している。事件の十年ほど前のことである。近江では庶民も口にしていたが、滋養強壮が目的であったという。
では、豚肉はどうであろうか。これには橘南谿の「西遊記」に記述がある。

「安芸国広嶋の城下、其繁花美麗なる事、大坂より西にてはならぶ地なし。其町にぶた多し。形、牛の小さきがごとく、肥ふくれて色黒く、毛はげてふつつかなるものなり。京などに犬のあるがごとく、家々町々の軒の下に多し。他国にては珍しきものなり。長崎にもあれども少なし。是は彼の地食物の用にするゆへに、多からずと覚ゆ。唐土などには多く飼いそだてて食用にする事なり。琉球にも多しといふ」

一方、雑食の地、江戸などでは、肉食は、「ももんじ屋」という店で食べることができた。ももんじ(ももんじい)とは、尻尾のある妖怪のことである。まだ肉食忌避が一般的であったから、看板などには「山鯨」などと書かれていたという。今でも猪肉を牡丹、馬肉を桜などと呼ぶのは、その頃の名残である。
さて、ももんじ屋の内容を見てみると、

「麹町之獣は猪・鹿・狐・狼・熊・狸・かわうそ・鼬(いたち)・猫・山犬・鳶・烏・ウズラ、その他小鳥、搗鳥不逞計」 (名産諸色往来)宝暦二年(1749年)
と、何でもありのような状態になっている。鰻の蒲焼は、昔もそれほど手軽なものではなかったが、薬食いと呼ばれたももんじ屋は、手ごろな価格で魅力があった。
幕末になると、この手の店も増え、さらに、明治になると政府の奨励により、肉食が普通になった。
答え:△

「江戸東京辞典」三省堂
「西遊記」橘南谿
「彦根の食文化」彦根博物館



関ケ原の合戦場 ~Battlefield of Sekigahara

2008年07月15日 | 大江戸○×クイズ
問い:天下分け目の合戦のあった関ケ原は観光地になっている。ウソ? 本当?  答えは、文末に。

先日、所用があって関ケ原へ行った。帰り道に天下分け目の合戦と言われた関ヶ原の合戦があった場所に足を伸ばした。平日であったからか、訪れる人もなく、すれ違う観光バスも素通りしていく。この日は、関ヶ原の歴史資料館も休業だったからかも知れない。私と同じように、休みであることを知らないで来た中年の欧米人が舌打ちをしながら、去っていった。
合戦場というものは元来愉快なものではなく、観光地ではない。愛知県内にも、長久手や、小牧、桶狭間などの合戦上があるが、どこもうっそうとした暗さを感じさせる場所である。ただ、暗さだけではなく、歴史の持つ重みというものも感じさせる。松尾芭蕉が奥州高舘を訪れ、有名な「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」という句を詠んだのは、元禄六年(一六八九年)。芭蕉は、この地で没した源義経のことに思いを馳せたのであるが、訪れる者もなく、ただ静かな合戦地跡にたたずむと、芭蕉ならずとも、盛者必衰の理を覚えずにはいられない。
合戦地は、知名度の割には実際に見たことがない人のほうが多いのではないだろうか。日本の合戦上、最も有名な合戦である関ケ原の戦いがあったのは1600年9月15日。朝から霧の立ちこめる視界の悪い天気状況の中、東西両軍は二時間以上も、にらみ合いを続けたという。
石田三成は、笹尾山という小高い丘のような山に陣地を設けた。
最も頼りにしていた鬼の島左近を左翼最前線に置き、その後ろを島津豊久、島津義弘、小西行長、宇喜多秀家といった歴戦の強者で固め、右翼に小早川秀秋、更には、東軍を後方から囲むように毛利軍と吉川軍を擁した。
一方の家康は、最前線に福島正則、島左近の正面には黒田長政を置き、自らは全体の中位に位置した。
芭蕉が武士であったときに仕えていた藤堂家は福島軍のすぐ後ろに、また、安政の大獄を主導した井伊家も、藤堂軍のすぐ後ろに陣を張っていた。
よく指摘があるように、確かに、この陣形では、西軍有利と言ってもいいだろう。
右翼の松尾山に配置した小早川軍の寝返りにより、一気に合戦の形勢は東軍有利になる。歴史に「もし」はないが、寝返った小早川軍が、たとえば、東軍後方にいた毛利軍の位置にあったら、などと考えてしまう。この位置だったら、あそこまで形勢が決定的になることはなかったのではないだろうか。
三成が陣取った笹尾山は、合戦の石碑が建つ位置から歩いて5分程度のところ。整備され、ステップもつけられている。
酷暑の中、ゆっくりと、笹尾山に登る。強い日差しの中では流れるほどの汗が出るが、日陰に入ると、それほど暑さを感じないで済むのがありがたい。広すぎるステップに苦労しながら歩調を合わせ、登っていくとあっけないほど早く山頂に着く。10分も掛からない。丘程度の高さしかなくても、回りは平地であるので、よく見渡せる。そこには、両軍の布陣図があり、音声テープによる説明があった。
ここで、三成は、何を思ったのであろう。
400年の月日が流れては、戦いの痕跡はもう跡形もない。視野の先に、先ほど通った合戦の石碑が微かに見える。後は、田園風景の中、風が通り過ぎるだけであった。
答え:△~× (観光地かどうかは微妙です)
合戦のあった辺りは、一面の田園風景  眩しい青空の下、ぽつんと建てられた石碑。


御三家と将軍

2008年07月14日 | 大江戸○×クイズ
問い:御三家筆頭尾張家からは将軍が出ていない。ウソ? 本当? 答えは、文末に。

徳川家には、御三家があるのは常識中の常識。言うまでもなく、尾張、紀州、水戸である。
家康に始まる本家に嫡流が途絶えたときは、この御三家から次の将軍が出ることになっている。
尾張61万9500石、紀州55万5千石、水戸35万石と、それぞれ石高に違いはあるが、御三家筆頭の尾張藩が必ずしも、優先される訳ではなかった。
家康から始まった本家は、七代将軍家継がわずか8歳でなくなると、正式な世継ぎが絶えてしまった。家継の後、公方の座を引き継いだのは、享保の改革でも有名な吉宗である。
通常は、藩主が将軍の座を継ぐと、その藩は廃止となるのが慣わしであった。5代綱吉の館林、6代家宣の甲府がその例である。しかし、吉宗は紀州藩を存続させた。
そこで、自分の血筋を絶えさせないように設けたのが御三卿である。田安家、一橋家、清水家であり、一橋家からは家斉が出ている。最後の将軍、慶喜も一橋家の出であるが、慶喜の場合は、むしろ水戸出身といったほうが通りがいい。
こうやって徳川歴代将軍を見てくると、家康の流れを汲む前半、吉宗の流れを汲む後半、そして最後に、水戸、というのが流れとなる。尾張は御三家筆頭であるのに、将軍を出せず仕舞いで終わってしまったのであった。
答え:○
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家康は天皇の子孫? ~系図は嘘八百

2008年07月13日 | 大江戸○×クイズ
お題:徳川家康の祖先は天皇だった。ウソ? 本当? 答えは、文末に。

徳川家康を初代とする徳川家は、松平家から来ている。この松平家は遡っていくと八代前の親氏(ちかうじ)という人物までたどり着く。親氏を初代とすると、家康は九代目ということになる。さて、その先からが不明である。系譜上は、親氏は、有親、親季、政義と遡れるのだが、この三人は実在がかなりあやしい。年代を辿っていくと、どうにも時系列的におかしいことが多い。結論から言うと、家康が実在しない三人を作り上げ、系譜を捏造した可能性が高い。この家系を遡ると、世良田、得川、新田、源とつながり、貞純親王を通じて、56代清和天皇に繋がる。すなわち、家康の祖先は天皇家だったことになる。系図というのは、権力者が好きに書き換えてしまうことが多く、今のように調べる手立ても多いわけでなかったから、偽物であってもさっぱり分からなかった。よく物の本に家康は、最初藤原姓を名乗り、後に源氏姓を名乗った、とあるが、これは、源のほうが藤原家よりも天皇家に近く、格が上であったため、一気に源氏姓を名乗れなかったからである。源氏姓は、足利家所縁で、藤原姓は近衛家所縁であったため、家康は、近衛前久という人物に系図作成を相談している。前久に、系図のこの辺りに適当な人物を挿入するのがよかろうと朱引きしてもらい、家康は前久に礼金を支払っている(将軍家准摂家徳川家系図東求院殿御書)。1602年2月20日のことである。
このようなことは多々あり、秀吉も当初(1582年)は、「秀吉所世、元これ、貴きに非ず」(大村由己著「惟任謀反記」)と自ら言っていたのにも関わらず、
三年後の天正十三年には、
「その素性を尋ぬるに、祖父祖母禁囲(宮中)に侍す。(中略)大政所殿(母親)、幼年にして上洛あり。禁中の傍らに宮仕えすること両三年、下国あり。程なく一子誕生す。今の殿下これなり」
(大村由己著「関白任官記」)
と、まるで、天皇の落胤であるかのような書き方に変えている。
家康以降のものは、種種の記録も残っており、しっかりしているが、それ以前のものは、眉に唾をつけたものと見たほうがいいようである。
ちなみに、家康が徳川を名乗ったのも、新田所縁の得川に関連付けを試みたからである。
答え:系譜上では○。実際は嘘に決まってます→×
(徳川美術館 原史彦氏作成系図による)
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徳川家康三方ヶ原戦役画像~家康31歳のときの絵ということである。

食パン1斤くださいな ~ 1斤ってなに?

2008年06月18日 | 大江戸○×クイズ
問い:食パン1斤の斤とは重さの単位である。ウソ? 本当?  答えは、文末に。

尺や寸と言った長さの世界においては、江戸時代の言い方が現代社会においても、まだ若干残っているが、重さのほうは、すっかり追いやられてしまった。1寸=約3.3cm、1尺=33cmということを知っている方も、1貫や1匁が何gになるのか知らないことが多いのではないだろうか。
1匁は3.75gで、1貫は3.75kgである。
だが、この貫と匁の間にも、両、斤という単位も使われていた。
1斤=16両=160匁であった。
それぞれgに換算すると、
1斤=600g、1両=37.5gとなる。
ところで、食パンは、数える時に、1斤、2斤と数える。
食パン1斤は、600gもないと思うが、これはなぜだろうか。
実は、食パンはひとつ1ポンド=約450gという定義が明治に行われたのであるが、ポンドの和標記「听」と斤がごっちゃになって、誤標記されたためと言われている。
現代では、公正標記法により「食パン1斤=340g以上」というのが、基準となっている。
食パンの数え方「斤」は、重さの単位だったのである。
答え:○
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鬼平の嘘つき~花火編

2008年06月16日 | 大江戸○×クイズ
問い:江戸時代の打ち上げ花火は丸かった。ウソ? 本当? 答えは、文末に。   

花火というと、TV[鬼平犯科帳」のエンディングにもジプシー・キングの哀調を含んだ演奏をバックに鮮やかな玉が上がっているのが見える。まず、これは全く嘘である。鬼平のいた寛政あたりでは、このような花火は存在しなかった。
では、どんな花火があったかというと、まず、立花火。これは、長い木の先に今で言うドラゴンなどの吹き出し花火をつけたものである。花火の語源も、「花」ではなく棒の先を示す「端」であるという説もある。次に流星。昼のものを流勢といい、夜のものを流星という所もある。これは、今で言うロケット花火である。このロケット花火をばかでかくしたものが流星と思って貰ってもいい。現代でも、秩父や静岡の草薙、滋賀の米原などで、伝統的に揚げられている。写真で見ると、ぱっとしないのだが、間近で見ると凄い迫力である。花火というより、ロケットの打ち上げに近い。
それでは、現代でいうところの花火=打ち上げ花火がいつ頃登場したかというと、文化・文政の頃と言われている。しかし、これにしても、色は和火と言われる橙色のもので、鮮やかな色が出せるようになったのは、明治以降である。また、花火が丸く開くようになったのも明治以降と言われている。江戸の花火は、柳と言われる火の尾が長く後を引くものであったり、星がその場その場で単発的に開くものであったと思われる。この辺りのことは、なにせ写真がなかった時代のこと、浮世絵から想像するしかないのだが、写実的とは言えない浮世絵からでは、想像の部分が大きくなってしまうのも仕方がない。
答え:× (と思われる)


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象は偉いゾー~江戸時代の象輸入

2007年12月03日 | 大江戸○×クイズ
はなから、ベタなダジャレで恐れ入るが、下記は、誰だが分かるだろうか?
「従四位広南白象」 
実は、これは、享保一三年六月一三日に長崎に着いた牡の象のことである。
象が日本に来たのは、これが初めてではなく、三回目であったが、八代将軍徳川吉宗が自ら所望して、ベトナムから輸入したこの象は、日本中に大フィーバーを招いた。町人、武士、農民、果ては朝廷まで、このブームに乗り、長崎から江戸に陸路で来る途中、日本国中どこでも、一目、珍獣を見ようと人だかりができた。象が京都に来たときは、天皇、上皇までが象を閲覧したいと申し出た。当時は象といえども、無冠では天覧を許されなかった。
であるから、従四位の冠を与えて、天覧したのである。
天皇は、象をご覧になって、非常に上機嫌で、
ときしあれば他(あだし)の国なるけだものを
けふここのへに見るぞうれしき

と、和歌まで詠まれている。
江戸に上がった象は、吉宗に可愛がられ、一三年間、何度も江戸城に召し出されている。
一三年の後、象は民間に払い下げられることになるが、その頃になっても象人気は凋落しておらず、17,8人もの人間が払い下げに対して名乗りをあげたという。
結局、中野村(現中野区)の農民、源助というものに払い下げられた。寛保元年(一七四一年)のことである。
源助は、農民と言っても、掛茶屋も経営している、なかなか才覚に富んだ百姓らしく、象を見物しようとする者から見物料をとるなど、ちゃっかりしたところを見せた。
結局、翌年には、象は死んでしまうのだが、虎は死んで皮を残す、ではないが、象の骨や牙はその後も、ながらく見世物小屋などで人気を集めたということである。

徳川吉宗(角川選書)百瀬明治

クイズ

2007年07月11日 | 大江戸○×クイズ
○×ではないが、クイズなので、ここに分類します。(H21.9.12) 

南方熊楠は面白い人間だ。
 私には、世に伝えられた奇人というよりも、不器用で、生活に対して苦労して格闘したまじめ人間として映る。
 人間というのは、その人の年代に応じて生活態度や、ある時は考え方まで、変化させていかなければならないのかなあ、と思う。
 ある有名なラーメン屋さんに、「変わらないために、変わり続けなければならない」という言葉が書いてあった。
 変化しつづける客の嗜好に合わせるために(迎合するのではなく)自らも変化していかなければならない、という戒めであったが、熊楠は、一生変わらない姿勢を貫いたと言える。
 書いていたら、より正確なところが書きたくなって、一般に手に入る文献を読んでいるところである。
 熊楠については、近日中にもう一回書き直すとして、今回は、閑話休題、軽い記事にしたい。
 先日、本屋を覗いていたら、「クイズ大江戸風俗往来」という本が目についた。
 500円という廉価本ながら、正確な記述で、興味深かった。
 その中から、面白かったものを書き抜いて見る。

1.町火消しは、「め組」など、いろはに基づいて組が48あったが、なかった文字もある。
  その文字の代わりに百、千、万、本が充てられたが、なかった仮名四文字とはなんであろうか?
  ヒント:音感から嫌われた。3つまではなんとか分かるが、残り一つは難問。

2.江戸に醤油が広まるのは、中期以降であるが、蕎麦も江戸に出回った時は、醤油味ではなかった。
  さて初期の蕎麦の味は何であったろうか?
  ヒント:名古屋では簡単に受け入れられそう。

3.日本人は昔から「三大~」などという表現が好きであるが、江戸時代の三大珍味と言ったら?
  ヒント:今と似ている。

4.時代劇を思い起こして欲しい。たまに八百屋の場面なども写されるが、次の中で、江戸時代になかった野菜とは?
  ①小松菜  ②大根  ③白菜 ④胡瓜
  ヒント:ちょっと意外。

5.最強の力士と言われる大関雷電。その勝率は。
  ヒント:戦後最強の力士大鵬の勝率は8割3分である。

解答
1.ひ へ ん ら
ひは火に、へは屁に通じるので嫌われた。んは言いにくいから駄目、面白いのは、らであるが、これは隠語で男性器に通じたから使われなかったと言う。
2.味噌味
江戸の醤油は江戸初期には銚子や野田で作られ始めたが、値段が高かったので鰹節を味噌で煮出したような汁が使われることが多かったようである。今でもうどんなどは味噌味で食べるし、違和感はなかったと思われる。
3.からすみ うに このわた
肥前のからすみ、越前の塩うに、三河のこのわたが三大珍味とされた。ウニは珍味から人気商品へと栄転しつつあるが、からすみ、このわたは、今でも珍味である。
ちなみに、こもわたはナマコのはらわたの塩から、からすみはボラの卵巣を塩漬けしたあと干したものである。
4.白菜 
意外な気もするが、白菜が日本に伝わったのは明治になってからである。白菜は中国が原産で日清戦争の後、日本に伝えられたが、最初はうまく育たず、普及したのは大正に入ってからだという。
5.9割6分
197CM、169kgという抜群ではあったが、その体格を生かし、45歳に引退するまで、この成績を残したのはすごいの一言である。
当時、横綱は江戸城においての展覧相撲の際につけられる称号であったため、展覧相撲の機会のなかった雷電には横綱位がないのである。

いかがだったでしょうか?

クイズ大江戸風俗往来  久染健夫監修 実業之日本社